ソガイ

批評と創作を行う永久機関

文学

限定本と「貧しい」本—「美しい本—湯川書房の書物と版画」

日本の出版において豪華本・限定本といえば、長谷川巳之吉の第一書房を初めとして、野田誠三の野田書房、江川正之の江川書房、斎藤昌三の書物展望社など、主には戦前昭和期に隆盛を極めた出版社とその社主の名前が思い浮かぶ。 だが、1969年に設立してから、…

『イブニング』休刊と文芸文庫

『イブニング』休刊のニュースには驚いた。たしかに『モーニング』や『アフタヌーン』と比べると最近はあまりヒット作に恵まれていない印象はあるが、それほど漫画好きでもない私ですらよく知っている名前だし、それに版元はあの講談社だ。しかし、それくら…

文庫化で削除される初出情報から—堀江敏幸『オールドレンズの神のもとで』文庫版あとがきから

日本の出版においては、最初に単行本で刊行されて、数年経ってから文庫本として刊行される文学作品やエッセイは多い。 主となる中身自体は基本的に単行本でも文庫本でも大きく変わるわけではない。新刊が出ると、文庫になるまで待とうかな、といった声がとこ…

筆まかせ14

8月24日 最近、別にそんなにたくさん本を読もうとしなくてもいいのではないか、と思うようになった。 これは、「本なんて読まなくてもいい」ということではもちろんなくて、本を読むことを目的として本を読むのはどうなんだろう、という疑問によるものだ。 …

社会現象としての「私」を引き受けるために—佐伯一麦を巡る対話から広がる随想

最近、主に友人と二人で佐伯一麦の文章を読む勉強会、という名の会合を定期的に行っている。佐伯一麦の近刊『Nさんの机で ものをめぐる文学的自叙伝』(田畑書店)を私が読んだことを聞いて、私小説というものについて気になっていた彼から声をかけてもらっ…

新書というメディア

最近、ことあるごとに考えさせられていることがある。それは、本を読む人は、一冊の本を読み通すことをあまりにも簡単に考えすぎるきらいがないだろうか、ということだ。 私はここ数年ずっと「これからの出版」を私なりに考えている。無論、メディアがここま…

筆まかせ10

吉本隆明・蓮實重彥・清水徹・浅沼圭司『書物の現在』(書肆風の薔薇、1989年) 9人の連続講義「書物の現在」から4人の講義を文字に起こした講義録。 浅沼、清水が出版原理について、蓮實、吉本が雑誌製作の現場について話している。 やや古い本ではあるが、け…

漱石と子規の「硝子戸」

日本で「文豪」と言えば真っ先に名前が挙がるのは、おそらく夏目漱石だろう。もはや死語になっている感もある「国民作家」という呼称を与えることに特に異論は覚えない漱石だが、その作品は、現代の読者からすれば必ずしも読みやすいものではないと思うのは…

個人的2020年の10作品(矢馬潤)

いろいろあった2020年、「ソガイ」としてはそれほど多くの活動ができたわけではない。5月に「ソガイ」の第五号を刊行、その後、7月に「ソガイ〈封切〉叢書」を勢いで開始し、先日第三号まで刊行することができた。現状、その執筆者は矢馬のみとなっているが…

本というもの——山中剛史『谷崎潤一郎と書物』「序にかえて」から

もしかしたらどこかで言っていたかもしれないが、私の学部、修士を通じての研究テーマは谷崎潤一郎だ。もともとは谷崎と芥川の、いわゆる「〈小説〉の筋」論争に興味をもったところから始まった。それは大学2年生くらいのことだったと思うが、当時の私は「小…

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第15回

www.sogai.net 第15回 当初の予定では、そろそろ終わっていてもおかしくはなかったのだ。それなのに、まだ半分もいっていない。もちろん、これは私の怠惰というほかないのだが、ペースが落ちていること、そしてモチベーションがいまいち上がらないことには、…

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第14回

www.sogai.net ようやく100頁を越えた。ところが、問題はすぐに訪れた。この次の「11 猫たちの日々」と「12 シュレーディンガーと呼んでいただきたい」、正直、ちょっと書くことが思いつかない。それでも何かしらは書かなくてはならない。自信はないが、頑張…

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第13回

www.sogai.net 「10 天狼星(シリウス)の高みから」 わかっていたことだが、なかなか話が進まないので、だんだんとなにを書けば良いのか、わからなくなってくる。もともと私は綿密なプロットを立てて文章を書くタイプではないのだが、ことこの読書ノートに…

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第12回

www.sogai.net 第12回 だいぶ時間が空いてしまった。この間にはいろいろあって、他の文章を読んで論文を書いたり、それとは関係のない文章を書いたり、そもそも雑事に追われて、あまり本を読めない時期があったりもした。世の中でも様々な出来事が起きて、ま…

死者とともに生きる—「100分de名著」大江健三郎『燃えあがる緑の木』を観ながら思ったこと

初めて、ちゃんと腰を据えて「100分de名著」を観ている。2019年9月は大江健三郎の『燃えあがる緑の木』を取りあげている。大江健三郎は、実のところすこし苦手で、『死者の奢り・飼育』といった短篇はまだしも、『万延元年のフットボール』や『懐かしい年へ…

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第11回

www.sogai.net 第11回 先日、友人のお宅にお邪魔した。その友人は2匹の猫を飼っていて、そのうちの1匹が黒猫だった。 人懐っこいキジトラの子と比べるとなかなかこちらに顔を出してこない黒猫の子に近寄る。すると、すすっとからだをよじって、ベッドの…

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第10回

www.sogai.net 第10回 先日、「すみだ北斎美術館」に行ってきた。行くのを決めたのは前日の夜だった。その理由というのもまあ不純なものである。 私は半年ほど前からたまにダーツをやっている。これまでは通販で買った初心者セットをなんとなく使っていた…

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第9回

www.sogai.net 第9回 芸能人やスポーツ選手の生い立ちを、再現ドラマを交えながら描く。そんなバラエティ番組を観たことがあるだろうか。複雑な家庭環境、苦しい生活、恩師との出会い、仲間との再会、そしてつかみ取る成功……。そのとき、司会や雛壇の芸能人…

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第8回

www.sogai.net 第8回 書評のようなものをはじめてから2年くらい経つが、ときどき思うのだ。もうこれ、内容をそのまま差し出すだけでいいんじゃないか、と。もちろん著作権的には問題があるのだが、しかし、本音を言えば、やっぱり文章のどこかを切り取ると…

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第7回

www.sogai.net 第7回 第5章「眠れない夜」。 「なぜなぜ期」という言葉がある。2、3歳くらいの子どもが、どんな物事にも「なんで?」「どうして?」と質問ぜめしてくる時期のことだ。それは些細なものから、ときに壮大なものだったり、哲学的なものだっ…

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第6回

www.sogai.net 第6回 前回、引用についていま思っていることを少し書いた。そういった理由で、とくにこの文章において、私は可能な限り長めの引用をしてきた。 なので、ここでは逆に、断片的な引用を並べてみる。逆のことをやってみる。このことが思いのほ…

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第5回

www.sogai.net 第5回 第4章「中国影絵」。そもそも中国影絵ってなんなんだ、とも思うけれど、ひとまず先に進む。ともかく、「わたし」のもとに一匹の猫がやってきたのだ。 「わたし」は、その猫によって思考のあり方が変わってくる。「何でもないようなこ…

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第4回

www.sogai.net 第4回 本題に入るまえに、ちょっとした余談。 昨日、仕事のあと書店に寄って店内を歩き回っていた。ひとつ、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)が気になっていて、これは確実に欲しかった。売れ行きが好調だと聞…

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第3回

www.sogai.net 第3回 第二章「すべての猫が灰色に見えるとき」。 日が沈み、雲が月と星々を隠していた。雲は空を覆い尽くし、残された光を奪ってしまう。庭の片隅に、それは姿を現した。リラのすぐそば、ほとんど乾き切った大きな金雀児の近くだ。それは壁…

習作としての読書ノート 『シュレーディンガーの猫を追って』第2回

www.sogai.net 第2回 第一部に入っていく。第一章「むかしむかし、二度あったこと」。 むかしむかし。子どものころを思い出す。おとぎ話のはじまりはいつもこれだった。まさか、この小説は童話になっていくのだろうか。とにかく読み進めよう。 シュレーディ…

習作としての読書ノート 『シュレーディンガーの猫を追って』第1回

最近、やってみたいこととやらねばならないことが重なり、ちょっとどっちつかずになっているような気がする。だから、腰を据えてなにかひとつのことを続けてみようと思った。そこで、ひとつの作品を少しずつ読んでいき、思ったことや気づいたこと、連想した…

中村光夫の可能性—『虚実』あとがきから

中村光夫といえば、『風俗小説論』における私小説批判が有名だろう。もちろん、彼の仕事はこれだけではないのだが、とはいえ、もはや『風俗小説論』こそが彼の代名詞のようになってしまっている。そんな風潮を責めているわけではない。事実、私にとってもだ…

散歩の視線—小山清「犬の生活」

ひとは、どこを見て過ごしているのだろうか。 数年前、とは言っても、もう零よりは十に近い年数が経っているが、精神に不調をきたして外に出られなくなったときのリハビリとしてはじめた散歩が癖になって、意味もなく一駅とか二駅とか、それくらいの距離を歩…

「空気」に抵抗する言葉を求めてー宇佐見英治『言葉の木蔭 詩から、詩へ』

この本に出会うまで、宇佐見英治の名前を知らなかった。宇佐見英治著、堀江敏幸編『言葉の木蔭 詩から、詩へ』(港の人、2018年3月)。 著者略歴によると宇佐見英治は、「1918年、大阪に生まれる。詩人、文筆家。『同時代』同人として活躍、美術評論や翻訳も…

迷いながら書く―小川国夫を読みながら感じたこと

先年、日本近代文学館に初めて行ってきた。「没後十年 小川国夫展―はじめに言葉/光ありき―」を観に行くためだ。私は最近、小川国夫という作家に興味を持ち始めた。そんな折にTwitterをのぞいていたら、まさに渡りに船、こんな展示が催されていることを知っ…