ソガイ

批評と創作を行う永久機関

『味噌汁でカンパイ!』感想

 第一印象は、「おもしろそうだし、自分は好きだと思うけれど、果たしてネタが持つだろうか」という心配だった。あとは、「最近の漫画のなかでは、あまりにも地味で埋もれてはしまわないだろうか」。現在五巻まで出ていることを見れば、このふたつの懸念は杞憂だったようだ。

 『味噌汁でカンパイ!』(小学館)は、ひとことで説明すれば、想いを寄せている幼なじみの女の子が毎朝味噌汁を作りに来てくれる、コメディコミックだ。

 私などは、この設定ですでに惹かれたくちなのだ。それはさておき、流行りの言葉になるが、この作品はあまりにも「エモい」。いや、私はそれまでこの単語を一度も使ってこなかったのだ。そしていまだに、この作品に対して以外で使ったこともない。

 

 主人公の善一郎(善)は、幼いころに母親を亡くしており、父親とふたり暮らし。父親も仕事で家を空けることが多く、いつも菓子パンやコンビニのおにぎりなど、簡単な食事で済ませていた。そんな善一郎は、となりに住む幼なじみの八重に想いを寄せていた。しかし、八重の方は善一郎の気持ちを露も知らず、善一郎はどこかやきもきして過ごしていた。

 変化が訪れたのは、ある日の朝。勝手に家に上がりこんだ八重が、朝ご飯を作っていたのだ。ひとり暮らしを中心に、しっかりと朝食を摂らないひとが増えている、というニュース番組を観たことがきっかけだった。そこで味噌汁、具体的にはシジミの砂抜きを忘れたこと、ついでに善一郎が砂抜きをできることに対抗意識を燃やし、八重は、来る日も来る日も味噌汁を作りに来るようになる。

 ニュースがきっかけとしても、なぜこんなことを突然始めたのか。それは、善一郎が母親を亡くしたときにした約束だった。「ずっと善ちゃんのそばにいる!」。善一郎は「お嫁さん」になってくれる、と受け取っていたそれを、八重は、善一郎の「お母さん」になる、という約束として、それを果たす絶好の機会を得た、と思ったのだ。

 「まぁいいか。とりあえず今は、「母親」でも…」。友人以上、恋人未満の「お母さん」。なんとも絶妙な関係のふたりは、味噌汁を通して、関係を育んでいく――。

 

 となりに住む同い年の幼なじみ、小さい頃にした約束、主人公は基本、家にひとり、毎朝起こしにくる幼なじみ。設定だけを取り出すと、この作品は驚くほどにテンプレートといえばテンプレートだ。

 しかし、一般に「恋愛」や「青春」を下敷きに語られるそこに「家庭」の要素が入ることで、新たな魅力が生まれる。

 八重は善一郎の家の訪問者ではない。「お母さん」、家族なのだ。もちろん、善一郎は八重に、自分を男として意識して欲しいと思っていないわけではない。しかし、同時に「お母さん」としての八重も、肯定している。単純な「青春」や「恋愛」に収まらないのは、そこにある。

 そして、「お母さん」としての八重があることで、もうひとつの効果もある。この作品には、悪人がいない。思いやりにあふれる、温かい世界といってもいいかもしれない。だからといって、だれも傷ついていないわけではない。よかれと思っていても、だれかを傷つけてしまうことは、現実でもしばしばあることだ。ひとによって、「当たり前」が異なるからだ。善一郎にとっては、お母さんがいないのが当たり前だが、世間的に、中学生の子には両親がそろっているものと思い込まれている。

 このなかで、八重は一生懸命、善一郎の母親たろうとする。善一郎もまた、八重の子どもになる。無償の愛、と言う言葉がある。ふたりの関係が、まさにそうだ。それが本物の親子でないからこそ、親子の間で交わされる言葉や行動、感情の動きの尊さが改めてにじんでくる。

 ここで絶妙なのが「味噌汁」である。味噌汁と言えば、家庭の味の代名詞だ。家によって、入れる具や出汁がばらばらであり、その家の特徴が出る。「母の味」というやつだ。そして、「毎朝、俺に味噌汁を作って欲しい」という、常套句のようなプロポーズの言葉もある通り、「妻の味」でもある。そして、食事は生活の一部を担う。食卓を囲む。家族団欒の代名詞だ。善一郎と八重のあいだをつなぐものとして、これほど具合のいいものはないだろう。

 それにともない、善一郎と八重の距離感もまた、これ、というほかない。ふたりは同じ学校に通う中学生。この、中学生、という年齢が絶妙で、これが高校生だと、このくすぐったい感じの質が変わってしまうような気がする。

f:id:sogaisogai:20180221114651j:plain

 

f:id:sogaisogai:20180221114710j:plain

 

 (上、第二巻p90、91 下、同p98、99)

 

 上は、遠足で善一郎の分の味噌汁を八重が作って、渡しに行きたいのに行けない場面。恋愛事に疎い八重は、ただ渡しに行けばいいだけなのに、それができない自分に戸惑っている。典型的、といえばたしかにそうだ。しかし、これは主観になってしまうが、これが高校生だと、さすがにあざとくなってしまいそうだ。*1

 この作品、全体を通して言えることは、小さな変化や微妙な揺れ動き、である。当然、成長に伴う心身の変化。八重にとっての善一郎は、幼なじみから「お母さん」、そして、どうしてか気になる存在へ。同時に、変わらないものを肯定して愛おしむ。そうだ、「肯定」が根底にある。

 劇的な事件、というものはほとんどない。おそらく、多くの家庭では当たり前のこと、少なくとも社会的にそう思われているものの温かさを、幼なじみの「お母さん」の存在が、もう一度照らし出してくれる。ひとはそれぞれ違う。それはあたかも、家庭によって味噌汁の具が違うように。しかし、味噌汁はそんな違いも、そして、そのなかにあるさまざまな感情もひっくるめて、温かく包みこんでくれる。

 

 P.S. この作品には、味噌汁についての蘊蓄を交えた、グルメ漫画という側面もある。それが最初、ネタ切れを心配したところである。味噌汁一本で、そんなに語るようなネタが、しかも話に絡めながら、あるのだろうか。味噌汁は大好きだが、そこまで詳しくない自分には見当もつかなかった。一部を紹介すると、「しじみの砂抜き」「合わせだしを作る」「赤味噌白味噌」「かきたまとたまねぎ」「味噌汁に合う水」「冷や汁」「ブリのあら汁」「甘酒」、などなど。よくぞまあ、ここまでネタを探してくるものだ、と感心する。

 

(文責 宵野)

*1:もちろん、現実の高校生のなかには、いまだ恋愛事に関心がない、というひともいるだろう。しかしこれはあくまでもフィクションである。「まんが・ゲーム的リアリズム」(大塚英志)ではないけれども、少年・青年誌の高校生というものは、だいたい恋愛が関心事である。もっとも、これを言ってしまうと身も蓋もないのだが、私は中高6年間男子校育ちで、その期間、同世代の女子と話をしたこともほとんどないので、実際の中学生と高校生の違いなど、まったくわからない。