ソガイ

批評と創作を行う永久機関

コミックレビュー『給食の時間です。』 視点移動によって思い込みが露わになること

簡単な紹介 

 『給食の時間です。』は飯田による給食を題材とした漫画作品である。小学生たちが給食を通じて互いに影響を与え、成長していく様子が描かれている。

 本作はウェブコミック配信サイト『裏サンデー』や漫画アプリ『マンガワン』で掲載されていた。2017年12月には最終第3巻が発売され、完結した。

主要人物紹介

 以下の登場人物たちは小学校5年生である。ただし最終盤に6年生に進級する。

 佐野和彦 主人公と言っていいほど作品の軸をなしている。得意なものが何もないと自覚しており、あまり目立つ生徒ではない。

 岩谷実子 転入生。給食が好きでおかわりもよく食べる。母親は病死しており、父親と一緒に暮らしている。

 石丸あたる 中学受験をするために塾に通っており、勉強ができる。最初は佐野と岩谷の関係性をからかっていたが、すぐに二人と仲良くなる。

 阿久津洋介 小学生離れしているほど気が利く。また顔がよく運動もできるので、男女双方から人気がある。両親が離婚しているため、弟の面倒をよく見ている。

死体を転がせ

 唐突であるが、ミステリーの世界には死体をまず転がせという言葉がある*1。要は衝撃的な場面を見せることで読者を引きつけようというわけだ。ミステリー作品でなくても、この発想自体は様々なジャンルに応用可能だろう。例えばバトル漫画なら、最初から戦闘場面の描写を始めたりなど。

 そしてそのような発想が出てくるのは、まずもって読まれないとどうしようもないからだろう。このことを念頭に置いて、以下読んでもらいたい。

第1話のあらすじ

 本作の1話*2はそのような発想の真逆を行く。これから、その内容を詳しく説明しよう。

 佐野は気がつくと、給食の味を感じられなくなっていた*3。その原因は進級の際に友達と別れ、一人で給食を食べることの寂しさにあった。そんな折に佐野は給食の時間に誤って牛乳瓶を割ってしまう。その上、指を切ったので保健室に行く破目になった。

 岩谷は牛乳を保健室まで待ってきてくれるが、主人公は素直になれず拒絶する。 

 翌日、阿久津から主人公は意外なことを聞く。他の皆が嫌がるなか、岩谷さんが床にこぼれた牛乳を雑巾で拭いてくれたというのだ。

 このことがきっかけで、主人公は岩谷さんに提案する。一緒に給食を食べないかと。転入生の彼女もまたひとりで給食を食べていたのだ。その日に出たきな粉揚げパンから、主人公は久しぶりに感じる。甘い味を。

岩谷と佐野が給食を食べている場面

1巻 28ページより

死体を転がさない漫画

 以上のあらすじに衝撃的な展開は皆無と言っていいだろう。これは概ね作品全体にも言える。悪く聞こえるかもしれないが、派手ではなく地味である。実際に作者も1巻のあとがきで、「こんな地味な話場違いなんじゃ...」と自分の作品を評している*4。ちなみにこれはマンガワン投稿トーナメントの際の言葉なので、このその特殊性を割り引く必要はあるだろうが。

 本題に戻ろう。前述した死体を転がせという格言を裏がえして言えば、いわばこの作品は死体を転がさない漫画なのである。インパクトで勝負することを意図的に避けているような漫画なのである。

 そのような地味な作品にしか描けないこともあると私は考える。例えば上記の第1話には以下のようなさりげない描写がある。主人公が保健室に行く際に、楽しく給食を食べている同級生たちを見て、疎外感を感じるのだ。

 この辛さは一見大したことがないように思える。例えば、恋人や親友が死ぬことに比べれば地味に思えてしまうだろう。あるいは、そのようなことに比べれば、不幸の度合いが低いとさえ言えてしまうかもしれない。

 しかし、実際に体験している本人にとってはそんな客観的なことは大した問題ではないのだ。むしろこのようなありふれた、あるいは周りから見れば大したことがない辛さによって多くの人々が傷ついているのではないだろうか。言い換えれば、派手ではない不幸とでも言えば良いのだろうか。

 この作品はそんな辛さや不幸と、その解消を丁寧に描いている。そしてそれらの辛さが解消される際に、深く関わってくるのが給食なのである。

 また、以上の点とも関係するが、本作は心理状態の機微を丁寧に描いている。例えば第1話では佐野が友人に岩谷の様子を聞かれる場面がある。ここで佐野は後ろめたさを感じながら、彼女と大して仲が良くない風に振る舞う。これは石丸から、二人の関係性をからかわれていたためであった。

 仮に、衝撃的な展開の中でこんな場面があったらどうだろうか。こんな微妙な描写は消し飛んでしまうだろう。

知らない他人の顔 あるいは思い込み

 この作品は、徐々に佐野を始めとする登場人物たちが、互いを知り友達を増やしていく漫画でもある。つまり最初はあまり互いを知らないというわけだ。例えば前述した一話の佐野と岩谷さんもそうであった。

 とはいえ、登場人部達は同じクラスの同級生であるので、全く見知らぬ他人というわけではない。少しの面識はあるわけだが、それゆえに相手に先入観や思い込みを抱いている場面がこの漫画ではしばしば描かれる。

 例えば9話での石丸と阿久津のエピソードを例に出そう。石丸は学芸会の劇に出たくないために、仮病を使い学校を休む。石丸には優秀で優しい兄がいた。そして、父親が兄を引き合いに出して自分を批判することが心理的なストレスとなっていたのだ。

 そんな折、佐野と阿久津は石丸の家を訪ねる。阿久津は石丸に対して、劇の失敗程度で学芸会を休むのは大げさだと語りかける。ここで石丸は阿久津に大して怒りを露わにしてしまう。なんでも出来る、お前には自分の気持ちはわからないと。自分の兄と阿久津を重ね合わせ、兄と同じような自慢の息子だと考えたのである。

 そんな石丸の内心や家庭の事情を察した阿久津は意外な事実を口にする。実は両親が離婚しているので、父親とは一緒に暮らしていないというのだ。このことを知った石丸は唖然とする。

 阿久津が自慢の息子だという考えは石丸の思い込みに過ぎなかったわけである。ちなみに、この場面ではその思い込みが間違いであったということが明らかになっている。しかし、仮に事実であったとしてもそれは思い込みに過ぎないのではないか。つまり他人の事情を確認することもなく予想するという意味で。事後的に正しかったということがわかったとしても、それは結果論にすぎない。

 そんな思い込みが互いに交流することによって徐々にほぐされていく様子が、この漫画ではしばしば描かれる。相手のことを少しずつ知ることによって、先入観が崩れていくのである。

 そして、先入観が消えるということは他者の言動を評価する文脈が変わるということでもある。他者の言動が違った意味で見えてくるのだ。この漫画においては、否定的だったり、中立的だったりするものから肯定的な意味を持つものへと他者への評価が変化する。例えば、前述した石丸の態度がそうだろう。

 ちなみに、この漫画では概ね根っからの悪人というものが登場しない。その意味で言えば、この漫画の設定は非現実といえるかもしれない。相手を知れば知るほど、嫌になってしまう関係性というものも世の中にはあるだろうから。しかし、漫画の中でぐらいこんな世界があっても良いのではないか。

最終話

 最終話の描かれ方は印象的である。あたかもこの作品のテーマが詰め込まれているかのようである。ただし、給食はあまり出てこないのだが。

 最終話の語り手、あるいは視点は汐田純である。彼は進級の際に、佐野とクラスが別になった友達の一人である。2話で佐野に岩谷のことを聞いた友人の一人でもある。作中で佐野と一緒に登場してはいたものの、それほど目立った存在ではなかった。どちらかと言うと、主役格というより脇役である。また彼を中心にしたエピソードもそれまで一度もない。よって、脇役の中でも影が薄い。

 この点で最終話の語り手として、彼はかなり特殊といえるだろう。普通だったら主役格の佐野や岩谷が語り手になるのではないか。

 しかし、この語り手の選択が良い効果を生み出している。最終話では、汐田の思い込みが解きほぐされていくさまが描かれている。その思い込みの一部は、彼の友人の佐野や、石丸についてのことであった。

 最終話まで読んできた読者にとって、彼の佐野や石丸に対しての思い込みが誤りであるというのはすぐに分かる。つまり、ここでは視点移動による、情報量の差異が描かれているのである。

 ちなみに本作では話数が変わると度々、視点や語り手に相当する登場人物が変わる。だから、あの登場人物はこんなふうに考えていたんだなと、しばしば気付かされる。あたかも色々な登場人物の声が響いているかのようである。ある意味、私達が登場人物達に対する思い込みを修正しているとも言えるかもしれない。

 だが、最終話が特異なのは汐田が、彼独自の情報を読者に提供するだけではないということだ。読者からしてみれば当たり前の情報が、汐田にしてみれば驚きである。このことに読者は強く気付かされるのだ。彼がこれまで脇役であるが故である。

 このような読者との関係性とは別に、汐田からしてみれば時間経過による結果であるとも言える。クラスが別れた結果、彼が知らない佐野の一面が大きくなっていったということなのだろう。

 また、彼の思い込みは単に事実レベルというよりも規範意識あるいは価値判断基準にも関わっているのだ。汐田には同じ学校に通う幼馴染がいたが、現在疎遠になっていた。それは女子と遊ぶことが恥ずかしいという意識が原因であった。

 そのような価値判断レベルの思い込みが見られるのは汐田だけではない。例えば、前述した9話で阿久津は一年からずっと同じクラスだったのに、あまり話す機会がなかった、と石丸に指摘する。これに対する、石丸の心情の吐露はやや大げさに思える。

…そうだよ。

だって、ずっと住んでる世界が違ったろ。

2巻 59ページより。

 

 この場面からは以下のような石丸の思考が読み取れる。住んでいる世界が違うのだから、阿久津に語りかけても意味がないし、語りかけてはいけないのだと。

 しかし、これらの思い込みや規範が大げさに思えるのは、我々読者が大人である*5からかもしれない。全く異なる文化圏や時代の倫理的な規制を理解できなかったりすることがそのいい例だろう。

 そのような規範意識のせいで、生きづらさを抱えている人間は何も子供だけではなく大人にもいるだろう。いや、むしろ長い年月を生きてきた大人の方が強力かもしれない。例えば、偶然プライベートの場で上司に会ったとして、全く対等に接することが出来る部下などほとんどいないのではないか。子供から見れば、会社でもないのに奇妙だろうが。

 もちろん、規範意識がいつも悪い結果ばかりを生むわけではないだろう。しかし、時には人間の生き方の可能性を狭めることがある。あるいは人間の生き方の可能性を狭めるように働いてしまう規範意識も中にはある、と言うべきだろうか。

 本題に戻る。しかし汐田は佐野が岩谷と仲良くしている様子を目撃し、給食を一緒に食べていることを又聞きする。そうすることで別に天罰がくだるわけでも、なにか悪いことが起きるわけでもない事を知る。最後に汐田は幼地味に不器用ながら話しかける。

 また、これまで仲良く出来ると思っていなかった、石丸や阿久津が、自分の友人である佐野と仲がいいことも知る。こうして思い込みが、あるいは規範意識が崩れていくのだ。

最後に

 書評を書くにあたって、作品を読み返したのだがかなりの時間を取られた。初読時に気づいていなかった描写の細かさを多く発見したからである*6。実に丁寧な作品だと感心した。

 マンガワン最終話の作者コメントによれば、作者は新連載を準備していると言う。次回作が出版される日を期待したい。

 

文責 雲葉零

 

参考文献一覧

「コラム>「最初の一行目」で読者を惹きつけるには 」鳥影社ホームページ

https://www.choeisha.com/column/column24.html

(2018年1月26日最終閲覧)

 給食の時間です。(1)2016年 飯田 小学館

 給食の時間です。(2)2017年 飯田 小学館

 給食の時間です。(3)2017年 飯田 小学館

 

書籍からの引用は全て『給食の時間です。』からなので、書名や出版社名等は省略した。私が参照したのは全てKindel版である。

*1:どこで初めて目にしたのかは思い出せない。とりあえず参考としてそのような言葉が使われている出版社のページを貼っておく。

https://www.choeisha.com/column/column24.html

*2:ちなみに本作は「何時間目」という話数表記を取っているが、煩雑なので以下通常の話数表記で表現する。

*3:ちなみに心理的ストレスによって味を感じられなくなる、ということがこの漫画ではしばしば描かれる。

*4:1巻 199ページより。

*5:この記事を子供が読んでいるとはあまり想定していない。

*6:ただしアプリで読んでいたことも考慮しなければならないが。