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書評『鏡の中を数える』プラープダー・ユン 前編

 雲葉 零

 『鏡の中を数える』は一二の短編が収録されている、短編集である。この短編集に収められている『存在の有り得た可能性』は東南アジア文学賞を受賞している。また、訳者はタイ文学者で東京外国語大学名誉教授の宇戸清治である。

 プラープダー・ユンはまだ四〇代だが、現代タイ文学界では著名な作家である。また、日本文化に造詣が深く、禅や茶道を学びに何度も来日したことがある。その日本文化への関心は、方丈記から浅田彰中沢新一現代思想にまで及ぶ*1。本短編集にはメタフィクション、あるいはポストモダン的な作品が多く収録されている印象を受けた。また、作中にはしばしば日本人の語り手や日本文化も登場している。

  一二もの短編が収録されているので、全ての作品の内容を詳しく見ていくのは容易ではない。そこで、まずは私が気に入った短編を中心に紹介していく。また長くなったので、前後編に分割してある。

 

『マルットは海を見つめる』 『バーラミー』

 二つのタイトルを続けて書いたのは誤記ではない。この二つの作品は内容的に深く関係しているから、一体として見ていく。

『マルットは海を見つめる』では作中人物が、自分が作中人物であることを自覚している*2。そして「作者であるプラープダー・ユン」をひたすら罵倒し続ける。

 しかし、正直私はこの作品をあまり高く評価していない。というのも、どうにも子供だましに近いような印象が拭いきれなかったからである。結局、ユンがこのような小説を書いているだけだろうと感じてしまう。

  元々、私はメタフィクションがあまり好きではないのもこの理由による。メタフィクションでは、しばしば、小説が作りものであること、作者の厳密な制御下にあることが白日のもとにさらされる。いわば、人形を操っている黒子が顔を隠さないようなものだ。そこで喜ぶ人もいるだろうが、私はどちらかと言うと白けてしまうのだ。もちろん、そういう効果を狙って書いているのだと反論もありうるだろうが。

 続編とも言える『バーラミー』は、この問題にある種の解決策を提示しているように思える。その解決策のキーワードはゴーストライターと三角関係である。

 以下の箇条書きを適時読んでいただけると、ある程度『バーラミー』の構造が理解できると思う。

 

1 プラープダー・ユン 私達と同じ世界に生きている作者。ただし、作中での言及はない。

2 プラープダー・ユン 『バーラミー』の作中で、「プラープダー・ユン」作品の作者と世間に認識されているとされる人物。また本名もプラープダー・ユン。ただし、名前を貸しているだけで、実際には書いていないとされる。

3 2のプラープダー・ユンのゴーストライター 作中で『バーラミー』の語りてであり、プラープダー・ユン作品の作者とされる。

 

 この三角関係によって『バーラミー』は『マルットは海を見つめる』とは比較にならない複雑性を獲得している。三角関係は一対一の関係性とは比べ物にならない深みをもつのだ。脱線して、中国史の例を引けば項羽と劉邦の対決よりも三国志のほうが多くに人にとって馴染みがあるように。

 いちいち説明をつけ加えるのは煩雑なのでこれからは彼らを割り振った数字1、2、3にユンという名前を付け加えて指示する。また時には数字のみで指示する。

 ざっとあらすじを述べよう。語り手である3のユンは2のユンとたまたま香港への船上で出会う。3は元々小説家志望であったが、出版社から良い返事を貰えていなかった。一方、2は名声が欲しく、作家になりたいと考えていたが、小説を書く気はなかった。また、2はメディア界で力を持った両親を持っているた。そこで二人は3が2のゴーストライターになることに合意する。両親の七光りもあって、3が送ったプラープダー・ユン名義の作品は評価される。3は次々とプラープダー・ユン名義の作品を出し、2は名声を得ることに成功する。

 しかし、2はプラープダー・ユンという名前が文学的な名声を得たことにによって、行動に不自由を感じ始める。そこで彼は3にある提案をする。3が2のゴーストライターである事実を暴露してほしいというのだ。3はそんなことをしても小説上のトリックだと思われるだけだと反論するが、2はそれでも構わないと言う。こうして『バーラミー』という短編が一種の暴露話であることが明かされる。

  ちなみに『バーラミー』で描写されている2のユンの経歴は、どうやらかなり1と同じようである*3

 ここで内容的にも形式的にも興味深い2のユンの発言を引用しよう。その発言は3のユンに聞き取られ、彼によって書かれている。2はタイの批評をこう批判する。

タイの批評はどれも哀れむべきレベルだ、と彼は珍しく自分の意見を口にした。それは筆者がそろいもそろって、自分は何百冊もの洋書を読んだのだからなんでも知っている優れた批評家なのだと勝手に思い込んでいるからだ。(中略)欧米でポストモダンが流行ればタイでもポストモダンというわけさ。モダンだって本当は分かる人間が数えるほどか、あるいは全くいなかったかもしれないのに。

 タイでは、洋書をいくら読んだかが知識があるかどうかの、判断テストとして使用されることを指摘するのである。これは日本も含めた影響力のない下流文学の避けられない宿命である。

 もちろん、小説の中で「作者」が意見を述べているからと言って、それを単純に真に受けるのはナイーブ過ぎる*4。私としては、ただ一般論として、2のユンの意見に共感すると言っておくしかない。

 もっとも、メタフィクションなど眼中になさそうな作品の場合は別である。小説ではないが、例えば『ゴーマニズム宣言』を考えてみればいい。小林よしのりは漫画の中の小林よしのりと自分の主張が合致すること、二人が同一であることについて首肯するだろう。また読者もそのことに疑問を持つことはない。

 作者たる1のユンは作中の2のユンに引用した文章を言わせた。例え、それが事実だとしても、1のプラープダー・ユンが引用した文章の趣旨を認めているというわけではない。だが認めていないとも言えないのである。そして、その真偽を判定するのは作品内部からは不可能と言えよう。

 ここで『マルットは海を見つめる』との違いを考えてみよう。『マルットは海を見つめる』に投げかけられる所詮文学実験という批判は、作品内ですでに回収されている。作中人物が作中人物を自覚するという手段を取っていないからである。あくまで現実に存在すると主張する人物である3がこの小説を書いているということの効果である。

 また、2のユンが自分の名声にうんざりするシーンは印象的である。何故ならば、例えゴーストライターを起用していなくても、作者がこれまでの作品や名声に影響されるということはありうるからである。逆の言い方をすれば、本名やペンネームを継続して使い続けるということは一種のゴーストライターなのである。それはたとえ、小説を書いていなくても同じである。前述したとおり、作中でも名前をプラープダー・ユンに変えただけで作品が受け入れられたことが書かれている。

 しかし、以上のような込み入った解釈を弄しても、まだこの作品の紹介は不十分だろう。是非、実際に手にとって読んでもらいたい。頭がクラクラしてくるだろうが。理路整然とした解釈など端から、相手にされないような短編なのかもしれない。いや理路整然とした解釈そのものを求めるではなく、解釈に至る思考と戯れる作品といったほうがいいのかもしれない。

 

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に続く

 

 

 

 

 

 

*1:『現代タイのポストモダン短編集』270及び271頁。

*2:ここで私は、筒井康隆虚人たち始めとする作品群を思い出した。日本文化に詳しいユンならひょっとしたら読んでいるかもしれない。

*3:『鏡の中を数える』236頁を参照した

*4:この点については、宇戸が訳者あとがきで引用した文章を無批判に1の「プラープダー・ユン」の意見だと受けといっていて驚いた。