ソガイ

批評と創作を行う永久機関

朱を入れること

 つい最近まで、掃除というものが苦手だった。足の踏み場がない、という母親の非難は自覚しながら、同時に、この混沌のなかにもたしかな秩序というものがある。積み重なった本の塔から一冊を取り出そうとすると、必ずとなりの塔を崩し、あらら、と慌てて押さえたその肘が、肝心の塔を崩す。すると、もとの高さに積み直そうにも、もう元の混沌には戻らない。そもそも、もとの場所を覚えていないのだ。その点、この混沌は、そんじょそこらの整然よりも緻密で繊細な秩序を構成しているのではなかろうか、などと、どこか『杳子』の冒頭を思い起こしながら嘯いてみたことも、数知れない。しかし、ある朝、眠気なまこでコンセントの網につまずき、からだを横にしないと扉にもたどり着けない不便さに舌打ちが出たとき、片づけよう、と思い立った。結果、貴重な午前の時間を、本やプリント類の分類、処分に費やすこととなるのであった。

 デジタル化がますます進む世のなかにありながら、私はいまだ紙による保存に妙なこだわりを持っている。出てくる、出てくる、紙の山。半年は裏紙に困らないな。机に広げたノートパソコンから流れてくる音楽を口ずさみながら、ふんふん、と分類を推し進めていると、手のなかで、ぱりぱり、と小枝を踏んだときのような小気味よい音がした。原稿用紙だ。しかもかなりの枚数である。頭には番号が振ってある。所々に散らばっていたそれを、番号順に集める。それは2組、155枚と99枚、それぞれ未完成の作品であった。短い執筆歴において、パソコンのワープロソフトで書くことがほとんどであるが、ときたま、こうして手を使って書きたいという衝動に駆られ、生協で原稿用紙をまとめ買いして、文章を書いてみることがあった。

 未完ではあるものの、どちらも題材には思い入れがあった。証拠に、1ページ目を開いてみれば、いつ頃、どんな場所で書いたか、それを書くにあたって影響されていたもの、こだわり、みな思い出せたのである。この間、片づけが中断したのはいうまでもない。

 未完の傑作より完結した駄作、という言葉を思い出し、これもなにかの縁だ、完成させてやろう、と、まずはすでに書かれている分の推敲に取りかかることにする。休憩と称して、掃除が終わって見た目だけは広くなった机に、コーヒーを準備し、赤ボールペンを片手に、原稿用紙に相対する。お世辞にもきれいとは言えない自分の字に、ああ、ここはたしか講義中に隠れて書いていたところだな、とノスタルジーに浸っていた気分は、しかし、たちまちに霧散する。

 おれ、こんなに下手だったのか。いや、年齢の問題ではない。語彙といった点ではそう変わらないと思うし、むしろ、当時の方がどことなく洒落た言葉を使えている気がする。

 しかし、それにしてもくどい。説明的な文章が、分量の割になにも説明できていない。接続語が多い。台詞がクサい。なんだ、この三点リーダー。視点がごちゃごちゃじゃないか。「いかんともしがたい」などの言い回しが明らかに浮いている。ここ、かっこつけているつもりなんだろうが、それがかっこ悪いぞ。

 それはもう、問題点ばかりが出てくる。どことなく、一昔前に流行った(いまは知らないが)、すかした主人公のライトノベル作品の文章の感じがあり、これもこれで、この方向で振り切っていればいいのだが、中途半端にブンガクたろうとしているところなど、救いようがない。

 文章、そこそこできる方だと思っていたんだがなあ。数ヶ月ほど前に書いた短編で、いまの自分にできるほぼ最高の文章と表現を達成できた、と自負していただけに、過去の自分への落胆が大きい。こいつ、自分から切り離してしまおうか、などと、一瞬とはいえ、衝動的に奥歯に力が入った。意図して肩の力を多分に抜き、コーヒーを一服。気持ちを落ち着けてから、改めて推敲に挑む。長らく疑問であったが、執筆というものには出産に関連する言葉がしばしば用いられる。処女作、中絶、流産。もうちょっといい意味で使われてもよかろうに、とは思うが、とまれ、こんなものでも、自分の書いた文章は、いわば子どもみたいなものだ。愛をもって、この手のかかる息子(なぜだか娘には思えなかった)と相対してやろう。

 20×20のマス目、直しがないページはひとつとしてなく、ときに、半分以上の分量を削って隙間がなくなるほど真っ赤になった原稿用紙を見て、もしかしたらこの数年間で、多少なりとも文章の技術が向上しているか、あるいは、文章の下手さがましなものになっているか。とにかく成長しているのかもしれない、と思った。推敲された文章には、多少なりとも、その間に読んできたいくらかの書物や経験が、色を添えてくれるだろう。

 訂正の血潮のような朱の下では、かつての自分が、なんで直すのさ、とふてくされている。悪いなあ、なんてつぶやきながら、またひとつ、トルツメの直線をいれる。この作品が一応の完結をみせたとき、そこにはきっと、また新しい朱が入るのだろう。