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書評『鏡の中を数える』プラープダー・ユン 後編

オタッキーな家族』

 オタクという言葉よりもむしろ、それぞれが奇癖を抱えている家族といったほうが分かりやすいだろう。少なくとも、彼らはアニメ、漫画、アイドル、鉄道などのよくいるオタクではない。

 そこで、家族構成と彼らの奇癖を紹介する。

カーン 語り手。

ウティット 語り手の父 トイレオタク。

キン 語り手の姉 奇問オタク。

トン 語り手の弟 抜け毛オタク。

語り手の母 故人。

 家族の奇癖が強烈であるが、短編の構造自体は複雑なものではない。この作品は父親の誕生日会を中心に描かれているので、そこでの彼らの具体的な奇癖ぶりを紹介しよう。父親は会場に日本料理店を選ぶのだが、その理由はトイレが日本式だからである。そして彼はトイレ撮影のためにわざわざカメラを持ってくる。撮影フィルムは三個。弟のトンは語り手であるカーンの抜け毛を採集する。姉のキンはもし、眉が目の上ではなく下だったら、どうなっていただろうという奇問を発する。

 この短編で興味深いのは、彼らの奇癖が家族のつながりを形成していることだろう。例えば、語り手は以下のような思い出を持っている。語り手は子供時代に父にトイレ(タイでは浴室を兼ねている)の絵を描かされたことがあった。そこで姉は紙のトイレでどうやって水浴びをするのかという質問をする。弟は絵にゴミ受けの栓がないので、抜けた髪がすべて流れてしまい、もったいないと文句をいう。トイレの絵を描かせるという、父親の奇妙な行動によって、家族の会話と思い出が生まれているのである。

 ここで注目すべきなのは、彼らはそこまで仲が良いというわけではないが、仲が悪いというわけではないはずだ。もちろん、子どもたちがあまりに幼いのであったら、家族から離れるという選択肢は現実的ではない。だが、最も年下のトンでさえ大学学部の四年生、姉妹に至ってはもう働いている。経済的に、語り手と姉は経済的に自立できているはずである。また、語り手は作品冒頭で、家族の奇癖に対する嫌悪感を表明するが、父の誕生日会に出席する程度には仲が悪くない。

 宇戸は「オタク行為によって、しか紐帯を確認できないファミリー」*1と彼らをやや否定的に評している。私はむしろ彼らのようなつながりを築けている家族のほうが、現代では少ないのではないかとさえ感じる。成人した子どもたち全員に誕生日会に出席してもらえる父親がどれだけいるだろうか。もちろん、日本とタイの文化的差異は考慮しなければならないが。

 ここでディズニーランドでぐったりするお父さんというイメージを考えてみたい。なぜお父さんはぐったりしてしまうのか。それは彼が家族サービスをしてしまうからである。あるいは彼が家族サービスを要請されるからである。

 もし、サービスをする必要がなくても、ディズニーランドにあまり興味が無いかもしれない。例えば、ある父は絶叫コースターやメルヘンチックなアトラクションが嫌いかもしれない。ここで、語り手の父、ウティットを考えてみよう。彼なら喜々としてディズニーランド中のトイレを楽しむであろう。

 分かりやすい例だから父親を出したがこれは子供や母親でも一緒である。趣向が一致していない限り、同じように物事を楽しむことは出来ない。誰かが我慢をして周りに合わせなければならない。

 なぜならば、家族はそもそも趣味、趣向によって形成された集団ではないからである。もちろん、家族が互いに多少の影響をあたえることはありうる。だが趣味のサークルを考えてみれば、その差異は明らかである。そして、我慢に耐えられなくなった構成員は家族と疎遠になるか、そこまで行かなくても家族と出かけるようなことはしなくなる。

 ここで話を語り手の家族達に戻そう。語り手の家族達は、日本料理店で食事をするという同じ体験をしながら、まったく違う目線を有している。父はトイレを楽しみ、姉は奇問を尋ね、弟は抜け毛を集める。一方で、彼らはそれなりの量の会話*2を交わしている。彼らは場を共有しつつ、異なる方法で楽しんでいる。これが彼らが、緩やかな家族のつながりを形成できている理由である。

  最後には、語り手自体も、奇癖を抱えているということが、家族からの指摘で明らかにされる。なんと語り手はパンツを履いていなかったのだ。信頼できない語り手という大仰な言葉を使うよりも、ジョークのオチと言った説明のほうがしっくり来る終わり方である。

 

 以下、本稿で取り上げなかった作品の少しばかりの紹介。

『存在のあり得た可能性』 

 「ぼくは絶対に変わらない」と書いてある中学生時代のメモを目にし、語り手は自分の人生を見つめ直し始める。彼は子供の頃、哲学者の箴言を読むのを好み、大学時代には芸術家を目指した。だが挫折し、現在就いている下らないCMづくりの仕事とそれによって得た成功にうんざりしている。基本的に鬱屈とした小説だが、ユーモラスな場面もあるのが面白い。

 例えば、CM内容の陳腐さについての描写にはくすりと笑わされてしまう。具体的に、語り手が担当した口臭ドロップのCMを説明する。語り手はCMにドラキュラを登場させる。美しい女性を噛もうとするドラキュラ。女性を助けようとするハンサムな男性の十字架による攻撃はドラキュラには通用しない。なぜならば、ドラキュラは仏教に帰依しているからだ*3。そして、ドラキュラが女性に口臭を嫌われてドロップを舐めなければ噛むことができないというオチが用意されている。こんなCMを無理に作らなければならないとしたら、ちょっとぞっとする。

 

『あゆみは独り言を言ったことがない』

 この短編には二人の主人公と言っていい、中心的な人物が描写されている。あゆみとAYUMIである。敢えて現実的に解釈するならば、AYUMIはあゆみの別人格である。AYUMIが誕生したきっかけはあゆみが父親から性的暴行を受けたことであった。あゆみは日本とタイの混血児であるケンと付き合い、タイに行くことになる。

 本筋とはあまり関係ないが、ケンの知り合いであるドイツ人の三人組を「ナチの三人組」とあゆみが呼んでいる描写には笑ってしまった。他にもドイツ人三人組の一人、ヨセフとケンが大麻を吸い、トイレから帰ってきた描写もなかなかであった。

 

ケンとヨセフは互いに首に手を回してトイレから帰ってきた。ヨセフはまるでたったいま、麻薬解禁のノーベル賞をもらいでもしたかのように満面に笑みを浮かべている*4

 

 

『重複する出来事』

 僅か一〇頁ほどの短編なのに、描写の重点が置かれる人物が次から次へと移り変わっていくのが特徴。そして彼らは互いに関係性を有している人間たちである。具体的に言うと、最初に描写されるのはポーという男性なのだが、その次に描写されるのはポーの兄である警官なのだ。

 また、最後に描写される人物が作中で読んでいる本の始まりが手が込んでいる。その文章は短編の終わりに地の文で提示される。それが、この短編の始まりの部分、つまりポーの描写なのだ。もっとも、厳密に言うと、少し冒頭がカットされているのだが。つまり、この短編は円環あるいは入れ子構造となっており、典型的なメタフィクションと言える。

 

『トンチャイの見方』

 九歳の少女トンチャイの物の見方が描写されている。例えば、彼女は一足す一がニになるということが理解できず、一か三以上になるはずだと考える。

 

『肉の眼で』

 語り手がプロンという知り合いから、呼び捨てにする保証書をもらうという奇妙な場面から短編は始まる。プロンはこれが保証書だといって、署名付きの紙を渡してくる。

 語り手がプロンと出会ったのは公園でジョギングをしている時だった。プロンは公園で人間観察をし、その人間が善か悪かを判定していた*5顔を見るだけで善か悪が分かるという彼と語り手との交流が描かれていく。

 

『消滅記念日』

 初めて出会った、見知らぬ看護師の女性からお父さんと言われた語り手は困惑する。しかし、彼が彼女に強く反論することはなかった。いくら自分の名前、年齢、性別、職業などを挙げても、自分の存在を説明することは出来ないと感じたからだ。そして彼は徐々に女性の父であることを受け入れ始めていく。

 

『リビングの中の乳首』

 若い女性であるワリーは夫を目の前での交通事故でなくす。その後、疎遠だった義母を訪れた時に彼女は珍妙な事実に気づく。自分をモデルにし夫が捏ねた乳首の像がリビングに飾られていたのだ。夫が義母には、その像を肉まんと説明していたという描写は単純に笑える。

 

『スペースを空けて書く人』

 スペースに異常な執念を燃やす語り手が描写されている。スペースにここまで重点を置いた小説は見たことがない。

 

『母さん雪をあげる』

 脳の障害あるいは病気を持った男性と母親の話。子供の頃から男性は、何故か一度も見たことがない雪という存在を知り、草を母親に対して手渡してくる。雪を持ってきたよ、と言いながら。そんな彼女たちは雪のあるアラスカに旅行をすることになる。

 

引用文献一覧

『鏡の中を数える』 宇戸清治訳(2007) タイフーン・ブックス・ジャパン

『現代タイのポストモダン短編集』 宇戸清治 編訳(2012) 財団法人大同生命国際文化基金

参考文献

http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/udo/pura.pdf

東京外国語大学 『タイ化されたポストモダン文学の愉しみ』(2017年7月27日最終閲覧)

 一瞥したところ内容は『鏡の中を数える』の訳者あとがきと同じようです。ただウェブ上からアクセスできるのは便利なので、載せておきます。

*1:『鏡の中を数える』237頁。

*2:と言ってもそれぞれの奇癖が会話の中心だが

*3:如何にもタイらしい。

*4:『鏡の中を数える』84頁。

*5:小説ならばともかく、現実ではあまりお目にかかりたくないタイプの人間だ。