ソガイ

批評と創作を行う永久機関

小沼丹『藁屋根』書評

  『藁屋根』(講談社文芸文庫 2017年12月)を書店で見つけ、頁をぱらっとめくってみると、「谷崎さん」の文字が目に入った。ほかにも「井伏さん」「広津さん」などの名前が出てきており、これは私小説的なものなのだろう、と思う。また、少し前に『村のエトランジェ』(講談社文芸文庫)を読んでいたことも相俟って、興味が湧いた。

 これは「竹の会」という短編のなかの話なのだが、少し読み進めて、自分の勘違いに気付いた。この「谷崎さん」とは、谷崎潤一郎ではなく、弟の谷崎精二のことであった。(もっとも、カバーのあらすじをちゃんと読めば「恩師である谷崎精二」としっかり書いてある。)

 谷崎精二の存在はもちろん知ってはいたものの、早稲田の教授であったことを除いて、正直ほとんどその功績は知らない。たしか小説も書いていたが、あれだけの兄を持ってしまい、大変だったろうと思う。

 

 小沼丹という作家は、しばしば「ユーモアとペーソスの漂う洒脱な文体」などと評されることがあるようだ。ユーモアはまだしも、ペーソスという単語を見聞きする機会はそうあるものではない。ペーソスは、哀愁、悲哀などを意味する言葉で、同じ語源を持つ言葉としてパトス、対になるものとしてユーモア(諧謔)がある。つまり、小沼丹は相反するふたつの要素を兼ね備えた文体を持つ作家、ということになる。正直なところ、最初、これがどういったものを意味しているのか、よくわからなかった。ということで、とりあえずはあまりこういった評価を気にせずに読んでいくことにする。

 

 小沼丹の作品には、「大寺さんもの」と呼ばれる私小説的な作品群がある。本書のなかでいうと、「藁屋根」「眼鏡」「沈丁花」の三作はそれだ。小沼丹を思わせる「大寺さん」の視点から語られる話は、よく私小説について説明するときに用いられる言葉、「身辺雑事」、についての話のように思える。本書の作者年譜(中村明)には、このような記述がある。1964年のことである。

 

一月、庄野潤三と熱海に玉井乾介を訪ねる。同月下旬、母涙死去。相次ぐ近親者の死に遭ってか、頭でつくりあげる小説に興味を失い、身辺に材をとった作品に気持ちが動くようになって、五月、大寺さんものの第一作「黒と白の猫」を『世界』に発表。(222頁)

 

 相次ぐ近親者の死、とは、前年に妻和子が急死したことを言っている。もちろん、ここだけを根拠に「大寺さんもの」への転換を見るのは早計というものだろう。たとえ現実をそのまま描こうとしたところで、そこには取捨選択や誇張などが意識しないうちに入り込んでしまうものである。しかし、大寺さんものの作品を読んでいて思うのは、解説で佐々木敦が指摘していることでもあるが、これが「想い出す」作品である、ということだ。まず、「藁屋根」の冒頭からして、大寺さんは想い出し、そして想い出せない。

 

その頃、大寺さんは大きな藁屋根の家に住んでいた。正確に云うと、郊外にある大きな藁屋根の家の二階を借りて住んでいた。大寺さんは結婚したばかりで、その二階が新居と云う訳であった。その二階の広さがどのくらいあったか、はっきり想い出せない。(「藁屋根」7頁)

 

 それにしても、その直後でこの部屋には、「黒く太い梁や棟が剝出しになっている。太い柱も何本か立っていて、階段の上の柱だけ、手の届く所が黒く光っていた」ことなんかをしっかり憶えているのだから、不自然といえば不自然である。

 しかし、得てして記憶とはそういうものであるのかもしれない。つまり、部分でしかないものが非常に大きな印象を以て私たちを捉える、ということだ。私にも覚えがある。たしか幼稚園の遠足でのこと。おやつとしてもらったマーブルチョコレートを、私は大事に大事に左手に握りしめていた。どこかの広場でひとりになったとき、その手を開くと、表面のコーティングはみんな剥げて、手のひらにべっとりついていた。その光景はかなり鮮明に憶えている。逆にいえば、その他のことはほとんど憶えていない。その日の天気でさえも。

 小沼丹の作品は、過去の自分の体験を描いているのではなく、過去の出来事を想い出す、その行為や状態を描いた話である。その点で、小沼の私小説はけっして破滅型のものにはならない、ということができよう。

 「想い出す」話であること、それを示す一節がある。

 

大寺さんは一度、マダムの家に行ったことがある。マダムの家に近い映画館で、何とか云う映画をやっているから観ないかと誘われて、大寺さんはふらふら観に行った。どんな映画だったか憶えていないが、マダムが眼鏡を掛けたのは憶えている。眼鏡を外すと序に半巾で眼を拭いていたから、悲しい話だったかもしれない。(「眼鏡」54頁)

 

 ここで大寺さんが憶えているのは、マダムだけである。記憶のなかでは、通常の因果関係、時系列は成り立たない。大寺さんの推測が正しいとすれば、悲しい話だったからマダムは涙を流し、半巾で眼を拭いた。しかし大寺さんが想い出す方向では、マダムが眼鏡を外して、半巾で眼を拭いた。すると、マダムは泣いていたのだろう。だとすれば、その映画は悲しい話だったのかもしれない。まるで逆の流れで、文字通り、思い返されるのである。(現代、このような語り方をする作家として、磯﨑憲一郎が挙げられよう。○○ということは、そのとき私は高校生だったかもしれない、のような。)

 ここまできて、小沼丹のペーソスがわかったような気がする。小沼丹は、想い出すことそれ自体を描いている。記憶は、現実そのものではない。もう失われてしまったものに想いを馳せるその行為には、どこか空しさや悲しさのようなものが漂っている。加えて、本書の大寺さんものでは、大寺さんの妻が存命である。小沼丹は、大寺さんものを、妻が亡くなってからほどなくして書き始めている。そこにはやはり、亡き妻への哀惜の想いも漂ってくる。

 この想い出す視線は、大寺さんもの以外の作品にも流れている。恩師である谷崎精二との交流を、その死のときまで邂逅した「竹の会」、ヨーロッパの諸都市を訪問したときの出来事を描いた「ザンクト・アントン」以下三作、語りの位置は常に「いま」にある。そこから語られる文体には、邂逅の懐かしさが滲んでいる。

 この懐かしさは、悲しいだけではない。

 

 谷崎さんの名前を口にすると決って先生が近くに現れることがあって、油断がならなかった。(中略)直ぐ前を降りて行く友人に、

――おい、矢島、この次の谷崎さん、さぼらないか?

 と声を掛けた。矢島は振返って何か云い掛けたと思ったら、不意に前を向いてしまった。近くの連中の様子も何だか変だから振返ると、直ぐ背後から谷崎さんが苦笑しながら降りて来る。これは閉口した。失礼しました、と云う心算でお辞儀したら、

――いや……。

 と先生もさり気無く会釈された。そうなると、とても休めない。(「竹の会」67頁)

 

 或るとき、夜更に井伏さんにその話をしたら井伏さんは何だか考え深そうな顔をした。

――君は谷崎さんの教え子だろう?

――そうです。

――教え子としては、先生のそう云う点は大いに見習うべきじゃないのかね……。

 何だか思い当ることもあるから、早速見習うことにして、ではそろそろお先に失礼します、と云うと、井伏さんはそっぽを向いて、ふうん、君はそう云う男か、と云った。(「竹の会」83頁)

 

 ユーモアについては、このように一読すればくすりときてしまうところが、いくつもある。身辺雑事について書いている、と言っても、まずは単純におもしろいし、どこかおかしいのだ。

 それでいて、このような出来事、人物が、どこか愛おしく感じられてくるのは、それが想い出されているものだから。私はまだ経験したことがないが、それは葬式のあとの食事会で、故人を偲ぶときの視線に近いかもしれない。あんなことがあったなあ。こんなところがあったなあ。こういうところは、困ったものだったなあ。実際、本書の多くの作品では、「死」が大きなテーマのひとつとなっている。

 

 マダムはそんなことを云って、小さな声でロング・ロング・アゴウを歌った。(中略)暗い店で小さな歌声を聴いていると、何だかいろいろ忘れていることがぐるぐると動き出すようであった。マダムは遠い所を見るような顔で歌っていたが、その唄と共にマダムに何が甦ったのだろう?

 唄が終ったら、親爺が中途半端な顔をして、

――一体、何て云う唄だね?

 と訊いた。

――遠い遠い昔、って云う唄だ。

 と、大寺さんは云った。(「眼鏡」61-62頁)

 

 想い出す。その視線に身を委ねるなかで、ユーモアとペーソスが微妙に混ざり合った小沼丹特有の文体は生まれたのである。

 

 

(文責 宵野)