ソガイ

批評と創作を行う永久機関

書評『炸裂志』 閻連科 後編

文責 雲葉零 

神実主義とは何か

 本作では一種の超現実的な描写方法が取られている。例えば、孔明亮が出世の書類をかざしただけで枯れていた花がまた咲き始める。作者をこの手法を神実主義と名付ける。『炸裂志』に収録されている『神実主義とはなにか-外国版あとがき』を参照しながら、この手法について検討していく。

 神実主義は中国の歴史と深く関わっている。作者は言う。

 中国の現実が、ある種の新しい創作を迫っている。

 最も度し難い歴史と実在は、いわゆる神実主義の文学が生まれてくるように陣痛を促している*1

 作者は神実主義と中国の現実が関係している例として大躍進政策で膨大な成果が挙がったことを述べている。これはどういうことか? 私なりの考えを述べていこう。実際には大躍進政策は大失敗で数千万人規模の餓死者が発声した。だから「大躍進政策で膨大な成果が挙がった」というのは一見間違った文章に見える。しかし、ここで考慮しなくてはならない事がある。当時、虚偽の報告も相まって、公的には大成功と見なされたことである。

 すなわち、喧伝によって政府は「大躍進政策で膨大な成果を挙げる」事に成功したのである。あるいは大本営発表によって日本軍が米軍に大打撃を与えたように。もちろん、これはプロパガンダであって、現実は何ら変わっていない。

 しかし、権威主義国家において国家のプロパガンダに反対することは致命的である。仮に虚偽と気づいていても、公言することは難しい。なので、認識のレベル、あるいは建前のレベルでは確かに大躍進政策は成功したのである。このことは前述した政治的な言い換え、あるいはダブルスピークとも関連するだろう。

 また、作者は他の例も挙げている。土葬から火葬へと埋葬方法が変わった際に、老人が土葬されたいがために次々と切り替え前に死んでいったというのだ。作者が言うようにこれはリアリティのない話である。しかし、権力はリアリティのない現実を簡単に作り出す。北京オリンピックの際に中国政府が天候を操作しようとしたことを覚えている人もいるのではないか。開会式を晴れで迎えるためである*2。権力は自然現象をも、いとも簡単に超越するのである。

 権力の目的を達成する手段は物的な操作、あるいは言論、認識の操作による。いずれにせよ、認識や言論を含めた、広い意味で言えば、権力に不可能はないのである。もっとも権力の行使に関係のない局面でも神実主義の技法は使われている。なので、神実主義と権力の関係性は一面にすぎないことは留意しておく必要がある。

長男、孔明光と四男

 孔家四兄弟のうち、最後*3に平穏な生活を送っているのは孔明光と孔明輝だけだ。18章で、義憤に駆られた三男孔明耀は炸裂市民を徴兵し、出兵する。その際彼は、兄の孔明亮を殺害している。

 ここで二人の人柄を詳しく検討していこう。元は小学校教師の孔明光は孔明亮の出世に伴い、職位を挙げていき、大学の学長にまでなる。だが必ずしもこれは彼の本意ではない。孔明亮によって、学長に仕立て上げられただけである。彼は学長になっても、チョークにまみれ、学生に直接講義する。また、大学の建設費用を横領することもない。彼は金と権力よりも学問と教育に熱意を持っている。

 もっとも、彼は決して聖人君子とは言えない。人を害することは多くないが、積極的に人を助けとしている描写も少ない。また、彼は朱穎の策略により色欲に溺れ、妻と離婚する。さらには孔明亮に小学校から中学校への転任を頼むような人物である。また、当初は孔明亮の権力掌握に協力していた。とは言え、小学校から中学校への転任希望は権力欲からではなかった。当初の権力掌握への協力は、作中で心境が変化したと見るのが正しいかもしれない。最後には、孔明輝のはからいで妻と再婚し、子供を儲けている。

 孔明輝は朱穎に孔家で唯一まともと評される人物である。前述したように、賄賂を受け取らない清廉な人物であり、また孔明亮の金と権力を優先する行動に強い疑問をいだいている。しかし、作者が指摘するように*4権力者の前に彼は非力である。徴兵を敢行する兄、孔明耀に彼が出来たのは老人、女性、子供、不具者を対象外とすることだけだった。

規範と現実の両義性

 2から18章までの炸裂志を考える上で、18章の最後の描写は重要である。炸裂はスモッグによる激しい公害が続き、人々は喘息にかかり、鳥類、昆虫はいなくなってしまった。だが、それでも生き残っている人々は存在した。そして、ボタン、シャクヤク、ハマナスなどの植物は再生を始める。この終わり方は経済発展のため農業を放棄し、工場を立て、その代償として公害を被った炸裂の歴史とコントラストを成している。愛国者の元軍人と権力狂の市長が去った炸裂は長い時間の後、蘇ろうとしている。

 ここで、一旦話が変わるようだが、権力に抑圧される文化人たちのことを考えたい。彼らの抵抗は権力、暴力に対して、多くの場合無力である。紙の砦という形容詞すら立派過ぎ、実態に合わないほどである。当り前のことだが紙は紙にすぎないし、文字は文字に過ぎないのだ。

 暴力の前にはどんな価値を持った書物も破り捨てられ、どんな堅固な思想を持った文人も投獄されてしまう。彼らの武器は紙とペンとあるいは現代風に言うならパソコン。軍隊、警察の武器は戦車、装甲車、機関銃、自動小銃。武力を行使されたら、勝てる見込みなどない。

 実際、19章で『炸裂志』は無残に焼き払われてしまう。あるいは孔明輝が権力の前でほとんど無力であることを考えればいい。

 では言論による抵抗は無意味なのか? ここで重要なのは規範と現実を区別するという、半ば当たり前のことである。焚書古今東西で行われている事実と、焚書をしては、させてはいけないという規範を切り分けることである。

 『炸裂志』では19章で18章までが小説だったということが露呈されることで、この両義性が表現されているのである。つまり18章までの『炸裂志』は19章に登場する閻連科が望んだ歴史、そうあるべき歴史なのだ。正確に言うなら、現実の炸裂の歴史をかなり踏まえた上で、これからの最悪を避けられる歴史とでも言ったほうがいい。いわば、歴史のIFなのである。だから、これは一種の規範、願望である。あるいは現実の歴史に規範と願望がまじっている。

 ちなみに炸裂志の1章は付記と言う形になっており、炸裂の歴史は描写されていない。閻連科による序文が書かれ、炸裂市の編纂委員が列挙されて編纂年表が付されている。1章と19章は同じ世界線、つまり19章の閻連科が『炸裂志』を書いた世界線であると考えていいだろう。

 ここで見落としてはならないのは、四男孔明輝の名前だけが四兄弟のうち、列挙されていないということである。ここから、考えられることは孔家最大の良心、孔明輝の存在は19章に登場する閻連科*5の創作、つまり願望なのではないかということだ。

 『炸裂志』に対して権力者が失脚し、公害から回復する小説など、非現実的、無意味だという批判は成り立たない。何故ならば、2から18章まではまさしく現実そのものではないことが示されているからだ。それは1章の序文を書き、19章に登場する閻連科の小説、願望である。19章の中では孔亮明は権力を維持していることが示されている。

 2章から18章までが願望まじりならば19章はいわば現実である。19章に登場する閻連科の発言を見てみよう。怒り狂い、脅しをかける市長への返答である。

「ありがとう。孔市長。あなたはこの本の最初の読者だが、あなたの言葉で私はなかなか良い小説を書いたのだということがわかったよ」  

(『炸裂志』443頁。)

 一章の編纂年表にはこの発言をした閻連科がどのような末路を辿ったかが記されている。彼は故郷を剥奪され、二度と炸裂市に返ってくることはなかった。現実は残酷である。反体制派には容赦のない弾圧が加えられる。

 それでも我々と同じ世界に生き、中国に住む閻連科は筆を執り続ける。必ず、抵抗を成功させることはできない。しかし、弾圧されるにせよ、抵抗すること、抵抗を決断することはできるのだ。もちろん、それは日本に住む我々には想像が困難なほどの恐怖を伴う決断である。その事実を忘れて、彼を礼賛するのは、それこそ現実性がないただの願望だろう。

 

参考文献

『炸裂志』(2016)閻連科 泉京鹿訳 河出書房新社

朝日新聞』2012年9月28日付朝刊

コラム072 | 海上自衛隊幹部学校

(2017年8月2日 最終閲覧)

『第101回 雨を降らせて晴れを作る -人工降雨の技術-』TDKマガジン

(2017年8月2日 最終閲覧)

人類史上最速で成長する都市「深セン」で何が起きているのか | 変化し続ける街 知られざる深セン | ダイヤモンド・オンライン

(2017年8月2日 最終閲覧)

www.sankei.com

(2017年8月2日 最終閲覧)

*1:『炸裂志』451頁。

*2:『第101回 雨を降らせて晴れを作る -人工降雨の技術-』。

*3:念の為に言っておくと19章は除く。

*4:『炸裂志』467ページを参照。ただし、これは孫引きで原典は2013年9月29日『東方草報』である。

*5:つまり一章と同じ世界線の。