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書評 ジョン・アーヴィング『ピギー・スニードを救う話』

異端者 ジョン・アーヴィング

 著者ジョン・アーヴィングは現代アメリカ文学の旗手である。『熊を放つ』、『ガープの世界』、『サイダーハウス・ルール』など日本でも有名な作品が多数ある。ちなみに『熊を放つ』 (中公文庫) の翻訳者は村上春樹である。アーヴィングの文学観は以下のインタビューでの発言によく現れている。

(前略)前に、二十世紀の最高の作家は誰かという投票みたいなものを『TIME』がやっていてね。文芸評論家が選んだのがジョイスだった。勘弁してくれよ。『若い芸術家の肖像』、確かにあれはいい本だ。でもそれ以外は? 自己満足の頭でっかちのごみだよ。いま文芸誌に載ってる手合いの、大学院の創作科の授業を思い出しながら書いてるようなものと一緒だよ。

 僕はごめんだね。長旅に出るときに『ユリシーズ』や『フェネガンズ・ウェイク』を持っていくかい? 読みたいのはまともな本だよ。ディケンズジョージ・エリオットやハーディの書いた本だよ。自己中心的なインテリが書いたオナニー本じゃない」*1

 皮肉が効いていてユーモラスな文章である。『ユリシーズ』や『フェネガンズ・ウェイク』にオナニー本という評価を下したのはアーヴィンぐらいではなかろうか。心の中で思っても、ジョイスの評価の高さを知っていたらなかなか口に出せることではない。

 このようにポストモダン文学を腐し、ディケンズに対して賞賛を惜しまないアーヴィングの態度は現代文学では異端的である。またアイオワ大学創作学科ではSF作家カート・ヴォネガットの指導を受けた*2

 本著はそんなアーヴィングの短編七つと批評一つで構成されている。一つしかない批評はディケンズについてのものである。アカデミズムやあるいは批評家には感傷的すぎるとして受けが悪いディケンズを、アーヴィングが一生懸命擁護しているのが印象的である。個人的には、村上春樹のファンがこのような気持ちになっているのかもしれないなと思った。短編の数が多いので、本稿では、特に印象に残った短編二つを書評する。

 

『ピギー・スニードを救う話』

 表題作。本作は語り手の回想という形で、語られる。語り手は作家であり、またニューハンプシャー州エクセター生まれであると明示されるので、著者アーヴィング(彼もまたニューハンプシャー生まれである)との同一性が醸し出される。だが本短編の冒頭にはこのような文章が付されている。

 これはメモワールである。だが(まともな想像力を備えた作家から見れば)どんなメモワールにも嘘がある。なかんずく小説家の記憶などというものは細かな嘘を垂れ流すようにできていて、どうせなら実際の記憶にあるよりも好ましく書いてしまおうと想像力を働かせるのが作家というものだ。しかるべく、書かれた細部が現実と合致していることのほうがめずらしい。もう少しで、現実になったかもしれないこと、なるべきだったことにこそ、真実は宿るのである。*3

 語り手が言うように、自伝や回想には嘘がつきものである。この語り手が特異なのは、そのことを自分が回想する前に、わざわざ読み手に思い起こさせていることである。また、この文章は、本短編後半での、語り手の回想に大きく関わっている。

 題名となっている、ピギー・スニードは生ゴミ回収を営んでいる男性の名前である。ピギーはブタちゃんという意味だ。その名前の由来は彼が養豚農家であり、豚舎で豚と一緒に暮らしたことにある。回収した生ゴミはそれらの豚に食べさせるのだ。彼が住んでいるのは小さな町ストラタムの外れであった。

 ピギー・スニードは、著者が幼い頃過ごしていた祖母の家にもゴミ回収にやってきた。ストラタムと祖母の家はたいして遠くないからだ。彼はひどい体臭を放ち、言葉を喋れず、知能に障害があった。祖母はそんな彼に優しく接するが、子どもたちはそんな彼をいじめの標的にする。

 語り手のピギー・スニードについての描写は極めてユーモラスであり、また哀愁を誘うものである。そして、語り手を含む子どもたちも悪意だけではない感情をスニードを抱いている。敢えて言うならば、好意と言うことになるのだろうか。いじめの標的にしておいて、好意があるというのはとんでもない状態である。だが、世の中には往々にしてそういうことがあるのではないか。少なくとも、全てのいじめっ子が相手に対して殺意に近いような強い悪意を抱いているわけではないだろう。

 もちろんそのユーモラスや好意は、スニードが知的障害を負っていたり、言葉を喋れないという点と深く関係している。端的に言えば、障害者を馬鹿にしているという批判は免れないだろう。しかし、残酷さとユーモラスや好意は決して相反するものではないのかもしれない。そして、悪意と好意も同様かもしれない。そしてそのことは論文や評論では中々描きづらく、小説だからこそ描写できる現実なのではないか。本短編を読んでそのようなことを思った。

 やがて、語り手は祖母と暮らした街エクセターから、一〇キロほど離れた街へ引っ越す。高校生になった語り手は、近隣の町ストラタムの消防団に加わった。子供の頃過ごした街のスニードを知っている仲間たちと一緒に。とはいっても、ストラタムで大きな火災が起こらなかったこともあり、語り手が活躍する機会はなかった。

 しかし、ある晩大きな火事が起きる。火元は件のピギー・スニードの家であった。火勢が強すぎて、スニードを助け出すことなど到底できない。あるいはもうとっくに死んでしまっているかもしれない。

 そんな状況下で語り手は、スニードが実は助かったという話を紡ぎ始める。やりきれなさから語りだした、何の根拠もない法螺話である。話しているうちに、スニードの逃亡先もフロリダからヨーロッパへと変わる。より、もっともらしい話にするために。彼と同じようにやりきれなさを抱えている、子供達も徐々にその話に調子を合わせていく。

 しかし、結局スニードは死体となって発見された。

 後年、作家になった語り手は、祖母にスニードの火事のことを話す。創作の上で彼を救おうと試みたことも。祖母はスニードが生きていた時に優しくしていれば、そんなことをする必要はなかったのにと指摘する。

 それができなかった私は、いまにして考える。作家の仕事は、ピギー・スニードに火をつけて、それから救おうとすることだ。何度も何度も。いつまでも*4

  語り手が、回想の中で作り話を語るという構造はそれはそれで面白い。だが、私にはそれ以上にピギー・スニードと語り手及び仲間たちの関係性のほうが興味深く感じられた。ユーモラスで感傷的な小説である。

 ちなみに本短編の原題は『Trying to save Piggy Sneed』である。訳者の小川はこれを『ピギー・スニードを救う話』と訳している。だが、どうにも私には直訳調に『ピギー・スニードを救おうとすること』とでも訳したほうが良いように思える。trying toを話と訳してしまうと、大事なニュアンスが消え落ちてしまう。すなわち、救えなかったピギー・スニードをなんとか救おうとするニュアンスが。

 

『ペンション・グリルパルツァー』

 語り手の父親オーストリアの観光局に勤めている。また、その関係から、ホテルやペンションの調査をしている。身分を隠して、ホテルなどのサービスが行き届いてるのか調べるのだ。そして格付けをつける。語り手を含む一家全員でその調査をしている。

 語り手の家族は以下のような構成だ。語り手から見て、祖母、父、母、語り手自身、弟。ある日、語り手達はペンション・グリルパルツァーを調査することになる。そのペンションには熊が出現するという奇妙な噂があった。

 ある一室を語り手が「がらくた博物館の小型版」と評したように、ペンション・グリルパルツァーは古びた宿屋であった。そのペンションには奇妙な住人がうようよしていた。祖母が昔見た夢を何故か見通している男とハンガリー人の歌手。逆立ちして移動する男。そして、熊とその女調教師。

 当然、語り手達は宿の主人に、彼らのことについて問い詰める。主人によると彼らは元ハンガリーのサーカス団で、女調教師は自分の女兄弟*5だと言う。また、逆立ち男は脛の骨がないので逆立ちするしかないということも分かった。ソ連から妹を救ってくれたということもあり、主人は彼らをここに居候させている。

 帰り際には、一輪車に乗った熊が語り手達が乗ってきた車に激突する始末。おまけに車の距離計が伸びていた。熊も含め、居候達が勝手に車に乗ったのだ。

 後年、語り手は妻と一緒にペンション・グリルパルツァーを再訪する。ペンションには老けた女調教師しかいなくなっていた。ハンガリー人の歌手は惚れた女のところに行ってしまった。夢男は悪夢を見続けて入院させられた。主人は変装した熊を見て心臓麻痺。逆立ち男は、その逆立ちが祟ってエスカレーターで事故死した。世話が行き届かなくなった熊は動物園に寄付された後にすぐ死んでしまった。

 かなり長々と短編の紹介をしてしまったが、奇妙で逸脱した人物と熊が出てくるので仕方あるまい。そして、この短編ではその奇妙さと逸脱を喪失する悲しみが描かれている。再訪の帰り際に語り手はあることに気づいた。

 車に乗ってから、さらに私は気落ちすることになった。距離計に一キロの伸びもなかった。一キロたりともこっそり走らされてはいなかった。そういう勝手なことをするものが、すっかりいなくなっていた*6

 ペンションの居候が勝手に車を走らせていたら、普通は怒るものだろう。しかし、勝手さも極まれば魅力となるとでも言うのだろうか。身勝手極まりないとは人を非難する際に使われるが、この場合は褒め言葉である。量的に極める、著しいというよりも、味のある身勝手と言えば分かりやすいかもしれない。少なくともどんな一流ホテルの従業員だって、彼らほどの印象は残せないことは確かだ。どんな一流ホテルだって、居候の熊はいないだろう。

 この微妙な居候たちに対する好意は、語り手だけでなく語り手の父も共有していたものと見ていい。父は、このような目に遭ったのにペンションの格付けを引き上げているからだ。

 しかし、彼らの存在は世の中に受容されるものではなかった。ハンガリー人の歌手はそうでもないかもしれないが、彼らは次々と死ぬか、冷遇の憂き目に遭っている。それは単なる偶然ではない。逆立ち男の事故死に対する、語り手の感想が端的にそれを示している。

 (前略)この世の中、機械は逆立ち用に出来ていない。はからずも残酷になりがちである*7。  

 逸脱者は世の中に馴染めない。それどころか排除される。意識的ですらなく、無意識的に。マイナスのネジにプラスのドライバーを突っ込んでもどうしようもないように。一体、誰が逆立ち用のエスカレーターなんて考えるだろうか。この短編はユーモラスにかつ感傷的にそのことを描いている。

 

総評

 期せずして、取り上げた短編二つとも奇妙な人物が深く関わっているものになってしまった。私の好みが反映されているのだろうが、何も本書はそのような短編ばかりではない。例えば『疲れた王国』はかなり落ち着いた雰囲気の短編である。

 全体的に言えるのはユーモア精神と感傷性に溢れているところだろうか。それでいて自虐的というわけでもない。片方ならばともかく二つとも備えている作家はそれほどいないのではないだろうか。ユーモア精神は、引用したインタビューからも伺えるだろう。また、『小説の王様』では感傷性を擁護している。

 アーヴィングと言うと長編のイメージが強いが、これらの短編も一級品である。文庫本になっていて入手しやすいし、気になった方はぜひご一読を。

 

文責 雲葉 零

 

引用文献

『ピギー・スニードを救う話』ジョン・アーヴィング 著 小川高義 訳 新潮社 1999年

『日本一怖い!ブック・オブ・ザ・イヤー2006』ロッキング・オン 2005年

*1:『日本一怖い!ブック・オブ・ザ・イヤー2006』50ページ

*2:『ピギー・スニードを救う話』作者紹介欄。

*3:『ピギー・スニードを救う話』8ページ。

*4:『ピギー・スニードを救う話』31ページ。

*5:原文ではsisterらしいので正確を期するなら、座りが悪いがこう言うしかない。

*6:『ピギー・スニードを救う話』250ページ。

*7:『ピギー・スニードを救う話』248ページ。