ソガイ

批評と創作を行う永久機関

迂回すること 分からないことを嗜好すること 教養とは何か

 本論では教養という言葉について論を進めていく。どうしてわざわざ教養などと言う古臭くて、衰退している概念について考えるのか。その点について訝しむ読者もいるかもしれない。

 確かに教養という言葉が古臭さを帯びているのは事実である。竹内(2013)は大学生の書籍購入量の減少、大卒のグレーカラー*1化を根拠として、教養主義の衰退を以下のように描写する。

 

大学によって学生文化における教養主義の衰退に差があったが、七〇年代から八〇年代 にかけて日本の大学生文化から規範文化としての教養主義が大きく衰退したといえる*2

 

 このように教養主義が衰退し始めたのは、もはや三、四〇年以上も昔の話である。しかし、教養という概念が古臭くて衰退しているからこそ、私は興味を惹かれた。さらに詳しく言えば、教養という言葉が衰えながらも、まだ一定の力を保持しているからである。

 例えば、大学の講義を受けてみれば、あるいは本屋に入ってみれば教養という言葉はありふれている。もっとも、衰退などのネガティブな言葉とセットになって語られることも多いと思うが。いわば、教養は衰えた獅子なのである。

 それと同時に私の、思わず笑ってしまうような個人的な体験も大いに経験している。この本屋での体験は後に詳述しよう。

 本題に入る前に、大雑把な論考の進め方を提示する。思うに、言葉や概念について考えていく時には大雑把に二通りのやり方があるのではないか。一つは実証的に、言葉や概念の歴史性を明らかにしていく議論である。本論で言えば、誰々が教養とはこうであると言ったとか、どのように教養という言葉の意味内容が変遷してきたかということに注目する方法だ。

 これと対照的なもう一つの方法がある。最初に教養の定義を仮定してしまって、そこから論を広げていくのだ。もっとも、現実にはこの折衷案も多いのかもしれない。

 本論では、歴史的経緯についても多少取り上げるが、概ね後者の方法で行く。そこで問題になってくるのはどちらかといえば、正しいか、正しくないかではない。というよりも面白いか、面白くないかである。魅力ある定義付けか魅力のない定義付けかである。

 例えて言うならば、前者のやり方はある街をずっと観察し続けることである。その街の面白い部分も平凡な部分も全て客観的に記録する。面白さよりは、むしろ正確性が要求されるだろう。

 それに対して夜、展望台に行けば、普段は何の変哲もない街が綺麗に見えることがある。私がやりたいのはそのような切り口を幻出することである。一人でも、二人でも、私の定義を面白いと思っていただけると幸いだ。さて、ようやく本題に入るとしよう。

 そういうわけで、最初に私がどのように教養を定義づけるかについて語ろう。私にとって、教養とは迂回である。言い換えれば寄り道と言っても良い。その要素に加えて、分からないという言葉とも近い。より、正確に言えば分からないことを嗜好することである。何故、そのような発想に至ったのかは、以下述べていく。

 

 これが教養だ!

 

 という煽りをある書店で見つけた時に、私はなんとも言えない違和感を感じた。確かに、その煽りがある一角を占めているのは岩波文庫などの古典的な名著ばかりだ。教養書と言われても違和感のないものである。だから、私の違和感はその煽りの直接的な物言いにあったのではないかと思う。 

 このコーナーに有る本の一つ一つが教養書である、という以上にこのコーナーの本を読んでおけば教養を得られる。その煽りは、どうにもそんなニュアンスを含んでしまっているように思えたのだ。

 そして、私にはそのような煽り自体が教養という言葉と肌が合わないのではないかと感じられた。その煽りでは教養がまるでサプリメントや何かのように扱われている。サプリメントというものは飲みさえすれば効果があるものである。それは私が抱いている教養のイメージとかけ離れていた。

 

 さて、唐突ではあるが、以下の文章を教養という概念を考える手がかりにしたい。

 

 ということはつまり、こういうことも言えそうだ: われわれの意見が多様なのは、別にもらった理性の分け前が人によって多いから起こるのではなくて、単にみんなの関心の対象がちがっていて、ものの考えかたもまちまちだからなのだ。つまり活発な精神を持つだけでは不十分であって、いちばんだいじな要件というのは、その精神を正しく適用することなのだ。最高の精神は、最高にすぐれた成果を挙げることもできるが、同時にものすごくはずれていってしまうことだって、じゅうぶんに可能だ。そしてとてもゆっくりと旅する者であっても、必ずまっすぐな道をたどるならば、走りはするがまっすぐな道を捨てる者にくらべて、ずっと遠くまで進むことができるだろう*3

 

 出典元は、長々しい正式名称がついているが、一般に言われるところの『方法序説』である。(以下『方法序説』と呼称する。)このデカルトの例え話そのものは非常に分かりやすいものである。ある程度の文章読解力があれば、わざわざ私が文理解釈をする必要もないだろう。私が引っかかったのはこの例え話に隠された含意あるいは仮定である。

 そしてその引っ掛かりは、原(2013)から影響を受けたものである。原(2013)は引用した部分後半の例え話におけるまっすぐな道に対するデカルトの高評価を「直線への愛好」と表現している。また『方法序説』において、デカルトが意見の多様性を否定的に捉え、考えの相違を真偽と重ねていることも指摘している*4

 引用部分の前半を読めば、そのことははっきりと分かる。この文章からすれば、もし人々が精神を正しく適用すれば、意見の多様性はなくなるだろう。しかも、そのことはデカルトにとって好ましいことである。なにしろそれ以外の意見というのは精神を「間違って」適用した結果、発生するものだからである。

 

 以下に述べていく、私の議論もそのような原(2013)の論考から影響されていることに留意されたい。まず、引用した文章の最後の一文からはいくつかの仮定が読み取れる。そして、その仮定は合理主義の、単純ではあるが重要な仮定とも言える。

 第一に、我々は行動する前に自分が進むべき方向、あるいはやることをきちんと把握していなければならない。第二に我々の行動の是非は非常に単線的な評価基準によって、判断されている。簡単に言えば一種のランキング付けである。あるいは一種の評価関数である。

 またベクトルとスカラーという考えを導入すれば、この文章はさらにすっきりと見えてくる。スカラーとは大きさのみを持った量であり、それに対してベクトルは大きさに加えて向きを持っている。いわばデカルトはスカラーではなく、ベクトルが重要だと言っているわけである。最高の精神=巨大なスカラーは、精神の正しい適用=正しい向きを持たないとものすごく外れてしまう。ヘリコプターで移動しても、行く先の方角を間違えていたらどうしようもないように。

 この点を考えると、ゆっくりと旅するものはスカラーこそ小さいが、到達時間は短いのである。つまり彼、ゆっくりと旅するものは移動速度こそ速くはないが、目的地に早く着くのである。

 

 ここで、現実の世界に則して考えてみよう。あなたが近所のラーメン屋に行きたいと考えたとしよう。デカルトの考え方からすれば、ここであなたがすべきことは最短ルートを見つけることである。距離が短ければ短いほどいいということになる。そうすれば、当然早く着くという事にもなる。

 携帯やパソコン上でルート検索をする時に、この考え方は顕著に現れているだろう。単純な方程式を解くように最適解が求められる。そして、その最適解は結果を見せられれば、誰もが納得できるものである。もちろん解の解き方が正しいという条件はつくが。

 しかし、少し考えてみるとこの考え方が必ずしも現実にそぐわないケースも考えられる。例えば、ラーメン屋に向かっている最中で気が変わったらどうだろう。実際にそのようなことは良くあるが、デカルトからすればそれはまっすぐな道を捨てたことにほかならない。確かにどこに行こうかとぐるぐる回っていたら、遠くには行けまい。必然的に、目的地に早く着けもしない。

 だが、場合によっては、遠くに行くことが重要なこととは限らないのだ。何故ならば、人間はいつもいつも明確な目的地を定めて歩いているわけではないからだ。このことは多くの人が実感しやすいのではないだろうか。

 行く予定だったラーメン屋をやめ適当に別の店に入る。あるいは全く知らない新しい店を探す。場合によっては、行き先はもはや飲食店ですらないかもしれない。あるいは最初から街を散策することが目的のときだってあるだろう。このように、私たちはいわば、街と戯れるように歩くことがある。

 そこではまっすぐ歩くこと、なるべく遠くに行くこと、目的地に早く着くことなど意識されていない。何故ならば、第一の仮定が完全に崩れているのである。明確な目的地が初めからないのだから。私たちは目的地がないこと、自分がどこにたどり着くのかわからないことを楽しんでいるのである。それに寄り道、あるいは街歩きを単線的に評価するなどということも馬鹿らしい。こういうわけで、二つ目の仮定も適用できない。

 さて、ここで今度はラーメン屋に雇われた出前配達員の立場になって考えてみよう。ちなみにまたラーメン屋の話であるが、その必然性は特にない。本題に戻ると、迂回をする自由はラーメン屋の店員には基本的にはない。店員がすべきこと、出来ることは客の家まで注文を届けること、おかもちを回収することである。配達途中で、カレー屋に入って、飯が食べたいと思っても、業務時間が終わるまでは我慢しなければならない。 

 はたまた、飯を食うどころか雀荘に入ることなどもできない。もちろん、現実的には多少ならば寄り道してもバレはしないだろう。だが、それは制度として寄り道が許されているという話とは全く異なる。

 このように配達員は自分が進むべき方向を店主から指示されている。そして配達の早さによって、配達員の優秀さがランク付けされるだろう。あまりにも配達に時間が掛かるとなったら、解雇されるというわけだ。見事に二つの仮定が満たされている。この点において、デカルトはラーメン屋の大将である。笑い事ではない。つまりデカルトの考えとは、ラーメン屋の大将が

「ゆっくりで良いから道を間違えるなよ。速く走っても、道を間違えたら時間がかかるから」などと、配達員に言っていることと原理の上ではさして変わらない。もちろん、ラーメン屋の大将はデカルトほど抽象的な思考を巡らせることはできない。

 しかし、原理の上で似通っているということはデカルトの思考がごく日常的なものであることを意味する。合理主義は日常的な便益と相性が良いのである。永劫回帰や脱構築などの他の哲学上の観念と比べれば遥かにそうであることが分かるだろう。

 もちろん、日常的だからといって、劣った思想であると言うつもりはない。しかし、世の中には日常的な思考だけでは解決できない、うまく向き合えないたぐいの問題があるのではないだろうか。

 ここまで最初に引用した文章に沿って、概ね道あるいは移動というアナロジーを使ってきた。だが、この問題は何も道や移動に限らない。我々の行動あるいは思考全般に押し広げて考えることが出来る。

 例えば、サプリメントを飲む時の考え方は、まさしくデカルト的考えである。ビタミンDが足りないから、サプリメントを飲む。極めて明確に目的と行動が結びついている。そのようにして教養が足りないから、本屋で教養を摂取しようとする人々もいる。

 あるいは、営業セールスマンはどうだろう。彼のやるべきことは売ることである。そして売上の多寡によってランク付けがなされる。この時セールスマンは、売上を最大化するように思考し、行動するだろう。

 もちろん、現実はもっと複雑である。例えば、セールスマンならば売上に加えて、顧客の満足度や上司との関係性等々も評価されるだろう。しかし結局のところ、それらの要素は一つのランキング、あるいは評価関数に集約される。

 例え、評価に影響する要素が一〇あろうが二〇あろうが、最後には単線的なランキングが作られるのである。そうでなければ、セールスマン同士の優劣を決められないからである。給料の違いを決められないからである。そして真面目なセールスマンはできるだけ評価関数を最大化しようと試みる。不真面目なセールスマンは喫茶店で休んでいるかもしれないが。

 このようにデカルト流の考え方、合理主義と言っていいだろう、に相性が良いのはノルマ、目標のたぐいである。あるいは人はノルマを課された時に合理的思考をせざるを得ないと言ったほうが良いかもしれない。

 人が真剣にノルマや目標を達成しなければならないのはどのような時が多いかを考えると、たいてい働くときではないだろうか。ノルマや、目標を課さない、経営者や上司はほとんど考えられない。自営業者でも、顧客の要望を聞く必要がある。いわば、目標を達成する必要がある。

 このように、合理主義は労働に深く関わっているのだ。だから先ほど、ラーメン屋の店員や営業セールスマンを例えに出したのは意図的なものであった。まとめると合理主義、ノルマ、労働が密接に関わっているということになる。

 これは何も賃金労働だけではなく、家内労働にもある程度適用できる。とはいえ、純粋に自分のためにする労働ならば、他者の評価から免れることは出来るが。そして、面白いことに、労働は教養という言葉の起源にもいわば一種の反対概念のような形で関わっているのだ。

 

 教養に概ね、対応する外国語として、リベラルアーツという言葉がある。このリベラル、つまり自由とは一体何のことだろうか。村上(2009)は以下のように歴史的経緯を説明する。

 古代のギリシア及びローマでは、調理する、建物を建てる、石を運ぶなどの技術は奴隷が身に着けていればいいと考えられた。それに対して、自由である市民たちはそれらの技術を身につける必要がない。奴隷や労働者に命令すればいいからである。そのような自由市民たちは、日常生活に役に立つ技術とは別のことを身につける必要がある。それがリベラルアーツ、教養であると*5

 教養とは労働しないものが身につけているべきものだったということだ。つまり元来的な教養とは反労働であり、反ノルマであり、反合理主義であったのではないか。このような歴史的経緯からしてみると、私の迂回あるいは分からないことへの嗜好という定義はさほど的外れではないのかもしれない。なにせ分からないことを好むことほど反合理的なことはなかなかない。もっとも、定義を考えた後にリベラルアーツの語源を知ったのではあるが。

 教養とは反労働であった。この観点からすると、教養とはとことんろくでもないものであるように思える。労働しない者が身につける、手慰みに過ぎないのではないか。そんな批判も一理ないわけではないだろう。しかし、そうだとするならば、何故教養を身に着けろなどという言説が溢れているのだろうか。

 一つには政治に関われる市民たる、理念的な要件であるからだろう。もちろん、法律上は教養がなかろうが参政権はある。だが、理念上、政治に参与するなら実生活以外の教養も身につける必要があるということだ。

 まさしく古代の自由市民たちが、奴隷と違って政治に関われたように。自分が住んでいる国の政治制度を知らなくても、生活にさして影響はないだろうが、政治参加する時には致命的である。そこでは労働しないこと、少なくとも労働以外に知的な能力を割くことに一定の価値が置かれている。

 もう少し、俗な観点から言うと、一つには教養が実生活において、役立つ局面があるからかもしれない。興味深いのは、この観点はおそらく古代ローマやギリシャにはなかったのではないかということである。以下にそのような観点をよく表している、出口(2015)の文章を引用する。少し文量が長くなるが。ちなみに著者の出口治明はライフネット生命保険を起業した企業家である。

 

 (前略)私がロンドンで働いていたときのナショナル・ギャラリーのトップは著名な投資銀行を経営していたベアリング家の当主でした。彼らと一緒に晩ご飯を食べようというとき、ゴルフと天気の話しかできない人とランボーを語れる人ではどうなるでしょうか。人間は双方の関心領域がある程度重なっていないと、なかなか相手に共感を抱けないものです。相手がゴルフと天気の話しかできなくては共感のしようがなく、何回食事をともにしても信頼関係は醸成されません。

 (中略)ところが、仕事以外のことについて少しでも何かを知っていると話が断然違ってきます。私が連合王国で仕事をしていた時、「シェイクスピアは全部読みました」と言ったら、それだけで「おまえは良いやつだな」と急に相手との距離が縮まったことがありました。シェイクスピアは、私が個人的な趣味で読んでいただけですが、結果的に日本の経済や金融の話題以上にビジネスの役に立つことになりました。その相手から仕事がもらえたのです*6

 

 いかにも企業家らしいエピソードと考え方と言えるだろう。このような考え方は私の定義づける教養と真っ向から対立するものである。出口の名誉にために言っておくと、彼は何もビジネスのためだけに教養が必要だと言っているわけではない。それは引用した書名が『人生を面白くする本物の教養』というタイトルであることからも明らかである。

 ただ、引用する都合が良く*7、実際の経験に裏打ちされているということもあって、出口(2015)の一節を引いたにすぎない。なにもこのような考え方は彼独特なものではないだろう。ビジネスや実生活に役に立つ教養という考え方は根強い物に思える。

 実際、出口が紹介しているように教養がビジネスの時に役立つこともあるのだろう。その理由としてはビジネスの場でさえ、あまりにもビジネス一辺倒の人間は好まれないのかもしれないことが考えられる。そのような人間が面白みにかけていることをバリバリのビジネスマンでさえ感じるのだろう。極めて逆説的ではあるが。このように教養というのは、ビジネスマンにとってさえ時に魅力的なものである。結局、人間は二十四時間働けないのである。

 その点は歓迎すべきことだが、問題は「ビジネスに役立つのだから教養を得よう」という考えが生まれてしまうことである。例えば、日本人ビジネスマンが、シェイクスピアをビジネスのために熱心に読んでいる姿を見た、イギリス人ビジネスマンはどう思うだろうか。がっかりするかあるいは腑に落ちないような気持ちになるのではないか。

 いわば、ここでは迂回路が最初から目的地になってしまっている。あるいは迂回路が「まっすぐ」にされてしまっている。いかに難解だろうが、いかに一見ビジネスからかけ離れていようが、その人が読むシェイクスピアに面白みあるいは遊びというものはない。

 教養はビジネスに役立つ。という文章とビジネスの役に立つから教養を得ようという文章は必ずしも等号では結びつかない。しかし現実にはそのような思考回路は容易に成り立ってしまうのである。

 だからこそ、本論の最初の方に挙げたような本屋の煽り、サプリメントのように得る、教養という捉え方が成立するのだろう。ビジネスやその他の目的*8のためだけに役立てたいのなら、手っ取り早く教養を得たほうが良いに決まっているからである。そこでは教養が完全に目的化されている。))

 ここで私は『サバイバー』というパラニュークの小説に出てくる、『使える祈祷集』という祈祷集のことを思い出す。その祈祷集には抜け毛を防ぐ祈り、水漏れを防ぐ祈り、駐車場の空きを願う祈り*9などが収録されている。

 そこには神への敬虔な祈りという要素は全くない。究極的な現世利益であり、むしろ神に対する冒涜の効果を醸し出している。このようなことが何故冒涜的なのかというと、祈るという行為は単に外形的に定義づけられないからである。神を真摯に信じていない人間が、祈祷集を片手に祈っても何の意味が無い。祈りは単に行動のみならず、内心あるいは態度の問題である。

 『使える教養』という題名の本はないのかもしれないが、手っ取り早く教養を得たい人たちにはぴったりの題名である。そして、抜け毛を防ぐ祈りが祈りとして体を成していないのと同じように、すぐに使える教養を求めることは、教養的ではないのである。教養的であることも、祈りと同様に、行動のみならず、内心や態度を要求するのである。

 

 さて、教養は元々自由人のものであった。現代にほとんど奴隷はいないが、代わりに労働者はごまんといる。現代においても、教養は自由人だけのものなのだろうか。政治的関与はともかく、時間的自由という面では労働者は自由人というよりも奴隷の方に近いと言わざるをえない。労働者は自分を自由だと思っているが、それは労働時間以外だけのことなのである。その意味で、彼らは完全な自由人とは言い難い。

 例えば、勤務時間内に教養的に振る舞うことは至難の業だろう。先程も言ったように、経営者や上司がそれを許さないからである。仕事に関係のないことをやられたら、パフォーマンスが落ちるのだから、当たり前である。

 ちなみにここで言う労働者とはいわゆる学者のことも含む。何故か。よほど例外的な場合を除いて、学者も完全な知的自由が与えられているわけではないからである。

 例えば、文学者が純粋な数学の論文を書いたり、数学の研究に過度にのめり込んだりするのにいい顔をする研究機関はないだろう。少なくとも本業を阻害するほどなら、止めるはずだ。我が校は文学者として先生を雇ったわけで、数学者として雇ったわけではないというわけだ。確かに組織の論理としては完璧に正しい。こういうわけで、学者も決して自由人たり得ないのである。

 彼らは自分たちの専攻領域の学識を切り売りしているに過ぎない。専攻領域を深掘りしているような知はもちろん重要である。だが、私が定義づける教養はどちらかというと、自分が分からない領域を探ることなのである。

 本題に戻ろう。労働者たちは労働時間は自由人ではない。しかし、逆に言えば労働者たちは労働時間以外は一定の自由を有している。世の中、資産家ばかりではないことを考えれば、その限られた自由を行使するしかないだろう。もし教養を楽しみたいとすればだが。

 何もその行使の仕方は本屋で本を開く、あるいはネットなどで調べ物をするということだけに限らない。例え話と全く同じく街歩きをすることでさえ、立派な教養的な行為になりうる。今まで全く知らない、文化の人々の生活を知ることが出来るかもしれない。あるいは全く知らない業種の仕組みを知ることが出来るかもしれない。

 いわば、世界の広がりに触れ、自分の知識の狭さを痛感し、既存の知識を乗り越えるのである。この世界には、そのようにして思わぬ形で知が開かれる回路がある。それは役に立つということを超えて、きっと楽しいことではないか。

 

 

参考文献

 

ルネ・デカルト 『もろもろの学問分野で、正しく理詰めで真理を探究するための方法についての考察』 訳 山形浩生

「もろもろの学問分野で、正しく理詰めで真理を探究するための方法についての考察」

http://www.genpaku.org/dcart01/dcart10j.html (2017年 11月 9日最終閲覧)より

原 章二『人は草である―「類似」と「ずれ」をめぐる考察』2013 彩流社

竹内 洋『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』2013 中央公論新社

村上 陽一郎『あらためて教養とは』2009 新潮社

出口 治明『人生を面白くする本物の教養』2015 幻冬舎

チャック・パラニューク『サバイバー』2005訳 池田真紀子 早川書房

 

 注釈を含む上記の文章は、第25回文学フリマ東京で配布したフリーペーパーの内容を一部改変したものである。具体的に言うと、読みやすさを考え改行を増やした他、商品リンクを二つ貼り付けた。

 

文責 雲葉零

 

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*1:グレーカラーとはホワイトカラーとブルーカラーの中間のことを意味する。具体的にはスーパーマーケットや不動産の販売職が挙げられる。

*2:竹内(2013) 終章 アンティクライマックスより 電子書籍を参照したので頁数は示せないことをお許し頂きたい。

*3:デカルト 『もろもろの学問分野で、正しく理詰めで真理を探究するための方法についての考察』第一部より。

*4:原(2013) 7及び8頁。

*5:村上(2009) 43及び44頁。

*6:出口(2015) 39及び40頁。

*7:ネット上ではこの手の言説は溢れているが、いざ書籍から引用するとなると、そう簡単に見つからなかった。

*8:入学試験や公務員試験などの試験勉強が典型的だろう。

*9:パラニューク(2005)189頁から188頁。作品の都合上、頁数が逆転している。