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文学を歩む~明治三年『西国立志編』~

 この世には、数え切れないほどの名作がある。小説好きなのに、それも読んでいないのか、と言われることも少なくないが、そんなことは物理的に不可能だ。

 かといって、気になったものだけを読んでいればいいか、となると、それも少し違う気がする。そもそも、それだって難しい。選択肢が、あまりにも多すぎるからだ。

 だから、好きなものを読むのと並行して、ある程度体系のある読書をしていく、というのも、きっと有意義なものなのではないか。

 というわけで、明治元年から一年に一作ずつ、その年に発表された作品を読んでみてみよう、というのがこの企画だ。

 このブログにおいて、私のその姿勢は一貫しているつもりではあるのだが、できるだけ、前知識を持たないフラットな読み方をしてきたいと思っている。

 というのも、これは読書に限らないことではあるのだが、現代人は、当然私自身も含め、情報を持ちすぎていると感じているからだ。頭でっかちになると、かえって身動きが取れなくなることも少なくない。情報が多すぎることで、実は選択の幅は狭まっているのではないか。だって、Amazonでレビューがまったく付いていない作品や、星が低い作品を、そう読む気になるだろうか。知らなければ、手に取っていたかもしれないのに。あるいは読み方だってそう。いわゆるカノン的な読み方は、どうしても力が強くなる。僕は、それを少しずらしたい。ただ、小心者である僕は、正典の強さに知らず知らずのうちに負けている。それゆえに、ある意味では、無知ゆえの力、を借りているところがある。*1

 

 もちろん、最終目標は平成30年の作品までいくことだ。しかし、その前に平成30年が、さらにいえば平成が終わってしまう可能性も、けっして低くない。主に、短・中編くらいの長さの作品を選ぼう、と思っているから、なんとかなるかな、とは思っている。

 なのだが、そう言いながら、早速頓挫しかけている。明治初期の作品は、活字化されているものを入手することがなかなか困難なうえ、なんとか原本の複製を閲覧できたところで、くずし字が読めない。漢文も厳しい。このままでは企画倒れになりかねない、ということで、坪内逍遥が出てくるあたりまでは、つまみ食いのようにやっていくことにする。明治21年に、二葉亭四迷訳の「あひゞき」が出る。日本近代文学の始まりはやはりここにあるようだ。それ以前は、仮名垣魯文に代表される江戸の戯作の雰囲気が、色濃く残っている。

 ところで、年表を見ていて一番おもしろかったのは、明治7年、「開化東京膝栗毛」という作品が万亭応賀により発表、その翌年、「東京開化膝栗毛」という似たり寄ったりの題名で、笑門舎福来が作品を発表している。「膝栗毛」トリビュートと言えるような流れがあったとはいえ、いまの世でやれば、あまりにも堂々としたパクリである。著作権の概念がなかった時代、と端的に言い表すことができよう。

 

 さて、記念すべき第一回は、さっそく明治は3年。スマイルズ著、中村正直訳『西国立志編』を採り上げよう。

 名前だけなら聞いたことはある、というひとも多いだろう。日本史では必須レベルの用語だ。原著では、『自助論(セルフ・ヘルプ)』という題の作品であるこの本の内容は、ざっくり言ってしまえば、欧米の有名な成功談や立志談、なかには失敗談を、300以上集めたものである。

 勘違いしないで欲しいのは、この「自助論」という言葉の意味だ。これは、スマイルズが言っていることでもあるのだが、「セルフ・ヘルプ」は、「セルフィッシュネス」ではない。つまり、自分の都合のいいようなことだけやればいい、と言っているのではないのだ。この「セルフ・ヘルプ」には、自分の職務を果たすなかで他人を助けることも、おのずと含まれる。日本語で少しそのニュアンスも含む言葉があるとすれば、それは「情けは人のためならず」といったところだろうか。

 明治五年、福沢諭吉の『学問のすゝめ』とならぶ、明治の二大啓蒙書のひとつである『西国立志編』であるが、ある意味では、書店でよく見かける自己啓発本の先駆け、といったようなものと言えるかもしれない。

 ここでひとつ断っておきたい。私がこれから扱おうとしているのは、日本で、当時の青少年に広く読まれ、教科書になるまで大ヒットした、『西国立志編』である。

 どうやら、中村正直の訳には、彼の儒学思想に基づく改変や、選択があったらしい。だが、それもそれ。

 中村は、この本を何度も何度も読み、最終的には半分近くを暗記するほどにまでなったという。それは、ある意味では彼は『セルフ・ヘルプ』を自家薬籠中の物にした、ということであり、その、彼の消化、解釈の結果が翻訳作品『西国立志編』に現れている、と考えることもできよう。あるいは、ついさっきも説明したが、著作権の概念が現代とは異なる、ということでもあろう。

 

 さて、私が今回底本として使ったのは、講談社学術文庫の『西国立志編』(1991年)である。その、前書き、とでもいうのだろうか、紹介文のようなものを書いている渡部昇一の言葉が、まずおもしろい。スマイルズが、本国イギリスではほとんど話題にものぼらない、忘れられた人物になっていること、対して日本では、『西国立志編』の紹介もありその名が忘れられたことのない、と述べてからの一文。

 

しかしスマイルズは日本では忘れられたことはない。読む人はさすがに稀であるが、中村敬宇によって、明治四年に『西国立志編』として訳され、明治の日本人に巨大な影響を与えたことは、広く知られていることだからである。(4-5)

 

 敬宇は、中村正直の号であり、明治四年とは、出版が終わった年のことだと思われる。それはともかく、「読む人はさすがに稀であるが」と初っ端で言われている本をいまから読もう、というのだから、なんだかおかしい。しかもこの本、500頁を超えているのだ。

 ただ、この作品は細かく章がわかれていることもあって、カタログのように読むこともできるものになっている。25頁(講談社学術文庫)にもわたる目次を見て、気になったものがあればそれを読む、という使い方もできるだろう。

 

 さて、明治3年、なにより、原著は1859年、日本では安政の大獄が起きた年に出版されたものである。いかんせん古くさいのではないか。そんな不安は、たちどころに消える。

 内容は普遍的なものである。勉学や金銭、仕事に対する態度を、数々の成功例をひきながら紹介しているのだが、それが、成功者の自慢話に陥ってはいない。もちろん、そのように努力したからといって、そういった成功者たちが成しえたような大きな成果をあげることはできないかもしれない。しかし、心構えとしては、けっこう単純なことを説いているものが多い。ざっくり言えば、「約束は守りなさい」「借金をしてはいけない」「けちはいかん」「継続は力だ」「権力にあぐらをかいてはいけない」など。これは、市井の人間にだって必要なものばかりなのだ。

 

 すべては紹介できないので、いくつか私が気に入ったものを挙げていこう。

 

 第二編 十二「ウィリアム・リー、ならびに織襪機」から。

 「襪」とは靴下のことである。リーは、靴下織機を発明した人物であるらしいのだが、彼をその発明へと駆り立てた理由が、まずおもしろい。

 

 リーかつて村中の少女を見て、深く恋愛し、その家に行きたるに、少女つねに襪を織り、リーを待遇すること、簡慢なりければ、リーたちまち憎怨の心を生じ、いでや新機器を造り、彼の手工をして、利を失わしめんものをと、三年の間、織襪機を作ることに、心力を労したり。(122)

 

 なんとも子どもじみた動機である。しかし、それで三年間もその発明に没頭できるのであるから、たいした人物だ。余談だが、子どもじみた、とは言ったものの、私はこういった話が大好きだし、愛おしいとすら感じる。動機にまでポリティカルコレクトネスを持ち込まれては、やはりたまらない。

 さて、その織襪機に改良を重ねたリーは、エリザベス女王にこれを持ち込む。国の施策で、大量生産してもらおう、と思ったのだろう。しかし、これを見たエリザベス女王の言葉は、現代にも繋がる皮肉となっている。

 

「この機器行われなば、貧人手工の利を失うべし」(123)

 

 これは1600年頃の話なのだが、現代の読者も、まったく笑えない。

 

 第十一編 二十二「みずから修むることは、地位に関らざること」より

 これはもう、冒頭の二文に限る。これはなかなか響く。

 

みずから修むることを、もしも誤りて、世上の富貴を得るための方法と思うときは、これを降し賤しからむること、これよりはなはだしきはなし。もしまたその志、一身を善くするに止まり、世上の職業を避くるは、さらに大いなる誤りなり。(426)

 

 付け加えて、同章 二十三「卑下なる自修の説」より

 

みずから修むることを、あるいは世上利達の階梯と思い、あるいは智見を広める楽趣に供するの具と思える謬説世に行われ、品行を高尚にし心思を開展することに着眼せずして、かかることをもって目的とするは、自修のことをはなはだ卑下なる田地に落ち沈ましむるなり。(427-428)

 

 これ以上はなにも言うまい。

 

 最後に、第十三編 十八「容貌辞気の修め善くすべきこと」より

 

容貌辞気は徳行の華采なり。忠順なる言語、忠順なる顔容は、大いに徳行の価をして高らしむるなり。たとい善徳の実ありとも、酸面薄相(無愛想)をもって他人を待するものは、けっして人に親付せらるべからず。またたとい心に邪悪なしといえども、傲慢なる態をあらわし、人に対して忤逆不快なる言を道うものは、だれにも驩愛せらるべからず。また一種の人、偽りて謙譲をなし、実は己が高大を示さんと欲するものあり。もっとも人をして堪えざらしむ。(516)

 

 私は、それを容姿に限らないのであれば、ひとは見た目が九割だと思っている。根はいいひとだから、と言われても、人間、それほど多くのひとと深いお付き合いはできない。否定的な意味ではなく、みな、ある程度は表面的な交際になる。第一、同じ屋根の下に暮らす家族のことすら100パーセント理解することはできないのだから、いわんや赤の他人は、である。

 ここでいう見た目には、顔つき、言葉遣い、語気、行動、仕草、さらには雰囲気といったものまで包括される。「容貌辞気」も同じく、そういうものを意味しているのではないか、と私は理解している。そのひとの人間性というものは、そういった些細なところからにじみ出てくるものなのだろう。良くも、悪くも。

 

西国立志編』の言葉は、驚くほど、いまだ色褪せない。それは人間の普遍性の証左であるだろうか。あるいは、近代人の成長のなさ、ということもできるのかもしれない。そんなことを考えた、読書であった。

 

 以後、作品について詳しく論じる、というよりは、このようにざっくばらんに、読んだ感想なるものを思い思いに記していこう、と考えている。ちなみに、そのスタンスとして参考となっているのは、宮沢章夫『時間のかかる読書』(2009年)である。横光利一「機械」を11年以上にも渡って読んだ記録、という「遅読」の極北とでも言うべき、凄まじい本だ。こちらも是非。

 

底本 サミュエル・スマイルズ西国立志編中村正直訳 講談社 平成3年 第28刷 平成20年

 

 参考文献『日本文学大年表 増補版』おうふう 市古貞次編 平成7年

 

(文責 宵野)

 

*1:これはひとによるだろうが、私の場合は、決まった目的やテーマの意識を持っていないときの方が、これは冴えている、おもしろいと感じられるようなアイデアや文章、読み方が生まれることが多い。単に勉強ができないだけ、とも言えるだろう。