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書評『輸入学問の功罪――この翻訳わかりますか?』

逐語訳への妄執 『資本論』向坂訳を題材に

 第一号の追加資本を成す剰余価値が、原資本の一部分による労働力の購入の結果だったかぎりでは、すなわち、商品交換の諸法則に一致する購買、また法律的に見れば、労働者の側においては彼自身の能力にたいする自由処分権、貨幣または商品所有者の側においては彼に属する価値にたいする自由処分権以外には何ものも前提しない購買だったかぎりでは、また、第二号以下の追加資本が単に第一号の追加資本の結果にすぎず、したがってかの最初の関係の帰結にすぎないかぎりでは、また、各個の取引がすべてつねに商品交換の法則に一致し、資本家は つねに労働力を買い、労働者はつねにそれを売り、しかもわれわれのなさんと欲する仮定にしたがってその現実の価値どおりに売買するかぎりでは、明らかに、商品生産と商品流通とに基づく取得の法則または私有の法則は、それ自身の内的な不可避的な弁証法によって、その正反対物に顚倒するのである。( マルクス『 資本論』、向坂逸郎訳、第一巻第二二章、岩波文庫全九冊第三分冊、一二九頁以下。引用は 二〇〇一年第三二刷より)*1

 以上の文章は本書で引用されている資本論の岩波、向坂訳である。著者はこの訳を提示することで、近現代日本の翻訳が逐語訳への妄執を抱えていることを示す。なんと、この訳文は原文つまりマルクスのドイツ語と文構造が全く同じだというのだ。受験生のような誠実な訳だ。

 もちろん著者も指摘するように、専門用語の使用によって読解が難しくなっている面はある。例えば、冒頭に出てくる剰余価値はその最たるものだろう。とはいえ、この後に提示される著者訳のほうは(マルクスの大家である)向坂訳よりよほど読みやすくなっているのである。その訳は向坂訳と対照的に一文を短く区切り、表現を易しくしたものである。

 この一文(原文と向坂訳ならばであるが)は最も極端な例である。しかし、著者の主張は、私が漠然と『資本論』を始めとする人文、社会科学系の翻訳書に抱いていた疑念と一致する。つまり、翻訳によって無用に原著が難解になっているのではないかということだ。

 例えば、まさしく『資本論』を読んだ時内容があまり頭に入ってこないので、途中で挫折したことがある。また他の翻訳書でも、文体がこなれていないあるいは日本語らしくないものに遭遇したことは何度もある。

 この問題を誤訳という言葉で表現するのは適切ではない。何故ならば向坂がそうであるように、翻訳対象の言語についての知識が十分であってもこのような事態は起こりうるからである。誤訳というよりも不親切なまでの逐語訳への執着と言ったほうが良い。あるいは日本語として成立していないような翻訳とも言えるだろうか。

 輸入学問の功罪とタイトルにはあるが、このように、本書ではかなり輸入学問あるいは翻訳の罪、問題点に焦点が当てられている。

 

原因は一体どこにあるのか

 一体この原因はどこにあるのであろうか。その点についての著者の射程は広い。ドイツを模範にした日本の近代化、市場とアカデミズム、教養主義など様々な論点を引っ張り出してくる。ただ、そのせいで論点が散らかっている印象も否めない。

 例えば第二章の題名は『ドイツの近代化と教養理念』であり、第三章の題名は『日本の近代化の基本構図』である。本書が六章で構成されていることを考えれば、その回り道は長い。また基礎的な近代ドイツ史や日本史の知識がある方にとっては、多少それらの説明がくどすぎるかもしれない。

 それらの説明は煩雑であり、本書を読んでもらうことにしよう。私はそれよりも具体的な翻訳を巡るある論争(とは大げさすぎかもしれない)が印象に残った。それは冒頭に挙げた『資本論』についての論争である。

 日本で最初に『資本論』を全訳したのは社会主義者、高畠素之であった。1924年のことである。また翌年には、読みやすいように日本語らしいように訳文が全面改訂された。この翻訳方針には翻訳文を「商品」とみなす高畠の捉え方が影響していた。高畠は売文社*2に参加するなど商業作家として生計を立てていた。この高畠訳を始めとする幾つかの訳を批評したのが京大教授の河上肇だ*3

 河上の批評は良く言えば精緻な、悪く言えばあら探しのような逐語的なものであり、自訳を批判されたように感じた高畠は反発している。ただ、河上は高畠訳を直接的に批判したわけではなく行間から読み取れるようなものである。ここから、著者はジャーナリズムとアカデミズムの断絶を読み取る。つまり、商業翻訳者である高畠が、学者である河上の批評に過剰反応したというわけだ*4

 河上と対照的に徹底的な批判を展開したのが三木清である。ちなみにこの批判は岩波文庫の河上肇・宮川実訳と対比する形で行われた。そしてこの批判もやはり高畠訳が逐語的ではないというものであった。著者は三木の翻訳観をこのようにまとめる。

 三木の翻訳観に見られるのは原文への強迫観念的な自己同化であり、欠落しているのは読者の視点からの解釈学的反省だ。そうなればいきおい、わかりにくい翻訳を苦労して解読する責任は読者に転嫁される。原文の構造を忠実に再現することこそ訳者の任務であり、それを解読するのは読者の責任だ 、となる。ここに権威主義が発生する根拠がある。 *5

 逆に三木が持ち上げた岩波文庫が後に、冒頭で取り上げた向坂訳『資本論』を出版したのは歴史の偶然だったのか、それとも必然だったのか。この点について私は確証を持たない。ただし、著者が指摘するように三木は岩波書店と深いつながりがあり*6、そのことが影響しているのかもしれない。

 余談になるが本書を読んでいて、ひょっとしたら、原因かもしれないと私が思いついたことが二つある。それは原文と訳文を対照して読む時には逐語訳のほうが確かに読みやすいということである。もっとも、そのような効果を期待して逐語的に訳しているのだとしたら、原語が全く読めない読者にとってはいい迷惑だ。

 そして、そのような原文との対照を前提とした翻訳があるとしたら、同時に原文を翻訳文よりも上に位置づける思考形式があるのではないか。つまり翻訳文は原文を読む上での参考にすぎないというわけだ。確かにそうならば、翻訳文の読みやすさなど大した問題ではないだろう。

 もう一つは読みづらく、原文との対照を要求するような翻訳文は翻訳者やその読者の権威付けるということである。これは一種のオカルトと言って良い。つまり難解な訳文は原語が読めない一般人には読解できない。だからこそ、翻訳者やその読者は偉いというわけだ。

 これは中世のラテン語やギリシャ語が読めない庶民と神学者の関係を彷彿とさせる。中世において聖書は庶民の言葉に訳されなかったわけであるが、結局母語で理解できないという点では一緒である。

総評

 著者の専門は近代ドイツ思想、文学だ。そのこともあって、具体的な訳文についてはドイツ語に絞られて検討がなされている。また、著者は自分の主張を論証する上で少し実証性に欠けていると思う。ただ、これは著者の力量不足というよりも、むしろ翻訳論という分野があまりに広大無辺であるせいだ。こと日本の翻訳に限ってもである。

 近現代の日本に重要な影響を与えた外来の言語は多くある。少なくとも英、仏、独、露語あたりが含まれることは間違いない。これら四言語を自由自在に操れる人材など現代日本にほとんどいないだろう。

 それに語学ができるだけではなく、思想的、歴史的な知識もこの問題を論じる上では必要とされる。一人で取り組む問題というよりも、語学だけでなく歴史や思想の専門家からなる集団でないと太刀打ちできない問題なのかもしれない。

 話は変わるが日本の翻訳の問題については、皮肉なことに西欧からの輸入学問的な知見はそれほど望めないのではないかと思う。一つには翻訳の方向性が全く異なるからである。西欧諸国のそれが相互作用的なのに対し、日本の方は殆ど受動的な立場にとどまるざるを得なかった。

 つまり、西欧の人文、社会科学に大きな影響を与えた日本語文献はほとんどなかったのではないか。もちろんこれは西欧の近現代思想、哲学が日本の人文、社会科学に与えた影響に比べればという話である。そのような背景を無視して、日本の翻訳論(翻訳研究、翻訳学ともいう)を考察しても説得力がないだろう。

 また、文法的、語彙的な隔たりの大きさも西欧諸語間よりも日本語とそれらのほうがずっと大きい。そのようなことを考えるとむしろ、西欧よりも中韓などのアジア諸国のほうが近現代においては状況が似通っている。

 それにしても翻訳という分野は意訳をすれば原文からかけ離れていると批判され、逐語訳をすれば読みづらいと批判をされる。全く、難儀なものである。

 いずれにせよ本書が意欲作であったことは間違いない。翻訳論という分野にも興味が湧いたので、しばらくしたら同分野の書籍を書評するかもしれない。

 

 

 なお本記事における脚注は全て『輸入学問の功罪――この翻訳わかりますか?』からなので書名は省略した。また電子書籍を参照したので、ページ数の代わりに章数と見出し名を付した。

 文責 雲葉零

 

参考文献

『輸入学問の功罪――この翻訳わかりますか?』鈴木直 筑摩書房(2014)

 

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*1:以上第一章 難解な訳文より。『資本論』の同じ刷りを入手するのが困難なこともあって、孫引きをお許し願いたい。

*2:編集プロダクションのようなものと考えれば良い。

*3:第一章、最初の『 資本論』 翻訳から逐語訳 という名の権威まで。

*4:第一章、河上肇の翻訳評価。

*5:第一章、三木の責任。

*6:第一章、三木の責任。