ソガイ

批評と創作を行う永久機関

饒舌な感想『BAMBOO BLADE』

 最近少し更新が滞っていましたので、リハビリではないけれども、軽めの感想記事を書いていきたいと思います。

 

BAMBOO BLADE』(以下『バンブレ』)はやや古いかもしれないが、アニメ化もしたことがありますし、けっこう有名な作品なのではないでしょうか。僕は高校時代に、レンタルDVDを借りて観たのではなかったでしょうか。それはともかく、どうしていまさらこの作品を? という疑問が想定されるかと思いますが、それは先日、ブックオフさんがウルトラセールをやっていたことが理由です。そこで、地元にあるブックオフに『バンブレ』全14巻、しかも一冊108円で揃っていることを知っていた私は、これはいい機会、と思い、まとめ買いをしたわけです。

 これはどんな話なのか、と言いますと、題名が、逐語訳すれば「竹刀」となることからもわかるように、剣道ものです。家が剣道の道場であり、その実力も折り紙付きである高校1年生、川添珠姫は、しかし彼女にとって剣道とはお父さんの手伝いでありまして、だから剣道について明確な目標はなく、部活動にも入っていないのでありました。室江高等学校の剣道部は、いたって普通のゆるい部活。ちゃんとした部員がいまやほとんどいない、零細運動部でした。顧問である石田虎侍(コジロー)は、自身も剣道経験者で、学生時代には相当打ち込んでいた剣道バカだったのですが、いまやそんな熱意は見る影もなく、ボロアパートでカップ麺をすすり、生徒のことよりも自分の生活のことばかりを考えている、貧乏先生。ちなみに担当は政治経済。そんなコジローが、かつて自分が破った先輩、石橋。その先輩も教師で、剣道部の顧問をしているのですが、とにかく、その先輩とある賭けをすることになる。それをきっかけに、室江高等学校剣道部にはさまざまなメンバーが集まっていき、剣道を通し、各々が自分の道を見つけていくく――。

 というわけで、ある面では、これは数多ある「女子高生部活もの」ということもできるのでありましょう。かなり露骨に、男は排除されますし。(なんて、原作者も言ってはおりますが、ところどころ、男にスポットライトがあたる話もあるのです。)そしてまた、「スポ根もの」とも、もしかしたら言えるのかもしれない。

 ところで、この物語の主人公は、いったいだれなのでありましょうか。川添珠姫。それは間違いないでしょう。第一巻の表紙ですし。また、物語も、彼女にスポットの当たったものが多い。彼女の成長。それはこの物語の大きなテーマです。それは認めたうえで、しかし、この物語のもうひとりの主人公とは、顧問であるコジローだとも言えるのです。

 そもそも、この物語の目標といいますか、テーマといいますか、とにかく、軸となるものはなんなのか。あの、週刊少年ジャンプの有名なスローガン「努力・友情・勝利」(順番は忘れた)なんかはどうでしょう。これも悪くはない。事実、そういった面もあるにはあるのです。ただ、『バンブレ』について言えば、これは葉っぱの部分。根っこ、幹は、またこれとはべつ。

 「大人(になる)とは?」。これが、この物語の大きなテーマです。物語の合間合間で繰り返し問われるこの問い。物語に一貫して流れているこの問いが、この物語を支えているのです。そしてこれが、「ダメな大人」であるコジローがもうひとりの主人公である理由といいますか、裏付けのようなものにもなるのです。

 こうしてみると、なんてあおくさいテーマでありましょうか。しかし困ったことに、このようなテーマを愚直に描こうとしている作品が、私はけっこう好きなのであります。

 コジローは、はっきり言いまして、ダメな大人です。なにかに本気で打ち込むこともなく、だらだらと適当に生活しています。(しかし、なんだかんだ彼は教師としての仕事はしっかりこなしているのだから、それはたいしたものだ、と思います。)そんなコジローも、かつては剣道に打ち込んだ日々があった。そのときの熱意を、自分はいつから失ってしまったのだろうか。大人になったから? たしかに大人になれば、好きなことばかりを考えてはいられない。お金や仕事、はたまた老後。考えなければならないことは山ほどある。それと妥協しながら生きていくしかない。しかし、そんな自分の姿は、子どもたちからみるとどんなふうに映るのだろうか。子どもたちは、そんな大人に憧れるだろうか。本当の大人って、そんなものなのだろうか。

 この物語では、ふたつの大人像が表れている。

 ひとつは、成人。つまり、時間が勝手に与えてくれる大人としての地位。ひとは、成長すれば勝手に大人になる。たとえばこれは、「大人になるっていう事は/ビールが飲めるって事だ/それだけだ」(14巻)なんて台詞にも見られる。大人になると、考えることが増える。そして、いつしか先のことを考えて、力をセーブするようになる。明日は仕事だから、朝早いから。子どもはちがう。常にいまに全力なのだ。それをコジローは「幼い強さ」(8巻)と言い、かつての自分の強さだとした。対して、いまの自分は「大人の弱さ」でしかない、と。

 ここで、もうひとつの大人像が生まれる。こっちが重要で、それはすなわち「大人の強さ」。

 こういった物語のなかで、「大人」というものは、現実に妥協し、自分を捨て、情熱を失った、社会に揉まれて擦り切れた存在、として描かれることは少なくない。「もしそれが大人になるということなら、僕は大人になんてならなくていい!」的な台詞は、漫画、アニメ、ドラマに限らず、よく耳にする決め台詞でもあります。しかし、正直いいまして、私はこの種の台詞があまり好きではない。はっきり言いまして、それはただの居直りに過ぎないのではなかろうか。あるいは大人の観点から考えると、自分の現状は大人になってしまったことに起因するのだ、と大人というものに責任を転嫁しているだけではなかろうか。そんなふうに思ってしまうのであります。いや、小学生くらいまでは、こういうのもまあ好きだったこともあったのでしょう。しかし、大人というものに責任を押しつけること、これは非常に簡単で、楽なことなんですね。なぜなら、批判的に語られる「大人」というものには、それでもぜったいに拭い去れない特権といいますか、高みから見下ろす、その台のような文脈、こんなときは横文字を頼ったほうのがしっくりくる、コノテーションがあるわけです。要は、安全圏。それはずるいのでは?

 これは大人と子ども、というものには限らない話ではありますが、なにかひとつのものを礼賛するときに、なにかそれに対置するもの、いってしまえば悪のサンドバッグを用意してそれを殴り続けること。それは感情的にはこれ以上のものはない、といったところではあるのです。それは僕もわかります。けれども、いったん落ち着いてみると、それはけっこう醜悪なものでもあります。『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子)ではありませんが、殊に「大人」という、ある意味これは逃れられぬ場所に置かれたとき、そのなかで苦闘する姿勢というものに、いま現在の私にはまだまだそれが欠けているからでしょうか、憧れを抱いているのであります。(逆にいえば、いじめやらそういったものからは逃げたっていい、と思っている次第でもあります。)

 かつての情熱を失ったコジローが、いまいちど立ち上がるために必要なことは、かつての「幼い強さ」でがむしゃらに突き進んでいた自分を思い出すことではなくて、いまの自分にはまだない、「大人の強さ」を見つけることなのだ。現在の自分のダメさを自覚したうえで、彼はそういうのであります。さきほどはダメな大人と言いましたが、それに気づいた彼はよほど立派なのでは、と思ったりもする。

 このときの大人というものは、それこそ、子ども・若者の目標としてある存在、ということになりましょう。彼が目指すべきはそこにある。そのために彼は、かつて自分が情熱を捧げた剣道、そして目の前で、剣道を通じて成長していく子どもたちを見るのであります。物語上、彼が教師である所以もそんなところにあるのかもしれない、とは深読みも過ぎる、というものかもしれませんが。

 そして、コジローはその大人というものを、いろいろなものから学んでいく。数年前に酒屋をたたんでコンビニを経営している両親や、厳格な指導方針を貫く師範。そういった、自分よりも年上のひとからももちろん、学ぶ。

 同時に、これは象徴的なんだろう、と思いますが、彼は若者たちから、大人の姿を学ぶといったことも多い。ここではふたつのエピソードを紹介したい。どちらも、多少のネタバレにはなってしまうかもしれないが、それでも実際に読んだときの心の動きは変わらない、と思っている。

 ひとつ。コジローの先輩が臨時で顧問を務めている、もうひとつの学校、鎌崎高校との合同稽古から。

 鎌崎高校はいわゆる不良校で、タバコを吸っている生徒も少なくない。その剣道部は、部長の岩堀を筆頭にあまりにも不真面目。岩堀は、かつては真面目な剣道少年だった。警察官であるおじがの剣道の実力者であり、そんなおじに連れて行かれた試合で女子に敗れたときにも腐らず、鍛錬を続ける少年だった。しかし、自分を負かした少女が、いとも簡単にほかの女子に敗れる。そのとき、彼のなかでなにかが終わった。以来、真面目に努力するのは、真面目にやって負けるのはかっこ悪い。適当にやってれば負けるのが当たり前。適当にやっていればだれからも期待されない。そんな「軽い」人生を志向するようになった。

 岩堀の提案で、2校は男女混合の七本勝負、という変則的な練習試合をおこなうことになる。このときの室江高校は、珠姫や勇次、聡莉という実力者はいるものの、初心者も少なくなく、お世辞にも強いとは言えないチームだった。鎌崎高校でも、頑張れば勝てるくらいのレベル。少なくとも、全敗なんてことはあり得ない。しかし鎌崎高校は、大将の岩堀に回るまでに六連敗。苛立ちが募る。しかし、それはいったいなにに対する苛立ち?

 大将戦。岩堀対珠姫。岩堀は簡単に二本を取られて負ける。これで試合は終わり、になるはずだった。しかし岩堀は、面紐がほどけてたから、と難癖をつけて取り直しを求める。「俺は一体何を言ってるんだ…?」。岩堀自身、自分がなぜそんなことを口走っているのか、わからない。

 コジローと珠姫はそれを受け入れる。再戦。敗れる。胴の紐が緩かった。再戦。敗れる。手首の返しが間違っていた。再戦。敗れる。自分の本来の戦法が取れていなかった。再戦。敗れる。違う。再戦。敗れる。違う。再戦。敗れる。……

 自分はこんなものじゃない。本当はもっとやれる。もっと早く動ける、もっと鋭い太刀さばきができる、腕が振れる。もっと強いはずなんだ。なのにどうして。俺はこんなものじゃない。格好を気にしてクールを気取っていたはずの岩堀が、人目もはばからず絶叫する。できない、自分に対する苛立ち。本当はもっとできるはずなのに、どうしてできない? それは努力を怠ったから。格好つけたふりして、いまに打ち込むことをしなかったつけが回ってきたから。それはだれのせい? 全部、自分のせいではないか。

 そんな岩堀に、コジローは声をかける。「若いうちから手を抜く事なんて覚えるんじゃない」「まだガキなんだから後先考えず全力でやってりゃいいんだよ」「今楽ばっかしてると」「大人になってから本気の出し方忘れちまうぞ」。

 これは、岩堀に対する助言であるのと同時に、自分に対する戒めでもあるのだろう。その後、コジローはこのときの事を振り返って、岩堀の試合を見ていて、自分のなかでなにかが変わった、と言う。そのとき自分が思い出したのは、たぶん、かつての自分が持っていた「幼い強さ」、それとはまた少し違う「なにか」。

 

 もうひとつ。沢宮エリナの物語。バラエティ番組を中心に人気沸騰中の芸能人である彼女でありますが、彼女には、相当な剣道の実力者である、というもうひとつの顔がありました。彼女の出番は物語の終盤にあたるのですが、この終盤の、通称「バニ学編」、実は賛否両論といいますか、むしろ評判があまりよくなかったりします。主要人物が脇に置かれてしまう、演出がくどい、といったところでしょうか。まあ、わからなくはない。

 しかしながら、この「大人とは?」というテーマからすると、この話はどうしても外せない。

 エリナ、本名は山田梅子。彼女の剣道の物語には、ふたりの人物が大きく関わっている。ひとりは父。もうひとりは、一度も勝てなかった宿敵、榊心(さかき・うら)。

 彼女の父親こそ、剣道をやりたい、という彼女の背中を後押しした人物でありまして、だれよりも彼女の剣道を応援してくれたひとでありました。試合に負けて腐っていたエリナに、負けて悔しいと思えるなら、それは好きって証拠だ、とさとす。そして言う。「負けても悔しくなくなったら/その時はもうやらんでええからな」、と。

 そんな、だれよりも彼女のよき理解者であった父は、中学生のときに亡くなる。そのとき、家計を支えるために一度はやめようと剣道。しかし、父の思いを知り、努力を続ける。やがてその努力は、一度は敗れたウラに勝つために。しかし、最後の試合でも彼女には及ばない。幾ら努力しても、彼女には勝てない。そして、エリナは竹刀を置いた。

 そんな彼女におとずれた、ウラとの再戦の機会。ウラもまた、べつの理由で竹刀を置いていた。これはバラエティ。番組には、当然台本も用意されている。自分に求められいる役割は、全力を出すことではない。それをわかったうえで、彼女は覚悟を決めて、この収録に挑む。

 結果として、彼女のとった行動は、番組の構成をめちゃくちゃにするものだった。仕事をする者として、それは許されるおこないではない。それは理解している。以後、すべての仕事を受けられなくなっても、仕方のないことだと自覚している。芸能界を辞めろ、と言われるなら辞める。それだけの覚悟も要する。その上で彼女は、父との約束。番組の演出のためとはいえ、剣道でわざと負ける、などという剣道を、父の想いを冒涜するような行為もしたくない。負け続けてきたウラに、これ以上負けるわけにはいかない。だから、全力で戦う。と同時に、父の言葉を思い起こして、「勝てとは/一度も言わなかった」「お父さんは/剣道を楽しめと言っていた」「ただ/楽しめと」。

 剣道が大好き。ウラに負け続けるわけにはいかない、という意思。芸能人としての立場。仕事人としての責任。周りにかける迷惑。そのうえに、剣道を楽しめ、という父との約束。いくつかは相反するそれだけのものを、つまり、山田梅子としての自分と、沢宮エリナとしての自分、その両方を彼女はすべて受け入れ、そして背負っている。そのうえで、戦っている。

 彼女の戦う姿を見ているコジローは、思う。

「エリナは/この場に様々なものを背負い立っている/仕事から逃げるわけでも/投げ出すわけでも/忘れたわけでもなく」「その身に抱え込み/立っている」「こどものようにただがむしゃらなわけではなく/しっかりと自分と周りを見て/考え/覚悟を持って立っている」「それが自身の剣道に現れている/現れ始めた」「全てを受け止め/なお全力を尽くす」「それが――大人の強さ」

 「幼い強さ」の発展型としての「大人の強さ」。すべてのものを受け止め、そのうえでまだ前に進もうとする、気概と覚悟。ここでは、「幼さ」と「大人」は対立するものではない。この「大人の強さ」を持つものの姿こそ、若者が憧れる姿ではないだろうか。だから、エリナの試合を見ているものは、下は珠姫たち高校1年生、うえは業界の酸いも甘いも知り尽くしたベテランのプロデューサーまで、みな、胸を打たれる。打たれざるを得ない。その姿はきっと、あらゆるひとが目指すべき「強さ」なのだから。

 「大人の強さ」を教えてくれたのが、沢宮エリナという若者であった、ということは、非常に象徴的といいますか、おもしろいところと言えましょう。

 

 さて、このアウトラインでみると、『バンブレ』という物語は、コジローを中心に見るのならば、情熱を失って適当に生きているコジローが、岩堀の姿から、まずはかつてのがむしゃらな「幼い強さ」を振り返って、まだ名前はわからない「なにか」をつかみ、沢宮エリナの姿から、その発展型である「大人の強さ」を教えられる。そういった物語なんだ、と言うことができるのかもしれません。

 回復の物語であると同時に、成長の物語でもある。なんともまあ、見事なプロットではないでしょうか。ここではさすがにやりませんが、『昔話の形態学』のウラジーミル・プロップ、あの31の機能分類も、けっこう当てはまるのではないでしょうか。

 

 さて、しかし、ここにはもうひとりの主人公がいました。川添珠姫です。ここでは彼女の物語にまで触れる紙面の余裕はありませんが、当然、彼女だって重要な存在です。そして、珠姫の物語とコジローの物語は、ただ並行しているのではない、交差するのであります。

「大人の強さ」を知ったコジロー。教師でもある彼は、珠姫にいったいどのような影響を与えるのでしょうか。「大人の強さ」を持つ者は、若者に憧れる者である、とさきほど言いましたが、彼が「教師」という職業であることも相俟って、それが大きなヒントです。コジローが「大人の強さ」を知った、というところだけでは終わらない。そこで彼は、ひとつの「達成」をも成し遂げるのです。

 さんざん物語の中身を話してきましたから、まあここくらいは、「読んでみてからのお楽しみ」ということにしておくことにしましょう。

 

 

 まったくの余談ですが、鎌崎高校剣道部の副部長、近本成美。彼女、ちょい役なんですけど、すごくいいキャラをしています。好きです。

 (文責 宵野)