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文学を歩む~明治四年『安愚楽鍋』仮名垣魯文~

 仮名垣魯文。名前を聞いたことがあるひとは、それなりにいるだろう。日本史を習っていれば、いちおう出てくる人物ではある。『安愚楽鍋』は、そんな彼の代表作、と言ってもいいだろう。ちなみに「安愚楽鍋」とは、気軽に食べられる牛鍋のことを言うらしい。文明開化のシンボルともなっている牛鍋。牛肉を食べさせる店が、至るところにできた。当時の人間にとって、牛の肉を食べることは、先進的な西洋文化に簡単に触れられる、ひとつの手段だったようだ。

 仮名垣魯文は、明治に入ってもまだ残っていた戯作文学、その最高峰の人物と言ってしまってもいいだろう。文明開化の東京、その風俗を描いた『安愚楽鍋』にも、その趣はしっかり残っている。たとえばその冒頭近く、前書きのような箇所から。

 

昔々の里諺に。文盲爺のたぬき汁。因果応報穢を浄むる。かちかち山の切火打。あら玉うさぎも吸物で。

(むかしむかしのことわざに。ももんじじいのたぬきじる。いんがおうほうけがれをきよむる。かちかちやまのきりびうち。あらたまうさぎのすいもので。)

 

 読めば分かるが、明らかに五七調だ。非常にリズムが良い。その方面には明るくないのだが、これは落語というか、講談の調子が残っている、といえるのではないだろうか。これは、言文一致小説のはしり、とも言われる、二葉亭四迷浮雲』の冒頭などにさえも、色を残している。(「千早振る神無月ももはや跡二日の余波(なごり)となッた」(新潮文庫))

 さて、肝心の内容についてだが、非常に乱暴に、そしてざっくりまとめてしまえば、文明開化の時代のなか、市井のひとびとが新しい文化にどっぷりつかっている様子が、牛鍋を食べているところを中心に記録されている、といったようなものだ。

 いやあ、この牛ってやつの肉はうまいねえ。西洋では前から食べられていたみたいだけど、なんでいままでこんなうまいもの、おれらは食べてこなかったんだろう。文明開化ってやつのおかげだ。昔は、肉を食うなんて野蛮だ、とか野暮なことを言っていたもんよ。蒸気車ってもんも、ロシアにはあるらしいが、あれは感心だね。なか暖かいから、寒くても移動できる。すごいよなあ。あ、お姉さん、もう一杯。葱も頼むよ。

 これが、最初に収められている「西洋好の聴取」を、ざっくりとまとめた内容である。しかも驚いたことに、この話で語られている男、なんと「ヲーデコロリ」、つまりオーデコロンをつけている。まあ、なんとも新しいもの好きというのか。

 明治も4年の段階で、これだけの被れっぷりようは、もはや感心するしかない。しかし、もしかしたらこれは、なぞの西洋信奉者が多く存在する現代でも、変わっていないのかもしれない。たとえば、「○○、日本初上陸!」といったような。

 

 閑話休題。さて、このような調子でだらだら話しているだけの作品であるので、なにをどう紹介すればよいのか困る。ただ、ひとつ不思議な章があったので、それを紹介しよう。題して「当世牛馬問答」。擬人化された牛と馬が、語り合っている小話である。

 これもざっくり紹介することにしよう。

 

 馬「牛さんよう。お前さん、最近出世して調子乗っているみたいじゃねえかよう。ずいぶん西洋風になったものよ」

 牛「お馬さんこそ、最近は立派なお車を引いてらっしゃるではないですか。僕らなんか、生まれてすぐ鼻に綱つけられて、やがて横浜に売られて、しまいには人間の腹のなかよ」

 馬「いやいや、牛さんね、そもそも、あなたに荷車を引かせるなんて、もったいねえ。本当は人間さまに食べられるために生まれてきたのに、きみは大きな角もあって、力があるものだから、人間が、重い荷物でも背負わせよう、といままで使ってきただけのことよ。あなたは、人間に食われて、万物のからだを養うことが、天への奉公よ。そっちのほうがよほど有意義。おれなんか、人間に食われたくっても、食ってくれないものさ」

 牛「そういわれると、そんな気がしてきたよ。『モウモウぐちは云めえアゝ牛のねもでねえ』」

 

 最後の二重かぎ括弧のなかは、原文ママ。「牛のねもでねえ」は「ぎゅうのねもでねえ」と読む。ただの駄洒落である。

 

 『安愚楽鍋』は、文明開化期の風俗を知るための資料として重要視されている作品でもあるらしい。たしかに、そんな一面もある。まあ、そういうところをあえて取ったのだろうから仕方ないが、ずいぶんとみんな浮かれているなあ、という感想を私は抱いた。

 牛鍋とは少し違うが、すき焼きを食べたくなってきた。𠮷野家の牛すき焼き丼あたりでどうだろうか。

 ちょっとした安愚楽鍋気分が、味わえるかもしれない。

 

底本 『現代日本文学全集 第一篇』改造社 山本三生編 昭和6年(適宜、旧字を新字に改めた。)

 

(文責 宵野)