ソガイ

批評と創作を行う永久機関

『ソガイvol.2 物語と労働』紹介

 

表紙と裏表紙

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表紙に書いてあるようにソガイ第二号のテーマは「物語と労働」です。

B5版で80ページ、定価は500円です。

 

目次と概要(クリックすると該当箇所の一部が読めます)

論考 次元を越えた「瓜二つ」―― 磯﨑憲一郎『赤の他人の瓜二つ』 宵野雪夏 2

 『赤の他人の瓜二つ』を中心に磯崎憲一郎の文体の不気味さが検討されている。一例を上げれば、渡辺直己が言うところの移人称小説という概念にも磯崎の小説が当てはまらないことが本論考では指摘されている。

 

書評 『勝手に生きろ』書評 ブコウスキーは正論に対して虚構で対抗する 雲葉 零 24

 チャールズ・ブコウスキーの小説『勝手に生きろ』ではしばしば労働への言及が見られる。ただし、主人公が目まぐるしく職場を変えるように、肯定的というより否定的な意味合いで。このことを足がかりに労働とブコウスキー、正論と虚構の関係が語られる。

 

創作 『富が無限に湧き出る泉』 雲葉 零 37

 マルクス「ゴータ綱領批判」の一説に出てくる富が湧き出る泉という比喩をモチーフに、労働せずに生活することが可能になった世界が描かれている。

 

書評 ロボットからのギフトの可能性について ~『プラスティック・メモリーズ』所感~ 宵野雪夏 47

 そもそもロボットという言葉が強制労働、強制労働者を語源に持つようにロボットと労働は深く結びついている。このアニメのヒロインでありロボットの一種であるアイラもまた、人間に労働を背負わされていた。その上で、本評論は人間とロボットの労働にとどまらない関係性を考察している。

 

論考 働かないことを夢見た人間たち 雲葉 零 60

本論考では不労主義という概念が導入されている。不労主義とは簡単に言えば、短時間労働や労働の廃絶を主張する思想のことである。論考、エッセー、小説などの形で表された不労主義を比較検討し、不労主義が空想的にならざるを得ないことが語られている。

 

    ソガイ第二号試し読み

 また、以下ソガイの本文の試し読みを公開します。それぞれの文章につき、全体の一、二割ほどが対象となっています。なお、縦書きが横書きになっている等、冊子との形式的な差異が一部あります。

                                   次元を越えた「瓜二つ」――磯﨑憲一郎『赤の他人の瓜二つ』

 

宵野雪夏

語り手、移人称小説、不気味

 小説作品において、もっとも仕事量が多い役割を担う者。それはきっと、語り手である。
 たとえば芥川龍之介の短編作品には、作中人物が物語を語るものがいくつもある。しかし、実際にそれを休憩を挟まずに語り尽くすことは、ほとんど不可能に近い。短編作品であっても、それをすべて音読することは難しいのだ。ましてやそれが長編であれば。気の遠くなるような労苦が費やされることだろう。
 同時に、小説は語り手なしでは成り立たない。読者は、語り手を通じて初めて、物語の世界に触れることができる。出来事があるだけでは、小説にはならない。小説を小説たらしめているものは、この仲介者たる語り手の存在である、と言ってしまってもいいかもしれない。それほどの功労者なのだ。
 しかし、そんな語り手がどうにもあやふやで、だからこそかえって、妙な存在感を示している作品がある。磯﨑憲一郎『赤の他人の瓜二つ』の語り手、より正確に言えば、語り手だったはずの「私」は、ちょっと異様な存在である。

血の繋がっていない、赤の他人が瓜二つ。そんなのはどこにでもよくある話だ。しかしそう口にしてみたところで、それがじっさいに血の繋がりのないことを何ら保証するものでもない。――私が初めてあの男と会ったとき、そんな自問自答が思い浮かんだ。それほど男は私にそっくりだった、まるで記憶の中の自分の顔を見ているかのようだった。にもかかわらず、周囲の誰ひとりそれを指摘しようともしない、気づいてすらいないように見えることが、私の不安を煽るのだ。(五頁)

 このようにして登場した「私」は、「私」自身の話をし始めるのかとおもいきや、そうはならない。その町の男はみな工場労働者で、どの家庭も同じような生活をしている、と語って、「私」も含めた工場労働者や子ども、妻の生活について、話を始める。もちろん、その工場労働者のなかには「私」はもちろん、その「私」と瓜二つの男も含まれているのだろう。しかし、しばらくそれが続くと、次のようなまとめに入る。

これが工場労働者の生活だった。私の生活がそうだったのだから、その男も同じ生活を送っていたことはまず間違いない。ほかの生活が入り込む余地などはないのだ。男の家には男の子と女の子の二人の子供がいた。(八頁)

 こう語られた以降、しばらくはこの「男の子」に寄り添った視点で語られるようになる。「私」はもう出てこない。その後、「男の子」「女の子」「コロンブス」「コジモ三世」「医者」「男」「女」「父」「母」と、視点は目まぐるしく移動するが、この「私」には再登場の機会が訪れない。こうしてわずか三頁後に、「私」は姿を消すのだ。
 この事態は、それこそ、冒頭での「私」の「不安」が、現実のものとなってしまった、ということになろう。つまり、当初は「私」によって語られていたのだが、それはすぐに入れ替わってしまい、最終的にはその異様さに気づかれないまま、読者にも『赤の他人の瓜二つ』という作品にも、忘却させられて終わる。「私」とはいちおう、小説の文法、とりわけ近代以降の日本の文学において、どこか特権的な地位を有している存在である。「私」が語っている。そのことが物語の正当性を担保している、というくらいに。人口に膾炙した例示かもしれないが、『大鏡』は、その語り手に、一九〇歳の大宅世継と一八〇歳の夏山繁樹を据えたのだ。彼らが実際に体験したことを語っている、という体が、『大鏡』のリアリティを支えている。それだけ、だれかが「見ている」ということ、そしてそのひとが「語る」ということが重要視されているのだ。いや、必ずしも語り手の話は信用できない。「信用できない語り手」がいるではないか。もちろんその通りだ。しかし、それはいわゆるメタフィクションの手法のひとつ。メタ、とはつまり批評のことで、語り手は本当のことを語る、という暗黙の了解がなければそもそも成立しない。
 ひとつの小説のなかでは人称をひとつにするのが一般的だ。もちろん、これは視点をひとつにしなければならない、ということではない。一元も多元もあるだろう。二人称小説は例外的な存在だから置いておくとして、一人称か三人称か。細かい分類を抜きにすると、小説は概ね、このどちらかの人称で語られる。
 しかし、近年の日本文学では、この一人称と三人称をひとつの作品内で移動する小説が増えている、という。批評家の渡部直己が「移人称小説」と名付けたものがそれだ。
 要点だけを簡単にまとめると、渡部の「移人称小説」とは、作中で一人称と三人称が入り交じる小説のことである。具体的には、小野正嗣『森のはずれで』、岡田利規『三月の5日間』『わたしたちに許された特別な時間の終わり』、青木淳吾『このあいだ東京でね』、柴崎友香『わたしがいなかった街で』『春の庭』、松田青子『スタッキング可能』など、最近の作品に、そういったものが多い、という。そこには、『赤の他人の瓜二つ』も挙げられている。
 これは現代的な「純粋小説」である、という渡部が念頭に置いているのは、もちろん横光利一「純粋小説論」である。「通俗小説にして純文学」「偶然性」「感傷性」など、未だに議論を呼ぶ、ある意味では悪名高い文章であるが、それを一番複雑にしているのは、そのために必要な「四人称」という、謎の定義である。一般的には、序数としての四、つまり、一でも二でも三でもない人称、と取ることが多いのかもしれないが、渡部は、これを「一+三」の四、と考えられないか、と主張する。それが、一人称と三人称が混在する「移人称小説」ということになり、これが現代の「純粋小説」の形だ、と。(もっとも、ここには横光の語る純粋小説とは大きな差異もある。つまり、横光は、純粋小説は長編小説でなければならない、と主張しているのに対し、現代の「移人称小説」には短編小説が少なくない、ということだ。この長さの問題については、のちに触れたい。)

 

 これより後の部分は、文フリ当日に御覧ください。

 

底本
磯﨑憲一郎『赤の他人の瓜二つ』講談社 二〇一四年一一月

参考文献(試し読み以外の部分も含む、以下他の文章も同様)

安藤宏『「私」をつくる 近代小説の試み』岩波書店 二〇一五年一一月
石原千秋『読者はどこにいるのか――書物の中の私たち』河出ブックス 二〇〇九年一〇月
磯﨑憲一郎『肝心の子供/眼と太陽』河出書房新社 二〇一一年二月
     『世紀の発見』河出書房新社 二〇一二年五月
     『終の住処』新潮社 二〇一二年九月
     『往古来今』文藝春秋 二〇一五年一〇月
     『電車道』新潮社 二〇一七年一一月
     『鳥獣戯画講談社 二〇一七年一〇月
大岡昇平『現代小説作法』筑摩書房 二〇一四年八月
佐々木敦『小説家の饒舌 12のトーク・セッション』メディア総合研究所 二〇一一年七月
『新しい小説のために』講談社 二〇一七年一〇月
真銅正宏『偶然の日本文学 小説の面白さの復権勉誠出版 二〇一四年九月
横光利一『愛の挨拶・馬車・純粋文学論』講談社 一九九三年九月
渡部直己『小説技術論』河出書房新社 二〇一五年六月
フォースター『小説とは何か』米田一彦訳 ダヴィッド社 一九六九年一月
http://www.getrobo.com/(閲覧日2018/3/1)

 

                                 『勝手に生きろ』書評 ブコウスキーは正論に対して虚構で対抗する 雲葉 零

ブコウスキーと労働の奇妙なつながり

 チャールズ・ブコウスキーと言われて、思いつくものはなんだろうか。作品名を別にすれば、酒や詩あたりではないだろうか*1時に酔いどれ詩人と称されるようにこのイメージは間違ったものではない。しかし、そんな破天荒なイメージがある彼の作品を労働という観点から見ても面白いのではないか。この書評はそんな一種の変化球である。
 ブコウスキーの他の長編小説と同じように、この小説『勝手に生きろ』も自伝のような作品だ。語り手であり、主人公でもあるヘンリー・チナスキーの言動や体験は、作者ブコウスキーを思い出させる。チナスキーはこの小説だけでなく、『くそったれ少年時代』、『パンク、ハリウッドを行く』、『ポストオフィス』、『詩人と女たち』の主人公でもある。そんなこともあり、時にチナスキーはブコウスキーの分身とも言われる*2
 この小説の中で、チナスキーは勝手に生きている。まさしく邦題どおりに*3。彼は職を変えながら、全米を放浪する。酒を飲み、セックスをし、投稿用の原稿を書きながら。そんなチナスキーにとっては第二次大戦ですらたいしたものではなかった。それは彼が大戦をこう語っていることからも分かる。

(前略)戦争はおれにとって、せいぜいぼんやりとした現実くらいの感じでしかなかった(後略)*4

 ちなみに原因は分からないが、彼は兵役不適合とされている。そんな彼に労働意欲があるはずもない。チナスキーの労働は至って不真面目であり、かつ彼は短期間で仕事をやめてしまう。上司からすれば問題社員、いや問題外の社員とさえ言える。
 この書評の最後にチナスキーの仕事と就業期間の一覧を整理しておいた。期間がはっきりと分かるものの中で、一番長いものでも数カ月にすぎない。思わず、私は彼に賛辞を送りたくなる。すごいぞ、チナスキー。どうやったらこんなに会社を辞められるんだ。こんなチナスキーには働かない労働者という矛盾した形容がふさわしいように思える。
 ここで見落としてはならないことがある。そんな不真面目な労働が、この小説では多く描写されていることである。ブコウスキー、あるいはチナスキーにとって労働は生きがいとは正反対のものだ。しかし、それでも、あるいはそれだからこそ労働が彼らの人生にとって大きな意味を持っているのだ。いわば否定的で重大な意味を持っているということだ。彼らにとって労働は数え切れない死者を出し、大きな歴史的影響を持つ第二次世界大戦よりもずっと重大だったのだ。

 

これ以後は、文フリ当日にご覧ください。

参考文献一覧表

チャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ』(2007)    河出書房新社 都甲幸治 訳 
『死をポケットに入れて』(2002)河出書房新社 中川五郎 訳
『パルプ』(2016)       筑摩書房   柴田元幸 訳
桜庭一樹        『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(2009) KADOKAWA

                                 『富が無限に湧き出る泉』 雲葉 零


 ある日、大都市郊外に忽然と現れた泉は様々な情報媒体の関心を引き起こした。平凡な更地に現れたそれの半径は人の背丈の数倍ほどもあった。僅かに緑色に濁った液体が泉の一面を覆っている。その液体に有害性がなかったことは不幸中の幸いとして捉えられた。それにしても、一体これはどういう現象なのか? 説明を求められた地質学者や役人たちは回答に窮した。というのも、これまでの観測記録に存在しない現象であったからだ。
 とはいえ、多くの人々にとって、これは単なる意外な話題に過ぎなかった。数日が経つと、世間はあっという間にこのことを忘れ去った。
 対照的に困っていたのはその土地の地主であった。この一件により、土地にとんでもないけちが付いてしまったからだ。また現状回復にかかる費用も馬鹿にならない。最も彼の富裕な財産からすれば、この損害はごく一部に過ぎなかったのであるが。
 地主は泉の側にじっと座り込み、考えをめぐらした。忌々しい泉だ。温泉でも湧けば儲けになったのかもしれないが。あるいは油田でも湧けば。そんな馬鹿げた妄想をしながら、彼は泉の中を見つめていた。それにしても、一体この緑色の液体はなんなんだろうか?
 そう思って彼は手を入れる。その瞬間である。突如として、黒い液体が湧き出てきたのだ。調査の結果、それは正真正銘原油であるということが明らかになった。これこそ大騒動の始まりであった。

 

                                 ロボットからのギフトの可能性について~『プラスティック・メモリーズ』所感~
宵野雪夏

 MAGES.所属のシナリオライター林直孝によるオリジナルアニメ作品『プラスティック・メモリーズ』(以下『プラメモ』)は、「ギフティア」と呼ばれるアンドロイドが実用化した社会を舞台とした、近未来SF作品である。主人公、水柿ツカサは、親のコネで、ギフティアを製造、管理している大企業「SAI社」に入社させてもらう。しかし、彼が配属されたのは窓際部署である「第一ターミナルサービス課」だった。ここでの仕事は、定められた寿命である八万一九二〇時間(九年強)を迎える寸前のギフティアを所有者から回収すること。それは思い出を引き裂く、報われない仕事。
 ここでの仕事は、人間とギフティアがコンビを組んでおこなうことになっている。ツカサがコンビを組むことになったのは、少女型のギフティアであるアイラ。三年間、現場からは離れてお茶くみ係のような役割を担っていたアイラに、ツカサはかつて出会っていた。エレベーターのなかで涙を流す彼女に、ツカサは一目惚れに近いような魅力を感じていた。さまざまな事件や出来事を通じ、距離を縮めていくふたり。しかし、このときアイラの寿命はもう幾何もなかった――。

 この作品は、既存のジャンルに当てはめれば近未来SF作品であろう。科学技術が高度に発展し、ほとんど人間と区別のつかないアンドロイドが生活に浸透している世界、という設定は、これまでもよく描かれてきた世界観である。アンドロイドは、ロボットのひとつの形態、ということができるだろう。本論では、そして、人間とロボットの友情や恋愛、というテーマも、もはや現代の創作作品において普遍のテーマのひとつとなっている。事実、高度に発達したロボットのなかに、知性や感情らしきものを見いだすことは難しくない。極端な話ではあるが、Pepper(ペッパーくん)と「同棲」する女性もいるらしい。このテーマは、もはや空想のものではなくなっている。まさに「近未来」の世界のことであるのだ。
 ロボットの共生は、なかなかの機械音痴である私にとっても、どこか胸躍る未来の可能性である。そして、この『プラメモ』は、人間とロボットの恋愛をストレートに描いている。それも、あまりの優しさで。
 たとえば、『イヴの世界』というアニメーション作品がある。こちらもアンドロイドが一般に普及している世界を舞台にした近未来SFである。しかし、その世界の描かれ方が、『プラメモ』とは対照的だ。ここでは詳しく触れないが、人間とロボット、という問題をより切実なものとして描いているのは、明らかに『イヴの時間』であろう。
イヴの時間』ではアンドロイド反対団体が存在し、そして人間とアンドロイドが明確に峻別されていること。「ロボットの作る農作物なんて食べられない」などと訴える団体は大きな影響力を持っている。アンドロイドには、一見してすぐわかるように頭に徴が置かれる。また、人間のアンドロイドに対する態度は、まさに人間のために働く機械、語弊を怖れずに言えば奴隷か召使のようなものが大勢で、アンドロイドと恋をしようものなら変質者として社会から弾かれる。
 『プラメモ』は、見た目からだけでは人間とロボットの見分けがつかない。もっとも、ギフティアだって所詮はロボットだろ、と考える民間警備会社アール・セキュリティ社の人間もいれば、SAI社の名前を騙って回収前のギフティアを奪って闇ルートで売り捌く悪人はたしかに存在する。それでも、人間とロボットの関係は、兄弟、親子、孫、恋人、ボディガード、など多種多様で、それが受け入れられている。アイラとツカサの関係についても、それは種族を越えた恋愛が社会的にどうか、というのではなく、絶対の別れのなかで本人たちがこの恋愛をどう生きるのか、ということが問題になっている。人間とロボットの寿命の違い、定められた命とどう向き合うか、心(OS)だけが入れ替わったボディは、同じギフティアといえるのか。そういった問題のほうが話の中心で、実のところ、人間とロボット、という根源的な問題には関心が薄いように思えるし、実際そうなのかもしれない。
 これらの違いは、話の特性の違いにすぎない、と言われてしまえばそれまでである。しかし、根っこは同じところにあるのではないか。つまり、どちらもロボットが進化して、家庭に入り込んでくるようになった世界である。そのなかで、人間とロボットの共生がそれなりに進んだのが『プラメモ』、人間に近いロボットが身近に存在することで、かえって「人間らしさ」にこだわり、住み分けを徹底し、お互いの領分を守らせよう、としているのが『イヴの世界』、といったように。だから、これは究極的には、ふたつの未来の可能性である。そういった意味で、いっけん切実な問題とは無縁に思える『プラメモ』の世界にも、その背後にはやはり、人間とロボット、という重い問題があるのだ。
 その点を考えるうえで、切っても切り離せないものこそが、「労働」である。そもそもの「ロボット」という単語の由来が、チェコ語で「強制労働者」や「強制労働」を意味する単語の語幹をとったところからきている。さらに、そのチェコ語は、ドイツ語で「仕事」を意味する単語と語源を共有している。

 

これ以後は、文フリ当日にご覧ください。

                                 働かないことを夢見た人間たち 雲葉零


 働きたくない。あるいは労働時間が長すぎる。こんな言葉を日常生活で聞いたことは、誰しも一度や、二度ではないだろう。本論考を読んでいるあなた自身、そう考えているかもしれない。しかし、この主張というか愚癡は具体性を持った思想、理論に昇華されていないように思える。
 さらには、思想、理論の名前すら共有されていない。これが他の思想だったらどうだろうか。例えば、生産手段を始めとする私有財産の共有化を謳う者たちには共産主義がある。政府の廃止を謳うものたちには、無政府主義がある。
 何故、働かないことを謳う思想には名前がないのか。ひょっとしたら、働きたくないと考える者達は怠け者だから、理論を考えたり、運動を形成したりすることすら面倒だったのかもしれない。とはいえ、名前がない思想を語ることは困難である。そこで、本論考では便宜的に不労主義*5という名称を導入する。不労主義の中核的な主張は以下のようなものになる。
 人間は働かないほうがいい。もし、働くにしても労働時間は必要最低限度に抑えられるべきである。より具体的には、現実の労働者たちの労働時間よりも格段に少ないべきである。と言ったところだろう。ボブ・ブラック『労働廃絶論』の冒頭文は、不労主義の核心を見事に表している。

 人は皆、労働をやめるべきである。
 労働こそが、この世のほとんどすべての不幸の源泉なのである。
 この世の悪と呼べるものはほとんど全てが、労働、あるいは労働を前提として作られた世界に住むことから発生するのだ。
 苦しみを終わらせたければ、我々は労働をやめなければならない 。*6

 このような不労主義を主張している、まとまった量の論考は少ない。おそらく、本論考で紹介するものだけで、日本語で読める文献のかなりの部分を占めているだろう。もちろん、私の調査が足りなかったという可能性はある。また、和訳されていない文献が多いという問題はある。しかし、それらを差し引いても少なすぎるのだ。これはどういうことだろうか? 
 このことは不労主義にこれまで名前がなかったという問題とも関連していると考えられる。不労主義は、共産主義はもちろん、無政府主義よりも思想的には少数派であるということだ。ろくに文献がなく、決まった名称がないほどに。その意味において、不労主義は先鋭で過激で夢想的な思想と言って良い。
 別の言い方をすれば、不労主義は根源的に馬鹿*7の思想である。例えば、ボブ・ブラックは『労働廃絶論』の中でludic革命を唱えている。ludicとはふざけた、遊びの、という意味がある英語の形容詞である。同じ語源を持つ言葉にはludicrousがある。こちらも馬鹿げた、不条理なといった意味がある。大多数の人間にとって、不労主義は馬鹿げた、不条理な思想であることに違いない。

 本論考ではまず、不労主義の論考を一つ一つ、大まかに紹介していく。そして彼らの主張に共通する部分はなにか、どのように論理展開がなされていくのかを比較検討する。
 最後に、不労主義と空想の関係について考えていきたい。この二つは密接な関係を持っている。その理由の一つはユートピア文学の中に不労主義の主張が見られるからである。しかしもっと根本的には、馬鹿げた、不条理な思想である不労主義は空想的な色を帯びざるを得ないからだろう。

 

これ以後は文フリ当日にご覧ください。

参考文献一覧
オルダス・ハクスリーすばらしい新世界』(1974)講談社 村松達雄 訳
カール・R・ポパー『歴史主義の貧困』(1961)中央公論社 久野収・市井三郎 訳
トマス・モア『ユートピア』(2011) 岩波書店 平井正穂 訳
バートランド・ラッセル『怠惰への賛歌』(2009)平凡社 堀秀彦・柿村峻 訳
ボブ・ブラック『労働廃絶論』(2014) 『アナキズム叢書』刊行会 高橋 幸彦 訳

  細部が異なるが、おそらく同じ訳者による訳文及び、原文が以下のページで読める。なお、本論考は書籍から引用している。
「労働廃絶論        (1985年)」 アナーキー・イン・ニッポン

http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/black1.html

「THE ABOLITION OF WORK」

http://www.zpub.com/notes/black-work.html

 ポール・ラファルグ『怠ける権利』(2008)平凡社 田淵晉也 訳
原文は以下のページで読める。
「Le droit à la paresse」

https://www.marxists.org/francais/lafargue/works/1880/00/lafargue_18800000.htm

(WEBサイトの最終閲覧は全て二〇一八三月二二日である)

マルクス『ゴータ綱領批判』(1975)岩波書店 望月清司 訳

 

 第26回文学フリマ東京

 第26回文学フリマ東京で批評・創作雑誌『ソガイvol.2 物語と労働』を発売しました。

 以下、文フリの開催日等の情報です。

開催日 2018年5月6日(日)
開催時間 11:00~17:00
会場 東京流通センター 第二展示場

その他の文フリの詳しい情報につきましては、以下の文フリ公式サイトで確認してください。

文学フリマ - 第二十六回文学フリマ東京 開催情報

 またソガイのブースはカ-41、カテゴリは評論|文芸批評でした。

ソガイ@第二十六回文学フリマ東京カ-41 - 文学フリマWebカタログ+エントリー

 

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 隣のブースはカ-40「クライテリア」さんとカ-42「抒情歌」さんでした。

*1:もっとも現代日本では、名前すら知らないという人が大半だろう。だが、そんな事実はくそったれだ。ちなみに彼に敬意を表して、私は日本酒を飲みながらこの文章を書いている 。

*2:

例えば『パルプ』三二〇ページ。自伝に近い小説を書く作家の作品を読む時には、その作家と語り手の関係をどう捉えるかという難しい問題がある。この書評ではかなり、チナスキーをブコウスキーの分身、あるいはブコウスキーをチナスキーの分身として捉えている。もっとも、この作品に創作部分がないというわけではない。

*3:ちなみに原題のFACTUMは雑役係という意味である。次々と仕事を渡り歩く、チナスキーが就ける仕事は限られている。その内容は主に雑用である。例えば、『勝手に生きろ』一七ページでは、上司がブコウスキーに割り当てられた仕事を「普通、この仕事は大学生にやらせる」と言う。学生がやるような雑用というわけだ。そんなことから、この題名は由来しているのだろう。

*4:『勝手に生きろ』一二四ページ。

*5:あるいは反労働主義、労働廃絶主義とでも言えよう。しかし、私は不労主義という言葉を気に入っている。それは不労、働かないという言葉の主体性の無さにある。

*6:『労働廃絶論』 九ページ。

*7:一応断っておくと、ここでいう馬鹿とは知識量が少ないとか、計算ができないという意味ではない。

文学を歩む~明治五年「かたわ娘」福沢諭吉

  福沢諭吉、と言えば、「学問のすゝめ」などの啓蒙書の方で有名だろう。そんな福沢の、これは小説といっていいのか分からない、おそらく寓話とでも言うべき掌編、「かたわ娘」を読んでみよう。

 題名が題名なだけに、初回で取り上げるのに多少悩まされた。念のため説明すると、「かたわ」とは、身体の一部に欠損があるひと、いまでいえば身体障害者を示す言葉だ。現在は「差別語」とされているものであり、それに「身体障害者」という言葉もあるのだから、差し迫った必要がなければ(そのような必要がいつ現れるのかは大いに疑問であるが)わざわざ使わない方が無難だろう。

 タイトルから、この作品で、福沢諭吉は障害者をバカにしている、と考えるのは早合点もいいところだ。だったら安心か、といえばそれも早とちりで、ある意味では、もっと過激だ。なにせ、日本人の女性の風習を「かたわ」と揶揄しているのだから。

 

 これは本当に短い作品なので、あらすじを一気に説明してしまおう。

 

 ある裕福な家に、容姿のすばらしい女の子が生まれた。ただ一点、眉毛がないことを除けば。いや、それだけではなかった。生えてくる歯が、墨で塗ったように真っ黒だったのだ。小さい頃は、それでもそこまで大きな話題になることはなかったのだが、十四歳にもなると、近所でうわさになるようになる。眉毛がないのは「癩病」の血筋だからだ、とか、黒い歯の娘が生まれたのは、近所のひとが借金を申し込みにいったとき、白い歯を見せていた、その因果のせいだ、とか、眉毛は天から与えられたもので、それがないということは、天から見放された罪人なんだ、とか、とにかく後ろ指を指されながら、娘は生きていた。ところが、二十歳になると、もう娘のことは話題にならなくなっていた。行く末を心配していた両親も、安心して隠居し、娘も、良家に嫁いでいた。なぜか。それは、大人になると、女性はみな、眉を剃り、お歯黒をつけるからだ。当然、娘の眉と歯も、目立たなくなる。むしろ、みなは時間とお金をかけてしなければならぬそれを、しなくてもいい。かえって楽だ、と喜ぶくらいだった。

 日本の女は、わざわざ「かたわ」になろうとするのだから、愚かなものだ。こう言って締める。

 その最後の部分だけ、引用しておこう。(適宜、旧字を新字に改め、現代仮名遣いを用いる。)

 

実に不思議なるは世間の婦人なり。髪を飾り衣装を装い、甚だしきは借着までしてみえを作りながら天然に具りたる飾をばおしげもなく打捨て、かたわ者の真似をするとはあまり勘弁なことならずや。まして身体髪膚は天に受けたるものなり。漫りにこれに疵付るは天の罪人ともいうべきなり。(「かたわ娘」)

 

 「天の罪人」はちょっと言い過ぎではないか、と思わないでもないが、ともかく、寓話として、素直におもしろい、と思った。なにより、わかりやすい。啓蒙、という意味においては、それも重要な要素だろう。

 同時に、「女性が化粧をするのは、そうしなければならない社会があって、それを求める男の視線が内面化されているからだ。女性が能動的におこなっているわけではない。こんなもの、男の身勝手な言い分だ」という声が、どこからか聞えてきそうだ。まあ実際、そうなのかもしれないけれども。

 しかし、所詮は明治五年のものだから、と簡単には片づけることができないのも、また事実かもしれない。眉を剃る、という行為はいまでもあるし、お歯黒はなくなったが、それもべつの形の化粧として残っているに過ぎないだろう。衣装についても、たとえば、歩くのにも不便しそうなハイヒールや、時宜にはおよそ合わないであろうミニスカートやホットパンツ(つい最近まで、あれを「短パン」と呼んでいたら怒られた。もっとも、あれのどこが「ホット」なのか、いまだ私には分からない。まあたしかに、下着のパンツと考えれば、それは「ホット」なのかもしれないけれども)*1などが当てはまるかもしれない。ある種、普遍的なテーマになっているのだ。

 しかし、髪形や服を気にしてお金をかけるのは、なにも女性に限らない話であるし、逆に言えば、女性だからといって、みながそうという訳でもあるまい。

 まあ、とはいえ、そんなことまで考えていては寓話はなかなか成り立たないのだから、そこはよしとしておこう。

 ただ一点、気になるところがある。福沢は、有り体に言ってしまえば、これを文明が発展している西洋と、遅れている日本、という対比のひとつとして描いている。外国だったら、この娘は一生苦労したろうに、日本だからよかった、と皮肉で言っているのがその証拠だ。しかし、そんな単純な問題だろうか。

 たしかにお歯黒をしている西洋人はいなかったかもしれない。歯が真っ黒の日本人をみて、当時の西洋人は驚いたことだろう。だったら西洋の女性は、日本人がするお歯黒に代わるものを一切持たなかった、と言い切れるのだろうか。そこは大いに疑問である。単なる文化の違いにしか過ぎない事象、しかも同じ根源から発生しているかもしれない事象について、優劣をつけること。これは、さまざまな水準で、いまだによく見られることである。*2

 過剰な西洋賛美の感も見られるが、風刺としては、わかりやすくてなかなかの完成度かもしれない。それが、現在の社会においても通じるところがあるのもいい。寓話とは、こういった普遍性があるべきだろうから。また、このような寓話が現れるようになったことにも、日本に西洋文明が入り込んできたこと、そして文明開化のうねりが表れているのかもしれず、ただの皮肉話で終わらせてはもったいない作品である。

 

 余談であるが、日本人女性の風習を「かたわ」と表したこの作品を読んで、私が個人的に思い出したのが、岸田国士の『日本人畸形説』(1947年)である。これもまた衝撃的な題名であるが、なかなかおもしろい。恋愛についての件など、自分は特に好きだ。そのなかでもひとつ、「日本に生れた以上は」という文章のなかから、今回のテーマにも関わってきそうな彼の言葉をひとつ、引用したい。

 

 日本は世界の他の国に比べて、善いところもあり、悪いところもある。(中略)なんでもないことを、優れているように思い込み、または思い込ませ、それによって自尊心を撫でまわしているやり方は、笑止千万であり、愚劣の骨頂である。

 それと同時に、日本の悪いところを、さも手柄顔に取りたてて、これだから日本は嫌いだというのも少し早すぎる。そういう自分にも、その悪いところがあるのを忘れていそうだからである。それから、人間ならどこの国の人間でももっている弱点のようなものと、日本人のみが特に、その長所と共にもっている弱点とを区別して、その各々に対する批判と対策を誤らぬようにせねばならぬと思う。(「日本に生れた以上は」)

 

 とりあえずのところ、この言葉を福沢諭吉に送っておくことにしよう。しかし、福沢諭吉は明治初期にこれを書いている。それを忘れてはいけない。福沢諭吉ほどの人物がいまの世に生まれていれば、この程度のことには自力で気付いたと思う。

 後の世に生まれた、ということは、もうそれだけで立派なアドバンテージである、ということもできる。勉強をすること、歴史を学ぶこと、そして本を読むこと。これは、そのアドバンテージをできるだけ活かすためにも大切なことなのだ、と私は信じている。当然のことながら、いつもそんなことを考えながら本を読んでいるわけではないけれども。

 

 おそらく、「かたわ娘」はこの時代にしては相当読みやすかった方だと思われる。次はどうしたものか、と頭を悩ませている。あるいは、いきなり坪内逍遥に飛んでいる可能性もあるが、その点はご容赦願いたい。

 

底本  『現代日本文学全集 第一篇』改造社 山本三生編 昭和6年

 

参考文献『日本文学大年表 増補版』おうふう 市古貞次編 平成7年

    『日本教養全集 17巻』角川書店 昭和50年

 

(文責 宵野)

*1:余談も良いところだが、あらためて「ホットパンツ」について、英訳なども調べよう、と思い、検索エンジンに「ホットパンツ」と打ち込んでみたところ、サジェストの上のほうに「ホットパンツ 小学生」とでてきた。いつもはあまり言わないようにしているのだが、この国もおしまいかな、と思った次第である。

*2:ひとつ例を挙げると、私は「日本すごい!」系の番組や書物があまり好きではない。根底に、その種の優劣関係の意識(あるいは無意識)が見えてくるのだ。同時に、「日本のここが悪い。欧米はもっと進んでいる。」的な言説にも、首を傾げる。欧米は先進的で正しい、という先入観というか、公理のような意識が透けて見える。

「外国(この言葉はその実、アメリカと西欧くらいしか示していない)は、発達障害に理解がある。日本のような差別や偏見はない。日本はいまだムラ社会だ」といったようなことは、たぶんTwitterなどであふれていると思う。いくつもつっこみポイントはあるが、百歩譲って、それが正しいとする。しかし、おそらくはその権化として想定されているアメリカ、その現状はどうだろう。この時代になっても、肌が黒い、という理由で白人警官に殺される、などという事件が起っているではないか。これが差別でなければ、いったいなんなのか。発達障害も肌の色も、生まれつきのもの、つまり、自分の力では変えられないもの、という点では変わりがない。

全体、とまでは言わないが、その周辺事情さえも見ずにしてアメリカと日本の差別と偏見について語ることは、姑息なレトリックである。姑息、つまり一時しのぎに過ぎないのだが、しかし、そこで思考停止するひとは、その一時しのぎの罠に気付くまでもなく、乗せられる。そしてこの種の言説は、分かりやすく、そして魅力的なものに思えてくるのかもしれない。

聞く者、見る者に深く考えさせる必要などない。「日本死ね」と言っておけば、まあ手っ取り早く怒りを煽ることができるのだろう。

世界を旅する文学 第一回 大韓民国 姜 英淑 『ライティングクラブ』

連載 世界を旅する文学とは

 この連載では旅をするように世界各国の文学作品を読んでいく。世界中の小説を読んでみたい。英、米、独、仏、露文学などの比較的日本でも読みやすい文学だけでなく。漠然と以前からこんな感情を抱いていたのが今回の企画のきっかけである。

 とりあえず以下のような方針を立てた。 

 

 あたかも旅をするように、例えば、韓国→北朝鮮→中国のように各国の文学作品を紹介していく。最終的には世界一周をする。

 一国につき一作品を取り上げる。(ただし、中国、ロシア、アメリカなど面積が大きい国は複数取り上げる)

 その国の風土がほとんど反映されていないような作品は選ばない。(例えば、寓話や宇宙が舞台のSFなど)

 これまでにブログで単独の書評を書いた作品は取り上げない。

 

 ちなみに世界の国の数は190前後ぐらいあるらしい*1。さすがにその全てに触れるのは無理だろうが、世界と銘打った以上は50ヶ国ぐらいは紹介したい。

第一回 韓国

 旅の始まりは日本の隣国の韓国から始めることにした。私はこれまでに韓国文学の作品を読んだことはほとんどない。せいぜい、李光洙(1892-1950)を読んだことがあるぐらいだ。しかも1950年に死没していることからも分かるように、彼の活動期間の殆どは日本統治時代と重なっている。私が読んだ作品もその時代のものだったと思う。実質、この作品がはじめての韓国文学と言っていい。

 そういうわけで、韓国文学の潮流なども少しも分からない。今回は愚直に作品を紹介し、感想を述べることに専念しよう。

 選んだ作品は姜英淑『ライティング・クラブ』である。とりあえず著者紹介を一部引用しよう。

1967年、韓国江原道春川に生まれる。ソウル芸術大学文芸創作科卒。1998年『八月の食堂』がソウル新聞新春文芸に当選して文壇デビュー。2006年、初の長編小説『リナ』で韓国日報文学賞を受賞(日本語訳は2011年に現代企画室より刊行)。2作目の長編小説となる『ライティングクラブ』は2011年に白信愛文学賞を受賞した。(後略)*2

  正直言って、聞いたことがないような固有名詞が並んでいる。特に賞は一つも分からない。当然、賞の性質や歴史もわからないので、こうなると賞歴もほとんど意味がないというものだ。日本文学に詳しくない外国人が芥川賞太宰治賞などを見た時にこんな印象を受けるのかもしれない。

 もっと言えば、現代企画室という出版社名すら今回で初めて聞いた。同社のサイトを見てみると、多くの海外文学を出版しているようだ。今後、この連載でお世話になるかもしれない。

ライティングクラブのあらすじ

 この小説はあらすじを説明するのが難しい小説である。といっても、描写される出来事が不条理であったり、物語の展開が複雑で登場人物が多かったりするわけではない。

 その難しさは、この小説の筋の弱さに起因している。このように書くとなにやら否定的な印象が漂ってくるが、私にその意図はない。そのような構成にしなければ表現できないこともあるのだ。

 この小説は筋の面白さや巧みさで読者を引き付けはしない。逆に、具体的な描写こそこの小説の見どころである。作品の中でJ作家が語り手に教え込むように。

「説明しようとしないで描写すること」J作家が私にしてくれた文学の第一講義がこれだった*3

 それでも一応あらすじを紹介する。かなり淡白にまとめてしまうと、この物語はソウルに住む*4語り手の一六歳から三〇代半ば過ぎまでの人生を描いたものである。そしてその人生には語り手の母親であるキム作家と文章を書くこと、読むことが深く関わっている。

 題名にもなっている、ライティングクラブとは直接的にはアメリカに移住した語り手が主催したライティングクラブのことを指している。しかし、もう少し広い意味を含んでいるかもしれない。何故ならば、キム作家は綴り方教室を開いていたし、語り手はプロのJ作家から文章について教わるからだ。

 もっとも、綴り方教室とライティングクラブが原語でどう違うのかは、朝鮮語が少しもできない私には全く分からない。

ありふれた日常

 この小説ではほとんど派手な出来事は起きない。せいぜい、後半でキム作家が病に倒れることぐらいだろうか。代わりに描かれるのはありふれた、他愛のない日常である。それらは緩やかな繋がりを持っているが、なにか一つの目的に沿って整然と描かれているわけではない。これもあらすじを語ることが難しい理由の一つだろう。

 語り手の日常はどちらかというと、冴えないものである。キム作家は、作家と仲間内では呼ばれるものの商業作家ではない*5そのため、語り手の生活は貧しい。また同棲を始めた社会主義者の男は働かず、語り手のヒモと化す。別の男とアメリカで始めた、結婚生活もすぐに破綻する。

 それでも本書には強い悲惨感は漂っていない。それは、語り手による回想形式を採用していることが大きいのかもしれない。時間を経ることにって当事者性が減少し、少し客観的な冷めた目線で語られているということだ。

 こんな本書の中から、私が印象に残った場面をいくつか紹介しよう。大学受験に失敗し、語り手が就職活動をする場面がある。仕事内容は英会話の教材のセールスだ。

後ろに座っていた人が質問をした。「私は英語ができないんですけど、どうすればいいんですか」答えは簡単だった。「それは全く関係ありません。顧客は韓国人ですから」*6

 全く馬鹿馬鹿しい限りだ。とはいえ、この馬鹿馬鹿しさは世の中を生きているとよく遭遇する類のものである。お笑い芸人が漫才やコントで作るお笑いとはまた違う。決定的に違うのは、芸人と違ってこの会社の説明役は大真面目だということだろう。

 また語り手が職場の同僚たちに『ドン・キホーテ』を紹介する場面も印象深い。語り手は主人公ドン・キホーテの滑稽さを同僚たちに語るが、全く理解してもらえないのだ。このシーンで語り手はまさしくドン・キホーテのように滑稽である。

時の流れ

 明確な年齢や年月の描写が少なく、いつの間にか、作品内の時間が経過していることに気付かされるのもこの作品の特徴である。物語の終盤には、語り手は30代半ばを過ぎて皺ができる。また、母親のキム作家はすっかり老婆になって病気で死にかける有様だ。

 作品の中ではしばしば語り手とキム作家の親子喧嘩や諍いが起こるが、こうなってはそんなことは遠い過去である。ありふれた日常の裏でも、しっかりと時間は経過しているということだろうか。

 あるいは、人間は時間の経過をそれほど強く認識してはないということかもしれない。例えば、子供ならともかく、大人になると自分の誕生日を祝福されない人も多いのではないだろうか。あるいは新年になった時に、もう一年が終わったのかと呆然とすることがある。時はいつの間にか過ぎていくものである。小説が終盤に差し掛かった時に、それを感じた。

どこかで見た世界

 私は韓国の文化にはさして詳しくはない。しかし、そのことはこの小説を読む上でさして障害とはならなかった。せいぜい、漢字の韓国語読みに苦戦したぐらいだろうか。どうにも日本語で読んでしまうので、いっそカタカナのほうがまだ頭に入るのだ。とはいえ、韓国の地名や食品、人名などの固有名詞はふんだんに出てくるがそうでない物も多い。

 例えば、語り手は頻繁に文学作品に言及するのだが、これは欧米のものが圧倒的に多い。例えば、ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』、セルバンテスドン・キホーテ』、シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』、シモーヌ・ド・ボーヴォワール
『人はすべて死す』などだ。

 また、韓国特有の固有名詞を日本やアメリカ特有の固有名詞と置き換えても、それほど違和感を感じないのではないか。というのも、小説で描写される日常の多くが日本やその他の欧米文化が浸透した国と大差なく思えるからである。登場人部たちの行動や思考も韓国人特有のというより、日本人でもあまり違和感のないものである。あるいはドイツ人やアメリカ人と比べてもそうかもしれない。

 考えてみれば、日本人も別に和食だけを食べるわけではない。日本文学だけを読むわけでもない。洋食*7を食べたり、海外文学を読んだりもするわけだ。

 グローバリゼーションが進む世界では、良く言えば普遍的な、悪く言えばどこかで見たような生活が世界のあちこちで過ごされているのだろう。そして、その生活は外国かぶれというよりもはや日常のありふれたものである。朝ごはんのトーストを食べる時に、外国料理を食べていると、いちいち認識する日本人がいないように。

 『』

 次回は38度線を超えて北朝鮮に渡る。

参考文献

姜英淑『ライティング・クラブ』(2017)文茶影 訳 現代企画室

全てここからの引用なので書名は省略した。

*1:分裂国家の承認など政治問題が絡むので数え方によって、微妙に異なる。例えば、日本が承認している国の数は195。日本を加えると、196ヶ国である。一方、国連加盟国は193ヶ国である。

世界と日本のデータを見る(世界の国の数,国連加盟国数,日本の大使館数など) | 外務省

(二〇一八年三月三十日最終閲覧)が出典である。

*2:『ライティングクラブ』著者紹介より。

*3:78ページ。

*4:小説の後半で結婚のためアメリカに移住する。

*5:一応、終盤に文学賞を受賞する。

*6:98,99ページ。

*7:往々にして日本人の口にあうように味付けは変わっているが。

文学を歩む~明治四年『安愚楽鍋』仮名垣魯文~

 仮名垣魯文。名前を聞いたことがあるひとは、それなりにいるだろう。日本史を習っていれば、いちおう出てくる人物ではある。『安愚楽鍋』は、そんな彼の代表作、と言ってもいいだろう。ちなみに「安愚楽鍋」とは、気軽に食べられる牛鍋のことを言うらしい。文明開化のシンボルともなっている牛鍋。牛肉を食べさせる店が、至るところにできた。当時の人間にとって、牛の肉を食べることは、先進的な西洋文化に簡単に触れられる、ひとつの手段だったようだ。

 仮名垣魯文は、明治に入ってもまだ残っていた戯作文学、その最高峰の人物と言ってしまってもいいだろう。文明開化の東京、その風俗を描いた『安愚楽鍋』にも、その趣はしっかり残っている。たとえばその冒頭近く、前書きのような箇所から。

 

昔々の里諺に。文盲爺のたぬき汁。因果応報穢を浄むる。かちかち山の切火打。あら玉うさぎも吸物で。

(むかしむかしのことわざに。ももんじじいのたぬきじる。いんがおうほうけがれをきよむる。かちかちやまのきりびうち。あらたまうさぎのすいもので。)

 

 読めば分かるが、明らかに五七調だ。非常にリズムが良い。その方面には明るくないのだが、これは落語というか、講談の調子が残っている、といえるのではないだろうか。これは、言文一致小説のはしり、とも言われる、二葉亭四迷浮雲』の冒頭などにさえも、色を残している。(「千早振る神無月ももはや跡二日の余波(なごり)となッた」(新潮文庫))

 さて、肝心の内容についてだが、非常に乱暴に、そしてざっくりまとめてしまえば、文明開化の時代のなか、市井のひとびとが新しい文化にどっぷりつかっている様子が、牛鍋を食べているところを中心に記録されている、といったようなものだ。

 いやあ、この牛ってやつの肉はうまいねえ。西洋では前から食べられていたみたいだけど、なんでいままでこんなうまいもの、おれらは食べてこなかったんだろう。文明開化ってやつのおかげだ。昔は、肉を食うなんて野蛮だ、とか野暮なことを言っていたもんよ。蒸気車ってもんも、ロシアにはあるらしいが、あれは感心だね。なか暖かいから、寒くても移動できる。すごいよなあ。あ、お姉さん、もう一杯。葱も頼むよ。

 これが、最初に収められている「西洋好の聴取」を、ざっくりとまとめた内容である。しかも驚いたことに、この話で語られている男、なんと「ヲーデコロリ」、つまりオーデコロンをつけている。まあ、なんとも新しいもの好きというのか。

 明治も4年の段階で、これだけの被れっぷりようは、もはや感心するしかない。しかし、もしかしたらこれは、なぞの西洋信奉者が多く存在する現代でも、変わっていないのかもしれない。たとえば、「○○、日本初上陸!」といったような。

 

 閑話休題。さて、このような調子でだらだら話しているだけの作品であるので、なにをどう紹介すればよいのか困る。ただ、ひとつ不思議な章があったので、それを紹介しよう。題して「当世牛馬問答」。擬人化された牛と馬が、語り合っている小話である。

 これもざっくり紹介することにしよう。

 

 馬「牛さんよう。お前さん、最近出世して調子乗っているみたいじゃねえかよう。ずいぶん西洋風になったものよ」

 牛「お馬さんこそ、最近は立派なお車を引いてらっしゃるではないですか。僕らなんか、生まれてすぐ鼻に綱つけられて、やがて横浜に売られて、しまいには人間の腹のなかよ」

 馬「いやいや、牛さんね、そもそも、あなたに荷車を引かせるなんて、もったいねえ。本当は人間さまに食べられるために生まれてきたのに、きみは大きな角もあって、力があるものだから、人間が、重い荷物でも背負わせよう、といままで使ってきただけのことよ。あなたは、人間に食われて、万物のからだを養うことが、天への奉公よ。そっちのほうがよほど有意義。おれなんか、人間に食われたくっても、食ってくれないものさ」

 牛「そういわれると、そんな気がしてきたよ。『モウモウぐちは云めえアゝ牛のねもでねえ』」

 

 最後の二重かぎ括弧のなかは、原文ママ。「牛のねもでねえ」は「ぎゅうのねもでねえ」と読む。ただの駄洒落である。

 

 『安愚楽鍋』は、文明開化期の風俗を知るための資料として重要視されている作品でもあるらしい。たしかに、そんな一面もある。まあ、そういうところをあえて取ったのだろうから仕方ないが、ずいぶんとみんな浮かれているなあ、という感想を私は抱いた。

 牛鍋とは少し違うが、すき焼きを食べたくなってきた。𠮷野家の牛すき焼き丼あたりでどうだろうか。

 ちょっとした安愚楽鍋気分が、味わえるかもしれない。

 

底本 『現代日本文学全集 第一篇』改造社 山本三生編 昭和6年(適宜、旧字を新字に改めた。)

 

(文責 宵野)

文学を歩む~明治三年『西国立志編』~

 この世には、数え切れないほどの名作がある。小説好きなのに、それも読んでいないのか、と言われることも少なくないが、そんなことは物理的に不可能だ。

 かといって、気になったものだけを読んでいればいいか、となると、それも少し違う気がする。そもそも、それだって難しい。選択肢が、あまりにも多すぎるからだ。

 だから、好きなものを読むのと並行して、ある程度体系のある読書をしていく、というのも、きっと有意義なものなのではないか。

 というわけで、明治元年から一年に一作ずつ、その年に発表された作品を読んでみてみよう、というのがこの企画だ。

 このブログにおいて、私のその姿勢は一貫しているつもりではあるのだが、できるだけ、前知識を持たないフラットな読み方をしてきたいと思っている。

 というのも、これは読書に限らないことではあるのだが、現代人は、当然私自身も含め、情報を持ちすぎていると感じているからだ。頭でっかちになると、かえって身動きが取れなくなることも少なくない。情報が多すぎることで、実は選択の幅は狭まっているのではないか。だって、Amazonでレビューがまったく付いていない作品や、星が低い作品を、そう読む気になるだろうか。知らなければ、手に取っていたかもしれないのに。あるいは読み方だってそう。いわゆるカノン的な読み方は、どうしても力が強くなる。僕は、それを少しずらしたい。ただ、小心者である僕は、正典の強さに知らず知らずのうちに負けている。それゆえに、ある意味では、無知ゆえの力、を借りているところがある。*1

 

 もちろん、最終目標は平成30年の作品までいくことだ。しかし、その前に平成30年が、さらにいえば平成が終わってしまう可能性も、けっして低くない。主に、短・中編くらいの長さの作品を選ぼう、と思っているから、なんとかなるかな、とは思っている。

 なのだが、そう言いながら、早速頓挫しかけている。明治初期の作品は、活字化されているものを入手することがなかなか困難なうえ、なんとか原本の複製を閲覧できたところで、くずし字が読めない。漢文も厳しい。このままでは企画倒れになりかねない、ということで、坪内逍遥が出てくるあたりまでは、つまみ食いのようにやっていくことにする。明治21年に、二葉亭四迷訳の「あひゞき」が出る。日本近代文学の始まりはやはりここにあるようだ。それ以前は、仮名垣魯文に代表される江戸の戯作の雰囲気が、色濃く残っている。

 ところで、年表を見ていて一番おもしろかったのは、明治7年、「開化東京膝栗毛」という作品が万亭応賀により発表、その翌年、「東京開化膝栗毛」という似たり寄ったりの題名で、笑門舎福来が作品を発表している。「膝栗毛」トリビュートと言えるような流れがあったとはいえ、いまの世でやれば、あまりにも堂々としたパクリである。著作権の概念がなかった時代、と端的に言い表すことができよう。

 

 さて、記念すべき第一回は、さっそく明治は3年。スマイルズ著、中村正直訳『西国立志編』を採り上げよう。

 名前だけなら聞いたことはある、というひとも多いだろう。日本史では必須レベルの用語だ。原著では、『自助論(セルフ・ヘルプ)』という題の作品であるこの本の内容は、ざっくり言ってしまえば、欧米の有名な成功談や立志談、なかには失敗談を、300以上集めたものである。

 勘違いしないで欲しいのは、この「自助論」という言葉の意味だ。これは、スマイルズが言っていることでもあるのだが、「セルフ・ヘルプ」は、「セルフィッシュネス」ではない。つまり、自分の都合のいいようなことだけやればいい、と言っているのではないのだ。この「セルフ・ヘルプ」には、自分の職務を果たすなかで他人を助けることも、おのずと含まれる。日本語で少しそのニュアンスも含む言葉があるとすれば、それは「情けは人のためならず」といったところだろうか。

 明治五年、福沢諭吉の『学問のすゝめ』とならぶ、明治の二大啓蒙書のひとつである『西国立志編』であるが、ある意味では、書店でよく見かける自己啓発本の先駆け、といったようなものと言えるかもしれない。

 ここでひとつ断っておきたい。私がこれから扱おうとしているのは、日本で、当時の青少年に広く読まれ、教科書になるまで大ヒットした、『西国立志編』である。

 どうやら、中村正直の訳には、彼の儒学思想に基づく改変や、選択があったらしい。だが、それもそれ。

 中村は、この本を何度も何度も読み、最終的には半分近くを暗記するほどにまでなったという。それは、ある意味では彼は『セルフ・ヘルプ』を自家薬籠中の物にした、ということであり、その、彼の消化、解釈の結果が翻訳作品『西国立志編』に現れている、と考えることもできよう。あるいは、ついさっきも説明したが、著作権の概念が現代とは異なる、ということでもあろう。

 

 さて、私が今回底本として使ったのは、講談社学術文庫の『西国立志編』(1991年)である。その、前書き、とでもいうのだろうか、紹介文のようなものを書いている渡部昇一の言葉が、まずおもしろい。スマイルズが、本国イギリスではほとんど話題にものぼらない、忘れられた人物になっていること、対して日本では、『西国立志編』の紹介もありその名が忘れられたことのない、と述べてからの一文。

 

しかしスマイルズは日本では忘れられたことはない。読む人はさすがに稀であるが、中村敬宇によって、明治四年に『西国立志編』として訳され、明治の日本人に巨大な影響を与えたことは、広く知られていることだからである。(4-5)

 

 敬宇は、中村正直の号であり、明治四年とは、出版が終わった年のことだと思われる。それはともかく、「読む人はさすがに稀であるが」と初っ端で言われている本をいまから読もう、というのだから、なんだかおかしい。しかもこの本、500頁を超えているのだ。

 ただ、この作品は細かく章がわかれていることもあって、カタログのように読むこともできるものになっている。25頁(講談社学術文庫)にもわたる目次を見て、気になったものがあればそれを読む、という使い方もできるだろう。

 

 さて、明治3年、なにより、原著は1859年、日本では安政の大獄が起きた年に出版されたものである。いかんせん古くさいのではないか。そんな不安は、たちどころに消える。

 内容は普遍的なものである。勉学や金銭、仕事に対する態度を、数々の成功例をひきながら紹介しているのだが、それが、成功者の自慢話に陥ってはいない。もちろん、そのように努力したからといって、そういった成功者たちが成しえたような大きな成果をあげることはできないかもしれない。しかし、心構えとしては、けっこう単純なことを説いているものが多い。ざっくり言えば、「約束は守りなさい」「借金をしてはいけない」「けちはいかん」「継続は力だ」「権力にあぐらをかいてはいけない」など。これは、市井の人間にだって必要なものばかりなのだ。

 

 すべては紹介できないので、いくつか私が気に入ったものを挙げていこう。

 

 第二編 十二「ウィリアム・リー、ならびに織襪機」から。

 「襪」とは靴下のことである。リーは、靴下織機を発明した人物であるらしいのだが、彼をその発明へと駆り立てた理由が、まずおもしろい。

 

 リーかつて村中の少女を見て、深く恋愛し、その家に行きたるに、少女つねに襪を織り、リーを待遇すること、簡慢なりければ、リーたちまち憎怨の心を生じ、いでや新機器を造り、彼の手工をして、利を失わしめんものをと、三年の間、織襪機を作ることに、心力を労したり。(122)

 

 なんとも子どもじみた動機である。しかし、それで三年間もその発明に没頭できるのであるから、たいした人物だ。余談だが、子どもじみた、とは言ったものの、私はこういった話が大好きだし、愛おしいとすら感じる。動機にまでポリティカルコレクトネスを持ち込まれては、やはりたまらない。

 さて、その織襪機に改良を重ねたリーは、エリザベス女王にこれを持ち込む。国の施策で、大量生産してもらおう、と思ったのだろう。しかし、これを見たエリザベス女王の言葉は、現代にも繋がる皮肉となっている。

 

「この機器行われなば、貧人手工の利を失うべし」(123)

 

 これは1600年頃の話なのだが、現代の読者も、まったく笑えない。

 

 第十一編 二十二「みずから修むることは、地位に関らざること」より

 これはもう、冒頭の二文に限る。これはなかなか響く。

 

みずから修むることを、もしも誤りて、世上の富貴を得るための方法と思うときは、これを降し賤しからむること、これよりはなはだしきはなし。もしまたその志、一身を善くするに止まり、世上の職業を避くるは、さらに大いなる誤りなり。(426)

 

 付け加えて、同章 二十三「卑下なる自修の説」より

 

みずから修むることを、あるいは世上利達の階梯と思い、あるいは智見を広める楽趣に供するの具と思える謬説世に行われ、品行を高尚にし心思を開展することに着眼せずして、かかることをもって目的とするは、自修のことをはなはだ卑下なる田地に落ち沈ましむるなり。(427-428)

 

 これ以上はなにも言うまい。

 

 最後に、第十三編 十八「容貌辞気の修め善くすべきこと」より

 

容貌辞気は徳行の華采なり。忠順なる言語、忠順なる顔容は、大いに徳行の価をして高らしむるなり。たとい善徳の実ありとも、酸面薄相(無愛想)をもって他人を待するものは、けっして人に親付せらるべからず。またたとい心に邪悪なしといえども、傲慢なる態をあらわし、人に対して忤逆不快なる言を道うものは、だれにも驩愛せらるべからず。また一種の人、偽りて謙譲をなし、実は己が高大を示さんと欲するものあり。もっとも人をして堪えざらしむ。(516)

 

 私は、それを容姿に限らないのであれば、ひとは見た目が九割だと思っている。根はいいひとだから、と言われても、人間、それほど多くのひとと深いお付き合いはできない。否定的な意味ではなく、みな、ある程度は表面的な交際になる。第一、同じ屋根の下に暮らす家族のことすら100パーセント理解することはできないのだから、いわんや赤の他人は、である。

 ここでいう見た目には、顔つき、言葉遣い、語気、行動、仕草、さらには雰囲気といったものまで包括される。「容貌辞気」も同じく、そういうものを意味しているのではないか、と私は理解している。そのひとの人間性というものは、そういった些細なところからにじみ出てくるものなのだろう。良くも、悪くも。

 

西国立志編』の言葉は、驚くほど、いまだ色褪せない。それは人間の普遍性の証左であるだろうか。あるいは、近代人の成長のなさ、ということもできるのかもしれない。そんなことを考えた、読書であった。

 

 以後、作品について詳しく論じる、というよりは、このようにざっくばらんに、読んだ感想なるものを思い思いに記していこう、と考えている。ちなみに、そのスタンスとして参考となっているのは、宮沢章夫『時間のかかる読書』(2009年)である。横光利一「機械」を11年以上にも渡って読んだ記録、という「遅読」の極北とでも言うべき、凄まじい本だ。こちらも是非。

 

底本 サミュエル・スマイルズ西国立志編中村正直訳 講談社 平成3年 第28刷 平成20年

 

 参考文献『日本文学大年表 増補版』おうふう 市古貞次編 平成7年

 

(文責 宵野)

 

*1:これはひとによるだろうが、私の場合は、決まった目的やテーマの意識を持っていないときの方が、これは冴えている、おもしろいと感じられるようなアイデアや文章、読み方が生まれることが多い。単に勉強ができないだけ、とも言えるだろう。

書評『ベストセラーコード』にみるベストセラー小説の特徴

簡単な紹介

 本書は一言で言えば、ベストセラー小説の特徴を統計的に分析したものである。ベストセラー小説はニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストから選ばれたものである。ちなみに、そのリストに入る作品の割合は0.5%に満たないと見られている。

 大雑把に言えば、それらを非ベストセラーと比べ、何が違うかを明らかにしている*1。検討されている要素はテーマ、プロット、文体、キャラクターなどである。より正確には、それらの要素も細かく別れている。文体で言えば、「a」「the」「in」「she」がどれぐらい使われているか、のように。それらの特徴は2800*2にものぼる。

 

売れる小説とは?

 さて、本題に入ろう。本書が導き出した売れる小説の特徴とは何か? 主なものをテーマ、プロット、文体、キャラクターの要素に分けて見ていこう。なお当り前のことだが、以下に述べる特徴を有していないベストセラー小説もあるだろう。これは割合の問題だからだ。例えて言えば、大卒と中卒のどちらの収入が高いかのようなものだ。大卒より高収入の中卒もいるが、全体で見れば大卒のほうが中卒より高収入ということになるように。

 また、日本語とはあまり関係がない要素は省略する。例えば、定冠詞の使い方などだ。

テーマ

 本書では小説のある部分がどんなテーマを扱っているのかが定量化されている。例えば、家庭生活を描いている部分だったら家庭という風に。そして本の中で家庭というテーマが何%を占めるのかが集計されるのだ。

 ベストセラーでは非ベストセラーよりテーマが絞り込まれている。具体的に言えば、上位1つか2つのテーマで30%が占められている。そしてそれらのテーマはありふれたものである*3。一例を上げると以下の様なものだ。登場人物の交流が描かれた親密な人間関係、家庭、仕事、子供の学校生活、最新テクノロジー。対して売れていない小説には非日常的なテーマが多い。例えば宇宙での闘い、政財界での駆け引き、造語などだ。

プロット

 本書はポジティブな感情、ネガティブな感情という観点を導入している。そして、それらの感情が時間が経つにつれて、どう変化するか。このことにより、プロットを分析している。これだけでは分かりづらいので、図を引用しよう。

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(P123より)

 日本人には馴染みが薄いがE・L・ジェイムズ「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」はベストセラー小説である。そして残りの二つはそうではない。グラフの縦軸は感情の変化を表していく。上に行くほどポジティブ、下に行くほどネガティブである。この図に顕著なように、ベストセラー小説は山と谷が急である。逆に売れない小説は変化が乏しい。

 物語にメリハリが合った小説のほうがほうが売れるというのは、違和感がない。

文体

 堅苦しい表現よりもくだけた表現が用いられる。例えば、ベストセラー小説では縮約形*4が多い。形容詞と副詞、特に形容詞は使われる頻度が低い。

 平均的な読者は簡潔な文章を好むということだろうか。

キャラクター

 主人公は行動的である。ベストセラーではそれ以外の小説と比較してneed(必要だ)とwant(欲しい)を2倍、miss(ないのを惜しむ、寂しく思う)とlove(愛する)を1.5倍使う。逆に非ベストセラー小説の主人公はネガティブであり、行動的でない。

 余談であるが、以上を見ていくと日本の純文学が売れないのも当然だという気がしてくる。およそ、売れない方の特徴を満たしている。もちろん、日米で売れる小説の特徴が全く異なる可能性はあるわけだが。

 またこれらのベストセラーの小説を満たす作品として、池井戸潤の作品群を思い出した。とはいっても、私は原作ではなくドラマしか見ていないのだが。例えば、家庭、仕事、最新のテクノロジーなどのテーマ。あるいは主人公の主体性と、事態の変化による激しい感情の起伏。彼の作品が売れるのも分かるものだ。

売れる小説の予測

 驚くべきことに、本書では売れる小説の予測という挑戦もなされている。つまり、ある小説の要素からその小説がベストセラーリスト入りする確率を予測するわけだ。この試みは概ね成功しているようだ。例えば、著者たちは「ザ・サークル」という本がベストセラーリスト入りすることを的中している。前述したように、ここに入る小説は0.5%以下である。偶然ではないと考えるのが妥当だろう。

本書の統計的限界

 統計家である西内が解説で適切に指摘しているように、本書の統計分析にはいくつかの限界がある。

 まず、アメリカ市場が対象であること。翻訳小説もリストには入っているが、それが日本のリストとは異なることは明らかだ。他方で国が違うとは言え、何らかの共通している部分があると考えることは不自然ではない。

 だが、どこが共通していてどこが異なるのかは正確には分からない。正確に求めようとするなら日本版の同じような調査をするしかないだろう。

 また本書が発見したベストセラーの特徴とは相関関係であって、必ずしも因果関係ではないということだ。例えば、売れる作家があるテーマを好むとしても、読者はそのテーマが特に好きではないのかもしれない。だとしたら、そのテーマを含んだ小説が売れるのは、その作家の文体や、プロットなどの能力なわけだ。この場合、それらの能力がない作家がそのテーマを書いても売れないのは理解できるだろう。

 だからこそ、このブログのタイトルはベストセラー小説の書き方ではなく、特徴なのである。本書に書かれてあることを実行しても、必ず売れるという保証はない。

 さらに、本書はあくまでそれまでのデータを元にしているものにすぎない。例えば、読者の好みが大幅に変化した場合には違う結論が出てくるだろう。また西内は以下のような興味深いことを指摘している。それは本書のモデルを使って小説が書かれ、売られた時にはまた違う結論になるだろうということだ。現状とは出版の供給構造が変わるのだから。

 以上の欠点は統計的な、あるいは技術的なものである。これとは別に本書の文学的な限界も存在している。それはベストセラーであることと、良い小説であることを著者たちが安易に結びつけすぎていることだ。その点で本書は純粋な統計分析だけを行っているわけではない。随所にベストセラー小説を称える言葉があるからだ。

 もっとも、著者たちが指摘するように文学界隈ではベストセラー小説を軽く見る風潮*5があることは確かだ。優れているから、一般人には理解されず、売れないのだと言うような風潮さえある。それらに対する逆張り、反発の側面もあるのかもしれない。

アルゴリズムのその先へ

 小説を書くプログラムというのは、まだまだ技術的に不十分だろう。例えば、星新一賞に小説が投稿されたと話題になった。

www.nikkei.com

 しかし、実態は自立したAIとは程遠いものだ。一例をあげよう。「登場人物の設定や話の筋、文章の「部品」に相当するものを人間が用意し、AIがそれをもとに小説を自動的に生成した」*6ものにすぎない。

 だが、売れる小説を書こうとする人にとってはベストセラー予測プログラムでも十分である。あるいは本書に書かれている特徴を意識して小説を書くだけでも。もちろん、前述したように例えアメリカ国内でもそれが必ずしもうまくいくとは限らない。だが、全ての特徴が相関関係ということもないだろうし、読者の好みの変化はゆっくりとしたものだろう。それにとりあえず当初は大きく出版の構造が変化することもない。一定の効果はあるのではないか。そのような手法が取り入れられた世界はどんなものなのだろうか。

 西内はアメリカのポピュラー音楽について、この問題が起こっていることを記述している。印象に残る曲の部分のデータを元に、作曲をする作曲家が増えたと。その結果、売れる曲が似たり寄ったりになってきているのだと言う。多くの作曲家が同じデータに基づいて売れそうな曲に近づけていくからだ。

 この現象が小説の世界でも起きるのではないか。どこかで見たことのあるような展開や、文体、キャラクターの小説ばかりが売れていく世界*7もちろん、人間はやがて飽きるから、多少は変化があるだろうが。あるいは、読者の側がベストセラー予測プログラムを使って、読みたい小説を決めるということも考えられる。プログラムを扱える読者は少ないから、実際には単に数字を見て判断することになろうだろうが。

 要は読者がこれまで読んで面白かった小説と、同じような小説を読み続ける世界である。ある意味では心地の良い世界だ。アマゾンのおすすめがさらに洗練されたような形だろう。しかし、読者はその陰で思いもよらなかったような小説に会う機会を失っていく*8

 実証性は何もないが、私はそのような世界は貧しい世界だと思う。ある意味では恐ろしい世界でもある。表面上は異なっていても、構造的には似ている小説を無意識に読まされ続けるのだ。

 どうやって売れる小説を書くのか、という問題に対してはプログラムが助け舟を出そうとしてくれている。だが、その小説がいい小説なのか、そのプログラムを使うべきなのかということは教えてはくれない。

 結局、小説家はいい小説とはなんなのか。売れ線に合わせて、自分の作風を変えるべきかという問題に悩まされ続けるだろう。これは昔から変わりばえのしない問題だ。そんな悩みとの苦闘から、現在の読者の好みを変える、あるいは超えるような作品が出てくるのかもしれない。

文責 雲葉零

『ベストセラーコード』 ジョディ・アーチャー , マシュー・ジョッカーズ (著), 川添 節子 (翻訳), 西内 啓 (監修)

人工知能創作小説、一部が「星新一賞」1次審査通過 :日本経済新聞

(2018年 3月5日 最終閲覧)

*1:私は統計やプログラムの専門知識が特にあるわけではない。せいぜい大学で統計学の講義を取ったことがあるぐらいである。プログラムに至ってはそれ以下だ。またこのブログはそれらの話題を専門的に扱うものでもない。よって、技術的な説明は殆ど省略している。詳しく知りたい方は原典に当たって欲しい。

*2:当初は2万にも達したが、分析の役に立たない要素は削除された。

*3:より正確に言えば、アメリカの読者にとって。例えば割りとよく出てくるテーマに訴訟があるが日本ではあまり馴染みがない。

*4:can'tなど

*5:この点では日米で大差がない。

*6:人工知能創作小説、一部が「星新一賞」1次審査通過

*7:現在もそうではないかという批判があるだろうが、ますますそうなるということだ。

*8:これは納得ができる現象だ。何故なら、そんな小説とは読みづらいものなのだ。初めて外国語を読んだ時に強烈な違和感を感じるように。そうそう売れるものではない。

『味噌汁でカンパイ!』感想

 第一印象は、「おもしろそうだし、自分は好きだと思うけれど、果たしてネタが持つだろうか」という心配だった。あとは、「最近の漫画のなかでは、あまりにも地味で埋もれてはしまわないだろうか」。現在五巻まで出ていることを見れば、このふたつの懸念は杞憂だったようだ。

 『味噌汁でカンパイ!』(小学館)は、ひとことで説明すれば、想いを寄せている幼なじみの女の子が毎朝味噌汁を作りに来てくれる、コメディコミックだ。

 私などは、この設定ですでに惹かれたくちなのだ。それはさておき、流行りの言葉になるが、この作品はあまりにも「エモい」。いや、私はそれまでこの単語を一度も使ってこなかったのだ。そしていまだに、この作品に対して以外で使ったこともない。

 

 主人公の善一郎(善)は、幼いころに母親を亡くしており、父親とふたり暮らし。父親も仕事で家を空けることが多く、いつも菓子パンやコンビニのおにぎりなど、簡単な食事で済ませていた。そんな善一郎は、となりに住む幼なじみの八重に想いを寄せていた。しかし、八重の方は善一郎の気持ちを露も知らず、善一郎はどこかやきもきして過ごしていた。

 変化が訪れたのは、ある日の朝。勝手に家に上がりこんだ八重が、朝ご飯を作っていたのだ。ひとり暮らしを中心に、しっかりと朝食を摂らないひとが増えている、というニュース番組を観たことがきっかけだった。そこで味噌汁、具体的にはシジミの砂抜きを忘れたこと、ついでに善一郎が砂抜きをできることに対抗意識を燃やし、八重は、来る日も来る日も味噌汁を作りに来るようになる。

 ニュースがきっかけとしても、なぜこんなことを突然始めたのか。それは、善一郎が母親を亡くしたときにした約束だった。「ずっと善ちゃんのそばにいる!」。善一郎は「お嫁さん」になってくれる、と受け取っていたそれを、八重は、善一郎の「お母さん」になる、という約束として、それを果たす絶好の機会を得た、と思ったのだ。

 「まぁいいか。とりあえず今は、「母親」でも…」。友人以上、恋人未満の「お母さん」。なんとも絶妙な関係のふたりは、味噌汁を通して、関係を育んでいく――。

 

 となりに住む同い年の幼なじみ、小さい頃にした約束、主人公は基本、家にひとり、毎朝起こしにくる幼なじみ。設定だけを取り出すと、この作品は驚くほどにテンプレートといえばテンプレートだ。

 しかし、一般に「恋愛」や「青春」を下敷きに語られるそこに「家庭」の要素が入ることで、新たな魅力が生まれる。

 八重は善一郎の家の訪問者ではない。「お母さん」、家族なのだ。もちろん、善一郎は八重に、自分を男として意識して欲しいと思っていないわけではない。しかし、同時に「お母さん」としての八重も、肯定している。単純な「青春」や「恋愛」に収まらないのは、そこにある。

 そして、「お母さん」としての八重があることで、もうひとつの効果もある。この作品には、悪人がいない。思いやりにあふれる、温かい世界といってもいいかもしれない。だからといって、だれも傷ついていないわけではない。よかれと思っていても、だれかを傷つけてしまうことは、現実でもしばしばあることだ。ひとによって、「当たり前」が異なるからだ。善一郎にとっては、お母さんがいないのが当たり前だが、世間的に、中学生の子には両親がそろっているものと思い込まれている。

 このなかで、八重は一生懸命、善一郎の母親たろうとする。善一郎もまた、八重の子どもになる。無償の愛、と言う言葉がある。ふたりの関係が、まさにそうだ。それが本物の親子でないからこそ、親子の間で交わされる言葉や行動、感情の動きの尊さが改めてにじんでくる。

 ここで絶妙なのが「味噌汁」である。味噌汁と言えば、家庭の味の代名詞だ。家によって、入れる具や出汁がばらばらであり、その家の特徴が出る。「母の味」というやつだ。そして、「毎朝、俺に味噌汁を作って欲しい」という、常套句のようなプロポーズの言葉もある通り、「妻の味」でもある。そして、食事は生活の一部を担う。食卓を囲む。家族団欒の代名詞だ。善一郎と八重のあいだをつなぐものとして、これほど具合のいいものはないだろう。

 それにともない、善一郎と八重の距離感もまた、これ、というほかない。ふたりは同じ学校に通う中学生。この、中学生、という年齢が絶妙で、これが高校生だと、このくすぐったい感じの質が変わってしまうような気がする。

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 (上、第二巻p90、91 下、同p98、99)

 

 上は、遠足で善一郎の分の味噌汁を八重が作って、渡しに行きたいのに行けない場面。恋愛事に疎い八重は、ただ渡しに行けばいいだけなのに、それができない自分に戸惑っている。典型的、といえばたしかにそうだ。しかし、これは主観になってしまうが、これが高校生だと、さすがにあざとくなってしまいそうだ。*1

 この作品、全体を通して言えることは、小さな変化や微妙な揺れ動き、である。当然、成長に伴う心身の変化。八重にとっての善一郎は、幼なじみから「お母さん」、そして、どうしてか気になる存在へ。同時に、変わらないものを肯定して愛おしむ。そうだ、「肯定」が根底にある。

 劇的な事件、というものはほとんどない。おそらく、多くの家庭では当たり前のこと、少なくとも社会的にそう思われているものの温かさを、幼なじみの「お母さん」の存在が、もう一度照らし出してくれる。ひとはそれぞれ違う。それはあたかも、家庭によって味噌汁の具が違うように。しかし、味噌汁はそんな違いも、そして、そのなかにあるさまざまな感情もひっくるめて、温かく包みこんでくれる。

 

 P.S. この作品には、味噌汁についての蘊蓄を交えた、グルメ漫画という側面もある。それが最初、ネタ切れを心配したところである。味噌汁一本で、そんなに語るようなネタが、しかも話に絡めながら、あるのだろうか。味噌汁は大好きだが、そこまで詳しくない自分には見当もつかなかった。一部を紹介すると、「しじみの砂抜き」「合わせだしを作る」「赤味噌白味噌」「かきたまとたまねぎ」「味噌汁に合う水」「冷や汁」「ブリのあら汁」「甘酒」、などなど。よくぞまあ、ここまでネタを探してくるものだ、と感心する。

 

(文責 宵野)

*1:もちろん、現実の高校生のなかには、いまだ恋愛事に関心がない、というひともいるだろう。しかしこれはあくまでもフィクションである。「まんが・ゲーム的リアリズム」(大塚英志)ではないけれども、少年・青年誌の高校生というものは、だいたい恋愛が関心事である。もっとも、これを言ってしまうと身も蓋もないのだが、私は中高6年間男子校育ちで、その期間、同世代の女子と話をしたこともほとんどないので、実際の中学生と高校生の違いなど、まったくわからない。