ソガイ

批評と創作を行う永久機関

書評 ジョン・アーヴィング『ピギー・スニードを救う話』

異端者 ジョン・アーヴィング

 著者ジョン・アーヴィングは現代アメリカ文学の旗手である。『熊を放つ』、『ガープの世界』、『サイダーハウス・ルール』など日本でも有名な作品が多数ある。ちなみに『熊を放つ』 (中公文庫) の翻訳者は村上春樹である。アーヴィングの文学観は以下のインタビューでの発言によく現れている。

(前略)前に、二十世紀の最高の作家は誰かという投票みたいなものを『TIME』がやっていてね。文芸評論家が選んだのがジョイスだった。勘弁してくれよ。『若い芸術家の肖像』、確かにあれはいい本だ。でもそれ以外は? 自己満足の頭でっかちのごみだよ。いま文芸誌に載ってる手合いの、大学院の創作科の授業を思い出しながら書いてるようなものと一緒だよ。

 僕はごめんだね。長旅に出るときに『ユリシーズ』や『フェネガンズ・ウェイク』を持っていくかい? 読みたいのはまともな本だよ。ディケンズジョージ・エリオットやハーディの書いた本だよ。自己中心的なインテリが書いたオナニー本じゃない」*1

 皮肉が効いていてユーモラスな文章である。『ユリシーズ』や『フェネガンズ・ウェイク』にオナニー本という評価を下したのはアーヴィンぐらいではなかろうか。心の中で思っても、ジョイスの評価の高さを知っていたらなかなか口に出せることではない。

 このようにポストモダン文学を腐し、ディケンズに対して賞賛を惜しまないアーヴィングの態度は現代文学では異端的である。またアイオワ大学創作学科ではSF作家カート・ヴォネガットの指導を受けた*2

 本著はそんなアーヴィングの短編七つと批評一つで構成されている。一つしかない批評はディケンズについてのものである。アカデミズムやあるいは批評家には感傷的すぎるとして受けが悪いディケンズを、アーヴィングが一生懸命擁護しているのが印象的である。個人的には、村上春樹のファンがこのような気持ちになっているのかもしれないなと思った。短編の数が多いので、本稿では、特に印象に残った短編二つを書評する。

 

『ピギー・スニードを救う話』

 表題作。本作は語り手の回想という形で、語られる。語り手は作家であり、またニューハンプシャー州エクセター生まれであると明示されるので、著者アーヴィング(彼もまたニューハンプシャー生まれである)との同一性が醸し出される。だが本短編の冒頭にはこのような文章が付されている。

 これはメモワールである。だが(まともな想像力を備えた作家から見れば)どんなメモワールにも嘘がある。なかんずく小説家の記憶などというものは細かな嘘を垂れ流すようにできていて、どうせなら実際の記憶にあるよりも好ましく書いてしまおうと想像力を働かせるのが作家というものだ。しかるべく、書かれた細部が現実と合致していることのほうがめずらしい。もう少しで、現実になったかもしれないこと、なるべきだったことにこそ、真実は宿るのである。*3

 語り手が言うように、自伝や回想には嘘がつきものである。この語り手が特異なのは、そのことを自分が回想する前に、わざわざ読み手に思い起こさせていることである。また、この文章は、本短編後半での、語り手の回想に大きく関わっている。

 題名となっている、ピギー・スニードは生ゴミ回収を営んでいる男性の名前である。ピギーはブタちゃんという意味だ。その名前の由来は彼が養豚農家であり、豚舎で豚と一緒に暮らしたことにある。回収した生ゴミはそれらの豚に食べさせるのだ。彼が住んでいるのは小さな町ストラタムの外れであった。

 ピギー・スニードは、著者が幼い頃過ごしていた祖母の家にもゴミ回収にやってきた。ストラタムと祖母の家はたいして遠くないからだ。彼はひどい体臭を放ち、言葉を喋れず、知能に障害があった。祖母はそんな彼に優しく接するが、子どもたちはそんな彼をいじめの標的にする。

 語り手のピギー・スニードについての描写は極めてユーモラスであり、また哀愁を誘うものである。そして、語り手を含む子どもたちも悪意だけではない感情をスニードを抱いている。敢えて言うならば、好意と言うことになるのだろうか。いじめの標的にしておいて、好意があるというのはとんでもない状態である。だが、世の中には往々にしてそういうことがあるのではないか。少なくとも、全てのいじめっ子が相手に対して殺意に近いような強い悪意を抱いているわけではないだろう。

 もちろんそのユーモラスや好意は、スニードが知的障害を負っていたり、言葉を喋れないという点と深く関係している。端的に言えば、障害者を馬鹿にしているという批判は免れないだろう。しかし、残酷さとユーモラスや好意は決して相反するものではないのかもしれない。そして、悪意と好意も同様かもしれない。そしてそのことは論文や評論では中々描きづらく、小説だからこそ描写できる現実なのではないか。本短編を読んでそのようなことを思った。

 やがて、語り手は祖母と暮らした街エクセターから、一〇キロほど離れた街へ引っ越す。高校生になった語り手は、近隣の町ストラタムの消防団に加わった。子供の頃過ごした街のスニードを知っている仲間たちと一緒に。とはいっても、ストラタムで大きな火災が起こらなかったこともあり、語り手が活躍する機会はなかった。

 しかし、ある晩大きな火事が起きる。火元は件のピギー・スニードの家であった。火勢が強すぎて、スニードを助け出すことなど到底できない。あるいはもうとっくに死んでしまっているかもしれない。

 そんな状況下で語り手は、スニードが実は助かったという話を紡ぎ始める。やりきれなさから語りだした、何の根拠もない法螺話である。話しているうちに、スニードの逃亡先もフロリダからヨーロッパへと変わる。より、もっともらしい話にするために。彼と同じようにやりきれなさを抱えている、子供達も徐々にその話に調子を合わせていく。

 しかし、結局スニードは死体となって発見された。

 後年、作家になった語り手は、祖母にスニードの火事のことを話す。創作の上で彼を救おうと試みたことも。祖母はスニードが生きていた時に優しくしていれば、そんなことをする必要はなかったのにと指摘する。

 それができなかった私は、いまにして考える。作家の仕事は、ピギー・スニードに火をつけて、それから救おうとすることだ。何度も何度も。いつまでも*4

  語り手が、回想の中で作り話を語るという構造はそれはそれで面白い。だが、私にはそれ以上にピギー・スニードと語り手及び仲間たちの関係性のほうが興味深く感じられた。ユーモラスで感傷的な小説である。

 ちなみに本短編の原題は『Trying to save Piggy Sneed』である。訳者の小川はこれを『ピギー・スニードを救う話』と訳している。だが、どうにも私には直訳調に『ピギー・スニードを救おうとすること』とでも訳したほうが良いように思える。trying toを話と訳してしまうと、大事なニュアンスが消え落ちてしまう。すなわち、救えなかったピギー・スニードをなんとか救おうとするニュアンスが。

 

『ペンション・グリルパルツァー』

 語り手の父親オーストリアの観光局に勤めている。また、その関係から、ホテルやペンションの調査をしている。身分を隠して、ホテルなどのサービスが行き届いてるのか調べるのだ。そして格付けをつける。語り手を含む一家全員でその調査をしている。

 語り手の家族は以下のような構成だ。語り手から見て、祖母、父、母、語り手自身、弟。ある日、語り手達はペンション・グリルパルツァーを調査することになる。そのペンションには熊が出現するという奇妙な噂があった。

 ある一室を語り手が「がらくた博物館の小型版」と評したように、ペンション・グリルパルツァーは古びた宿屋であった。そのペンションには奇妙な住人がうようよしていた。祖母が昔見た夢を何故か見通している男とハンガリー人の歌手。逆立ちして移動する男。そして、熊とその女調教師。

 当然、語り手達は宿の主人に、彼らのことについて問い詰める。主人によると彼らは元ハンガリーのサーカス団で、女調教師は自分の女兄弟*5だと言う。また、逆立ち男は脛の骨がないので逆立ちするしかないということも分かった。ソ連から妹を救ってくれたということもあり、主人は彼らをここに居候させている。

 帰り際には、一輪車に乗った熊が語り手達が乗ってきた車に激突する始末。おまけに車の距離計が伸びていた。熊も含め、居候達が勝手に車に乗ったのだ。

 後年、語り手は妻と一緒にペンション・グリルパルツァーを再訪する。ペンションには老けた女調教師しかいなくなっていた。ハンガリー人の歌手は惚れた女のところに行ってしまった。夢男は悪夢を見続けて入院させられた。主人は変装した熊を見て心臓麻痺。逆立ち男は、その逆立ちが祟ってエスカレーターで事故死した。世話が行き届かなくなった熊は動物園に寄付された後にすぐ死んでしまった。

 かなり長々と短編の紹介をしてしまったが、奇妙で逸脱した人物と熊が出てくるので仕方あるまい。そして、この短編ではその奇妙さと逸脱を喪失する悲しみが描かれている。再訪の帰り際に語り手はあることに気づいた。

 車に乗ってから、さらに私は気落ちすることになった。距離計に一キロの伸びもなかった。一キロたりともこっそり走らされてはいなかった。そういう勝手なことをするものが、すっかりいなくなっていた*6

 ペンションの居候が勝手に車を走らせていたら、普通は怒るものだろう。しかし、勝手さも極まれば魅力となるとでも言うのだろうか。身勝手極まりないとは人を非難する際に使われるが、この場合は褒め言葉である。量的に極める、著しいというよりも、味のある身勝手と言えば分かりやすいかもしれない。少なくともどんな一流ホテルの従業員だって、彼らほどの印象は残せないことは確かだ。どんな一流ホテルだって、居候の熊はいないだろう。

 この微妙な居候たちに対する好意は、語り手だけでなく語り手の父も共有していたものと見ていい。父は、このような目に遭ったのにペンションの格付けを引き上げているからだ。

 しかし、彼らの存在は世の中に受容されるものではなかった。ハンガリー人の歌手はそうでもないかもしれないが、彼らは次々と死ぬか、冷遇の憂き目に遭っている。それは単なる偶然ではない。逆立ち男の事故死に対する、語り手の感想が端的にそれを示している。

 (前略)この世の中、機械は逆立ち用に出来ていない。はからずも残酷になりがちである*7。  

 逸脱者は世の中に馴染めない。それどころか排除される。意識的ですらなく、無意識的に。マイナスのネジにプラスのドライバーを突っ込んでもどうしようもないように。一体、誰が逆立ち用のエスカレーターなんて考えるだろうか。この短編はユーモラスにかつ感傷的にそのことを描いている。

 

総評

 期せずして、取り上げた短編二つとも奇妙な人物が深く関わっているものになってしまった。私の好みが反映されているのだろうが、何も本書はそのような短編ばかりではない。例えば『疲れた王国』はかなり落ち着いた雰囲気の短編である。

 全体的に言えるのはユーモア精神と感傷性に溢れているところだろうか。それでいて自虐的というわけでもない。片方ならばともかく二つとも備えている作家はそれほどいないのではないだろうか。ユーモア精神は、引用したインタビューからも伺えるだろう。また、『小説の王様』では感傷性を擁護している。

 アーヴィングと言うと長編のイメージが強いが、これらの短編も一級品である。文庫本になっていて入手しやすいし、気になった方はぜひご一読を。

 

文責 雲葉 零

 

引用文献

『ピギー・スニードを救う話』ジョン・アーヴィング 著 小川高義 訳 新潮社 1999年

『日本一怖い!ブック・オブ・ザ・イヤー2006』ロッキング・オン 2005年

*1:『日本一怖い!ブック・オブ・ザ・イヤー2006』50ページ

*2:『ピギー・スニードを救う話』作者紹介欄。

*3:『ピギー・スニードを救う話』8ページ。

*4:『ピギー・スニードを救う話』31ページ。

*5:原文ではsisterらしいので正確を期するなら、座りが悪いがこう言うしかない。

*6:『ピギー・スニードを救う話』250ページ。

*7:『ピギー・スニードを救う話』248ページ。

「小説の筋」論争からみた、芥川と谷崎

 最近、『文芸的な、余りに文芸的な/饒舌録ほか』(講談社文芸文庫)という本が出た。言うまでもなく、芥川龍之介谷崎潤一郎との間に起きた「小説の筋」論争に関連する文章を編纂した本である。私はそれなりの時間をかけて、この「小説の筋」論争について勉強していたこともあり、収録されている文章はほとんど読んだことのあるものだった。この本の編者は、千葉俊二氏。従来見過ごされていた、「大正期のスランプ」の谷崎研究のパイオニア的存在で、この度完結した『谷崎潤一郎全集』(中央公論新社)の編者でもある氏の、これは補遺的な仕事のひとつ、ということもできるかもしれない。

 そもそも、 私がこの論争に興味を抱いた理由として、ひとつは、谷崎潤一郎が好きであること、もうひとつは、この論争が「純文学/大衆小説」という現在にまで連なる区分に、大きな示唆を与えてくれるのではないか、と思ったことがあった。

 恋愛小説、SF小説、ミステリー小説、などのような物語の内容を具体的に表す「ジャンル」とは異なり、純文学と大衆小説(エンターテインメント小説)という言葉は、その物語の内容を表してはいない。それでありながら、「純文学だから難しい」「あの作品はエンタメだから」などと、この区分によって作品が語られる場面は非常に多い。たとえば、村上春樹を純文学というひともいれば、エンターテインメントだ、というひともいる。この問題に正解はあるのか、ないのか。

 このふたつの区分は、正直なところ定義がはっきりしない。よく言われるのが、掲載誌。「文學界」「群像」「新潮」などの文芸誌に載っているのは純文学であるとする考え方だ。しかし、文庫書き下ろしが増えているいま、その定義も怪しい。そういえば、新潮社の「純文学書き下ろし」シリーズというものもあった。あるいは、今村夏子のような作家は、この定義においてはどうしても例外的存在になってくるだろう。

 もうひとつは、純文学は芸術性を追求した小説で、大衆小説は読者を楽しませることを主目的とした小説である、という定義だ。とりあえずこう説明しておけば、お茶は濁せそうである。しかしこれだって、だいぶ怪しいものだ。*1少なくとも私には。それが楽しくなければ「純文学」とされているものなど、わざわざお金や時間をかけて読むことなどしないし、大衆小説が楽しませることが主目的ならば、(多少は触れるとはいえ)私がドラマや映画、マンガなどの他ジャンルにそれほどまでの関心を示さないのか、説明がつきそうにもない。

 もし、この国における「純文学/大衆小説」の区分を確固たるものとしているものがあるとすれば、芥川賞直木賞という、世間的に最も権威のある文学賞であろう。その半年の間に発表されたなかで最も優れた新人作家の純文学作品に与えられる芥川賞、中堅作家の大衆小説に与えられる直木賞。1年に2回、と、ある意味日本で一番受賞しやすい文学賞が、「純文学/大衆小説」という区分の権威、ひいては、その区分の存在を強く根付かせている。

 もっとも、こんなことはいままでも散々言われていることで、とくに目新しさはない。ただひとつ、「小説の筋」論争と絡めていうならば、「『話』らしい話のない小説」という、心境小説(いま純文学といわれているものは、この系列に近い)を志向した芥川龍之介は、純文学の賞として文字通りその名を残し、小説とはそもそも民を楽しませるために作られたものであり、「構造的美観」こそが小説の特権である。これから私は大衆小説を書いてみせる(『乱菊物語』)、とまで豪語した谷崎潤一郎が、早い時期から直木三十五歴史小説を評価していたこと。終に長編小説を書くことができなかった芥川*2の名を冠するこの賞が、短・中編作品を対象としていて、大衆小説を推した谷崎が、芥川の自殺後、『源氏物語』の現代語訳や大長編『細雪』に取り組み、事実直木賞は長編小説を対象としていること。こんなことを付け加えてみてもいいだろう。*3

 さて、この論争の経緯や、個々の作品からこの問題を論じてもよいのだが、それは別の機会に譲りたい。というのも、実は、私自身、この論争のことについて調べていたときに特に印象に残ったことのひとつは、芥川の自殺によって打ち切られることになったこの論争中の、芥川と谷崎の私生活におけるエピソードなのだ。

 このふたりの仲は、べつに悪いものではない。むしろ、良いとさえ言えそうだ。論争の方も、お互いの「話」の概念というか、意味するところがどうも食い違っていたせいかすれ違い続けた感はあるが、喧々諤々の口論というようには見えない。千葉氏も本書の解説のなかでこう語っている。

 

が、谷崎と芥川の論争は、文学論争といっても相手の議論を徹底的に攻撃して、相手を叩きのめすまでに説き伏せようとするものではない。それぞれ敬服しあい、お互いに相手の文学観を鏡にしながら自己の文学的立場を固めようとしたものだといえる。(p303)

 

 「饒舌録」にしても「文芸的な、余りに文芸的な」にしても、それぞれ単独で通読したときとは違った印象を受ける。たとえば、先ほど触れた芥川の五月号での文楽への言及は、谷崎の七月号での人形芝居についての論を引き出し、四月号での谷崎の西洋と東洋との比較論は、芥川の六月号の「三十一「西洋の呼び声」」に呼応している。このように互いの論に触発されながら各々の文学談義を展開していることに気づかされるが、ほかにも文章の端々に互いを意識しながら書かれた箇所も少なくない。(p303-304)

 

 『芥川君と私』において、「芥川君と私とはいろいろな点でずいぶん因縁が深いのである。」と谷崎が語るように、芥川と谷崎には因縁、共通点が少なくない。下町生まれ、学校、反自然主義、檀家(現在ふたりは同じ寺の墓に眠っている)、さらには芥川の命日が谷崎の誕生日であること。偶然にしてもややできすぎだと思われるこの因縁こそ、むしろ小説じみていると思わないでもない。

 谷崎が芥川について語った文章のなかで最も感傷的なのが『いたましき人』である。もちろん、この「いたましき人」とは芥川のことを指しているのだが、この文章のなかでは谷崎も「いたましき人」として映ってくる。たとえば冒頭。

 

出来てしまったことをあとになって考えると、ああそうだったかと思いあたる場合が幾らもあって、なぜあの時にそこへ気が付かなかったろうと今更自分を責めるけれども、もうそうなっては取り返しがつかない。わが芥川君の最近の行動も、今にして思えばまことに尋常ではないものがあったのに、君がそう云う悲壮な覚悟をしていようとは夢にも知らなかった私は、もっとやさしく慰めでもすることか、いい喧嘩相手を見つけたつもりで柄にない論陣を張ったりしたのが、甚だ友達がいのない話で、故人に対し何とも申訳の言葉もない。(p283)

 

 最後に会ったとき、佐藤春夫といっしょに人形芝居を観たこと、芥川が谷崎を家に引き止めて夜通し話をしたこと、谷崎がタキシードに着替えると、「わざわざ立ってタキシードのワイシャツのボタンを嵌めてくれ」たこと、谷崎が欲しいとこぼしていた「即興詩人」を自分の蔵書から送ってくれたこと、最初から谷崎に送るつもりで丸善で買った「コロムバ」を手紙付きで送ってくれたこと。さまざまな記憶が、終始この沈痛な筆致で紡がれていく。この親密な交際に、ふとすると忘れてしまいそうだが、これらはすべて、論争中の出来事なのだ。

 「小説の筋」論争について個人的な意見を言わせてもえらえば、谷崎の主張は、それを支える具体例も含め説得力のあるものであるのに対し、芥川の主張、とりわけ「『話』らしい話のない小説」や「純粋な小説」という繰り返し述べられる言葉は、定義からしてはっきりせず、ついに具体的な説明まで及ぶことはなかった。*4谷崎に「左顧右眄」している、と言わせたのも、もっともである。あるいは、現実的である谷崎に対し、芥川の主張はどこか観念的で、実感が薄い。*5

 しかし、この時期芥川はすでに自殺の意思を固めていたことを考えれば、それもさもありなん。遺稿『或る阿呆の一生』を人生の辞世の句とすれば、『文芸的な、余りに文芸的な』は作家芥川龍之介の辞世の句だったのかもしれない。これからもずっと小説を書いていこうと思っている谷崎とは、心構えが違ったのである。

 谷崎曰く、自著以外を贈答することなどなかった芥川に立て続けに本を送られ、感謝しながらもどこか気にくわず、論争を再開させたことを振り返って、谷崎はこういう。

 

思えば芥川君は論戦なぞを少しも気にしていたのではなかった。死ぬと覚悟をきめてみればさすがに友達がなつかしく、形見分けのつもりでそれとなく送ってくれたものを、誤解した私は何と云うネジケ者であったろう。此の一事、私は今にして故人の霊に合わす顔がない。浅ましきは私のツムジ曲りである。

(……)

 聡明で、勤勉で、才気煥発で、而も友情に篤くって、外には何の申し分もない、ただほんとうにもう少し強くあってくれたらばこんなことにはならなかったであろうものを。思えばいたましき人ではある。(p285-286)

 

 白状すると、いまこのエッセイを読み直したとき、(ややお酒が入っているせいもあるかもしれないが)不覚にも涙をこぼしそうになった。芥川のことは、たとえば彼が「純粋な小説」の作家として賞賛した志賀直哉の『沓掛にて』にも書かれている。『奉教人の死』について、最後の最後で主人公が女であったことが判明するこの物語が、志賀に「仕舞いで背負い投げを食らわすやり方」だと批判され、「読者の鑑賞がその方へ引張られるため、そこまで持って行く道筋の骨折りが無駄になり、損だと思う」と評価された。これこそ、谷崎が論争のなかで主張した「構造的美観」を活かした小説であった。(映像作品において、受け手側に最後まで性別や容姿を勘違いさせることは、実はかなり難しい。そういった意味で、『奉教人の死』は極めて小説的な筋を持っている。夢野久作『死後の恋』、ナボコフ『絶望』などが私には思い出される。)

 このとき、「芸術というものが本統に分っていないんです」とこぼした芥川は、死を覚悟して、論争相手で友人でもある谷崎を前になにを思っていたのだろうか。残念ながら、芥川の口からその思いを聞くことは叶わない。

 そういえば最近、『芥川追想』(岩波文庫)という、芥川の自殺以後に多くの文壇人から語られた芥川についての文書をまとめた本が出版された。論争のきっかけとなった「新潮」の合評会で、谷崎の『日本に於けるクリップン事件』を批判する際に同種の問題を抱える作品として持ち出した自著の『藪の中』のように、芥川龍之介という人間は、語られる存在となっているのかもしれない。

 芥川の命日は、谷崎の誕生日である。昭和の始まりにおこなわれ、芥川の死によって打ち切られたこの論争の終結は、「大正期のスランプ」を乗り越えて大作家へと成長していく谷崎の誕生でもあった。『吉野葛』や『春琴抄』などの純文学/大衆小説の垣根を越えた作品の数々をみていると、本当にそう思う。

 いま、同じ寺の土のしたに眠るふたりは、なにを話しているのだろう。思い出話だろうか、それとも論争の続きだろうか。あまりお酒を飲まなかったという芥川だが、高血圧だろうがなんだろうがビフテキを食べようとする豪快な友人に引っ張られるようにちびちびとやり、ふたりよろしくやっていてほしい、なんて思ってしまうのは、教科書や便覧でみるあの神経質な表情ばかりではなく、調子に乗ってカメラの前で木登りをしてしまうお茶目な芥川龍之介という人間をもっとみてみたい、なんていう、私のわがままであろうか。

 

※引用の頁は、すべて『文芸的な、余りに文芸的な/饒舌録ほか』(講談社文芸文庫)による。

 

(文責 宵野)

*1:以上のように定義がはっきりしない、どこか主観的であるからこそ、たとえば春樹は純文学かエンターテインメントか、といった議論は水掛け論になってしまう。そして結論が出ないばかりか、互いにかえって強硬な姿勢を取らせるのであろう。つまり、おまえのいう「文学」と俺のいう「文学」は違う、と。これでは、ほとんど違う言語を使って話しているようなものだ。はなから、歩み寄ることを放棄しているに等しい。

*2:邪宗門』『路上』などの、芥川にしては長い作品はいくつかあるが、しかしどれも中断しており、完結はしていない。

*3:純文学/大衆小説問題については、芥川の自殺の8年後に発表された、横光利一「純粋小説論」も大きな議論のひとつだ。このなかで横光は、「純文学にして通俗小説」である「純粋小説」こそがこれからの小説の活路である、というのだが、通俗小説の要素である「感傷」と「偶然」を「四人称」を用いて純文学に取り込むこと。そのためには長編小説でなければならない。このように主張していることを考えると、純文学と大衆小説、芥川賞直木賞の長さについての問題も、あながち無視できない。

*4:そもそも、芥川はまず、一般的な定義とは異なる意味で用いている「話」という言葉について、しっかり説明すべきであった。谷崎は、芥川がいう「話」がよくわからないまま、しかしその言葉を使って論争を続けざるを得ず、すれ違い続けるのも当然のことだった。

*5:事実、この論争については、谷崎の方に理があるとする評価が多い。しかし、たとえば佐伯彰一氏は『物語芸術論』のなかで、谷崎の圧倒的優勢を認めながらも、結果的には芥川の小説論の方が強く生き延びたこと(純文学、ひいては「文学」という言葉から想像されるのは、芥川的な「『話』らしい話のない小説」のことではなかろうか)を指摘し、歴史的な勝者はむしろ芥川である、と述べている。

書評 『内側から見たテレビ やらせ・捏造・情報操作の構造』 水島宏明

内側からのテレビ批判

 この本は凡百のマスコミ批判本、マスコミを批判する言説と、少々趣が異なる。著者の水島がテレビの内側の人間、テレビマンを経験しているからである。水島の経歴は以下の様なものだ。

 1957年北海道生まれ。東京大学法学部卒業。札幌テレビでドキュメンタリー制作の現場に携わる。ロンドン、ベルリン特派員を歴任後、2003年日本テレビ入社。『NNNドキュメント』ディレクターを務め「ネットカフェ難民」の名付け親ともなる。芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2012年から法政大学社会学部教授。*1

 それゆえ、題名にもあるように業界の内側からテレビの問題点を批判的に考察している。マスゴミという言葉に表されるように通常(特にネットの)のマスコミ、テレビ批判は、場当たり的で情緒的なものが多いように感じる。すなわち、テレビの、誤報、やらせ、捏造、情報操作が起こる原因についての分析を欠いている*2。あるいは、根拠薄弱な陰謀論を展開するかである。

 対して、水島の批判はテレビ業界の内部事情を踏まえたものである。そのため、テレビ番組制作現場が細かく描かれ、ためになることが多かった。本書は内容に富んでいるので、特に印象に残った部分をかいつまんで紹介する。長さの都合上カットした、BPO、ドラマ、バラエティ、自殺、生活保護バッシングなどについても本書では取り扱っている。興味がある方は是非本で読んでいただきたい。

不幸を伝える仕事

 著者がテレビ記者をしていたおり、国道トンネルが崩落する事故があった。多数の死者が出て、数日間に渡っての特番が組まれた。特番は高い視聴率を得た*3。著者の放送終了後についての回想は極めてインパクトがある。

 (前略)終了直後、報道担当の上役が大量の缶ビールを抱えて現れた。フロアにいた全員に配った。

「よくやった。おかげで視聴率は圧勝だ。おめでとう! 乾杯だ!」

 テレビモニターにはまだ犠牲者の遺体搬送の映像が続々と流れていた。(後略)*4

 まるでブラックジョークのような光景である。著者が言うように、報道は不幸を伝えることが多い。それゆえ、一部の報道関係者は感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。

視聴率第一主義

 民放が視聴率を気にするのは、周知の事実だろう。しかし、NHKでさえも視聴率を非常に気にすると言う。スポンサーなどいないのだから、不思議な気がするが。

関係者に聞くと、NHKのニュース番組でも毎日、前日の放送の視聴率グラフをデスクが眺めて、どこで視聴率が上がったか下がったかで一喜一憂しているという*5

  このような状態では、視聴率が取れない堅いニュースが流しづらくなる。例えば、ある日の『おはよう日本』ではトップニュースから一二分間、サッカーの本田選手のことを特集した。元航空幕僚長田母神俊雄氏はその日の『おはよう日本』を見て「これでは国民が馬鹿になります」と批判した*6。私は初めて、田母神氏の意見に少し賛同したい気分になってしまった。

 また他のニュースも安倍首相の発言特集とソチ五輪特集だけであった*7。これではスポーツ報道番組と大差がないのではないか。テレビの政治報道の問題と言うと偏向*8が取り沙汰されるが、そもそも政治や社会問題を十分に取り上げないという問題もあるのだ。

 視聴率というものは数字である。思うに、数学が嫌いな人間は多いが、多くの人間は数字の持つ力には弱いのかもしれない。数字は、視聴率は極めて分かりやすい物差しになる。

 NHKのデスクが視聴率に一喜一憂するのは、おそらくそれが彼らの出世、評価に関わるからだろう。「視聴率は低いですが、良い番組です」という製作者と「とにかく視聴率は良い番組です」という製作者がいた時、上司は後者を高く評価するのだろう。

 どうしてこうなってしまうのか。良い番組かどうかは人によって、評価が異なる。だが、視聴率の高低は事実である。それ自体について議論の余地はない*9。だから、視聴率が高いかどうかで番組を評価すれば、楽には違いない。視聴率を見ていればいいだけなのだから。いわば、判断基準を自分の価値観ではなく視聴率に依拠しているのである。スポンサーがいないNHKでさえ、このような状態に陥ってしまうのは数字というものが持つ魔力の証左に思える。

 考えてみれば、本では部数の多さが、ツイッターではフォロワー数やリツイート数が評価の基準や宣伝文句として用いられることがある。数字依存はどのメディアでも言えることなのかもしれない。 

偽物の「リアリティ」

 関西テレビのローカルニュース番組で、情報提供者の代わりに代役を立てた事件があった。情報提供者がどんな形でも体を映しての出演を拒んだので、代わりにモザイクを掛けたスタッフの姿を流したのだ。ただし、音声は情報提供者本人のものであった。何故こんな行為をわざわざしたのかというと、映像的リアリティーを取材者が追求したためだと著者は推測する。音声だけではリアリティーに欠けるのだ*10。そんな取材者の心理を著者はこう切って捨てる。

つまり取材者は偽物を本物と偽り、「本物のリアルさ」を"捏造"したのだ*11

 偽物のリアリティとでも言えばいいのか。違う観点から考えると、フィクションの世界では偽物のリアリティを構築していくことが往々に求められる。リアリティがないという批判は的はずれなときもあるが、正当なときもあるからだ。しかし、ニュース番組では、偽物のリアリティは不要であるどころか有害である。偽物だということが明らかになった際に、それ以外の部分の信憑性すら疑わしくなってくる。

煩雑過ぎる編集

 2012年、大津市いじめ事件報道の際、いくつかの放送事故が起こった。まず、匿名であるべき被害者及び加害者の名前を記した文書がそのまま映し出された事があった。実際に流された時間は僅かなものであったものの。また、文書を黒塗りしたのに元の字が透けて見えてしまったケースもあった*12

 この原因の背景を筆者は以下のように解説する。数分間のニュースを作るためには、何本もの関連映像と何人もの編集者が必要になるという。また、ニュース番組では放送ギリギリに編集するべき映像が入ってくることもある。その過程で、チェックや連絡がうまく行き届かなることがあるというのだ*13

 また、モニターの関係で、モザイクや黒塗りの映像の際、チェックした人間には問題がなく見えることがあるという。家庭用のモニターで見ると、モザイクが甘かったり、黒塗りが透けて見えたりするのに。意外なことにテレビ局の編集用モニターは家庭用よりも解像度がよくないことがあるというのだ*14

 個人的なことで、恐縮なのだが私は細かいことが嫌いな人間である。こうして、記事を書いているときにも脚注をつけたりするのが面倒で仕方ない。どうやってテレビ番組が編集されるのかという著者の説明を聞いているだけで嫌になった。このような状況では放送事故が定期的に起こるのは当たり前である。この部分についてはかなり実務的な内容が書かれており、テレビマンだった著者ならではと言えよう。

終わりに

 私があまり詳しくない分野ということもあり、かなり純粋な内容紹介の部分が多くなってしまった。最後に、全体的な印象を書いて終わりにする。冒頭で言ったように、水島はテレビマン出身である。その為、業界内の描写は濃密だが、テレビの未来については楽観的すぎるきらいがあるかもしれない。また、ネットへの対抗意識はありありと伺える。さらに、反権力志向あるいはメディアの権力への監視を重視する人物でもある。人によっては、やはり身内びいきではないかと感じるかもしれない。

 とはいえ、著者のジャーナリズムに対する姿勢そのものは真摯だと感じた。だからこそ、やらせや捏造や情報操作が許せないのだろう。仮にテレビの視聴率がこのまま下がり続けても、すぐにはテレビ局の影響力が極めて小さくなることはないはずである。またネットのジャーナリズムもまだ十分に育っているとはいい難い。単に視聴率を追求するのではなく、良質な番組を作ろうとするテレビ業界人が増えることを願うばかりである。

 

文責 雲葉 零

引用文献 

『内側から見たテレビ やらせ・捏造・情報操作の構造』 水島宏明

 本稿の引用はすべて同書からであるため、引用部分については書名を略し、ページ数のみを付した。

*1:裏面の著者紹介欄より。

*2:ちなみに著者は凶悪事件の際に、テレビ出演者が通り一遍のコメントする姿を「許されない」病と評する。著者は、凶悪事件を「許されない」と言うだけでなく、貧困や孤立などの構造的な原因を探るべきだと主張するのだ。私も同じように感じていたので、意見の一致に驚いた。マスコミ批判とテレビの凶悪事件報道がどちらも浅い批判に留まりがちなのは皮肉である

*3:20から21ページ。

*4:21ページ。

*5:53ページ。

*6:50から51ページ。

*7:53ページ。

*8:現在の具体性に即して言えば、安倍政権に批判的であるか、親和的であるか。

*9:統計的な信頼性の問題などはあるだろうがここで言いたいのはそういうことではない。

*10:93から98ページ。

*11:102ページ。

*12:116から117ページ。

*13:123から127ページ。

*14:118から121ページ。

アメリカ禁書ランキングトップ10 2016年度版 後編

ランキング一位 「This One Summer」を読んで

 一位の「This One Summer」をKindleで購入して読んだ。そもそも同作が禁書になった理由を振り返ろう。LGBTの人物が登場し、薬物が使用され、不敬*1で、「大人びたテーマと相まって性的に露骨」だと考えられたからであった。

 本題に戻る。以下、その四つの理由に注目して、感想と内容を述べていく。同作にはスラングや口語が多く、読み解くのに少し苦労したのでちょっと誤解しているところもあるだろうが。

 最初に結論を述べてしまうと、「This One Summer」はそれほど過激な作品だとは思えなかった。もちろん、何が過激かというのは人によって違うのであるから、以下詳しく説明する。

 「This One Summer」の主人公は二人の少女、ローズとウィンディである。ローズはウィンディよりも一歳半ほど年上である。*2はっきりとした年齢描写は、一見したところ見つからない。絵柄や扱われ方から判断すると、10歳前後ぐらいだろうか。ちなみにローズの年齢を一〇代前半ぐらいと、判断している書評もある*3

 過激でないと述べた主な理由は、上述した禁書の理由に主人公が二人があまり関わっていないからだ。脇役と言っていい人物たちが、禁書の理由となる行動を起こし、主人公二人は遠巻きにそれに関わっているという感が強い。

 例えば、作中でダンカンという少年が恋人を妊娠させ、揉め事を起こす。ダンカンは主人公二人が利用する雑貨店やビデオショップの店員で、ローズは彼に恋心をいだいている。しかし、主人公二人とダンカンとのつながりはそこまで強いものではない。単なる客よりは関係性があるにしても、顔見知り程度のものだ。

 主人公二人が薬物を使用するということもないし、汚い言葉遣いも主に主人公二人以外の人物、具体的に言えばダンカンの周囲のティーンエイジャーが使う場面が多い。

 敢えて主人公二人が主体的に関わる重大な不敬あるいは非行を挙げれば、ローズが母親と激しい口論をした場面ぐらいだろうか。年齢制限があるホラー映画「エルム街の悪夢」を、ビデオ店で借りる場面もあるが、大したこととは思えない。 

現代アメリカにおける禁書運動の分析

 次に、現代アメリカにおける禁書運動を全体的に把握していこう。便利なことに、アメリカ図書館協会は、そのことについてネット上で発表している。例えば、以下の図のように。上部のランキング上位10位の紹介は前回行ったので、下部を中心に見て欲しい。

 

http://www.oif.ala.org/oif/wp-content/uploads/2017/04/OIF-graphic-2000.jpg

 *4

 下部左側の「Where are books challengnd? 」はどこで禁書の申し立てが行われるかを表している。公的図書館が49%と一位だが、二位の学校と三位の学校図書館を合わせた値は50%でそれを上回る*5

 その右隣上部の「Who challenges books?」は誰が禁書の申し立てを行っているかを表している。一位は親で42%。31%を占める二位のパトロンという単語は分かりづらいが、おそらく学校のパトロン、支援者のことだろう。三位は行政で10%、四位は図書館職員と教師で合わせて8%である。

 この二つの情報を合わせると、子供にその本を読ませないために、禁書運動の多くが行われていること事が分かる。

 その下の「Why are books challengnd? 」は禁書申し立ての理由を表している。これまでのようにパーセンテージがないので分かりづらいが、見た目の大きさの順に列挙しよう。もっとも全てではないが。

sexually explicit 性的露骨さ

offensive language 不快な言葉遣い

violence 暴力

LGBT

religious viewpoint 宗教上の観点

nudity ヌード

author 著者 

日本との比較

 私が調べた限り、現代日本の禁書に関する網羅的な統計は見つけられなかった。しかし、子供の本を読む自由、そして性表現が重大な争点になっているという点などで日米共通しているようにみえる。例えば、日本ではやや古くなるが、以下のような悪書追放運動の事例がある。

 

背景にあったのは1950~60年台の少年非行。その原因として、過激な性や暴力が描写された本や雑誌が挙げられた。各地の自治体は青少年健全育成条例を定めて、そうした本や雑誌を「有害図書」に指定し、販売のしかたを制限した。

 白ポストはそうした「有害図書」を家庭内に持ち込ませないようにと、兵庫県尼崎市で1963年、ドラム缶を白く塗って置いたのが始まりらしい。長崎県の設置はその翌年で、全国でも先進的な取り組みだったようだ。

*6 

  幸いなことに、「有害図書」回収は現代の日本ではごく一部に留まっている。だが、各地の青少年保護育成条例によって、青少年に限定して一部の図書が規制されている。例えば、東京都青少年の健全な育成に関する条例では、第8条1で以下の基準を満たした、図書*7を知事が不健全図書として指定できることを規定している。

 

「(前略)その内容が、青少年に対し、著しく性的感情を刺激し、甚だしく残虐性を助長し、又は著しく自殺若しくは犯罪を誘発するものとして、東京都規則で定める基準に該当し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあると認められるもの」

 

 また第八条の二では、以下のように規定している。ちなみに、この条文に出てくる第7条2号では実写を除いた、漫画、アニメなどの画像に限って規制が行われている。よって、この条文では実写映画や小説のたぐいは対象になっていない。

 

「(前略)その内容が、第七条第二号に該当するもののうち、強姦等の著しく社会規範に反する性交又は性交類似行為を、著しく不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を著しく妨げるものとして、東京都規則で定める基準に該当し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあると認められるもの」

 そして不健全図書として指定された図書は、第9条で青少年向けの販売などが規制されている。第8条を読めば分かるように、性表現や暴力性を焦点にして、子供に限定して、規制が行われているのである。アメリカの禁書運動と、理由が似通っていることが分かる。

 あえて違いを言うならば、LGBTや宗教を理由にした、規制や禁書運動は日本ではあまりないことだろうか。ただ、同条例の第7条2号では近親相姦の描写が規制されている*8。方向性はかなり異なるが、性的タブーを禁止するという点では、やはり通じるものがある。

 

表現の自由の最前線

 例えば、大統領批判を理由に、アメリカ政府が図書館から書籍を取り除くということはあまり考えられない*9。また、仮にそのようなことが起きても、かなり激しい批判が起きるだろう。あるいは日本での政府批判も同じだろう。民主主義国家では、表現の自由の重要性について、正面から否定する政治家はほとんどいないし、国民もある程度理解しているからである。

 だから、先進国での禁書や検閲の焦点は子供向け書籍に移っているのだろうし、その主体は政府だけでなく民間も担っている。いや、むしろアメリカの場合、民間団体のほうが積極的に禁書運動を起こしているように思える。あくまで、私的な行動なので、好き勝手に動けるからだろう。日本でもPTAなどの民間諸団体が禁書運動に関わっている。

 このような状況は中国やロシアなどに比べれば遥かにましなのは確かである。日米やあるいは西ヨーロッパ諸国の政治状況と禁書や検閲という単語は、あまり結びつかないようにさえ思える。

 とはいえ、ましだからといって、表現の自由が完全に保たれているのかどうかには注意をしなければならないだろう。子供に対する規制だから、大人は関係ないと言っても、子供だっていつかは大人になるのだ。

 子供時代に何を読んだかによって、どのような本を読むのかに違いが出るのは当たり前である。私自身、子供時代に読んだ本で、いまだに印象に残っている本はいくらでもあるし、いまだに好きな作家もいる。本は、文章は思考に影響を与える。どんな大人になるのかにさえ、違いが出るだろう。

 むしろ、そうだからこそ、子供向け書籍をある種の大人たちが規制しようとするのではないのか。LGBTの登場人物が全く出てこない作品しか読んだことのない読者が、大人になって主人公がセクシュアルマイノリティである作品を読んだらどう思うだろうか。違和感を感じるのではないか。あるいはLGBTの人物が出てこない作品しか読んだことのない、子供が現実にそのような人物と接触したらどうだろうか。

 度々引用してきたアメリカ図書館協会のサイトから、以下の警句を引いて本記事を締めくくる。

 

検閲はほとんど気づかれないほどに微妙なものでありうる。露骨で明白なものでありうるのと同じように。しかし、それにもかかわらず有害である*10

 

参考文献

‘This One Summer,’ by Mariko Tamaki and Jillian Tamaki - The New York Times


東京都青少年の健全な育成に関する条例

上記はいずれも最終閲覧が2017年9月15日である。

*1:ちなみに前回記事を投稿した後に、知人から不敬とは一体何なのかという質問を受けた。確かに、神に対する不敬とか、政府に対する不敬ならば意味がはっきりしているが、単に不敬では意味が漠然としている。しかし、翻訳元のアメリカ図書館協会「Top Ten Challenged Books」では、不敬、原語だとprofanity単体で使われている。辞書で調べたところ、神に対する不敬を暗に意味することもあるらしいが、自信がなかったので単に不敬と訳した。

「This One Summer」を読んで、類推するところ、おそらく社会常識とか、良識に対する不敬を暗に意味しているのではないか。また、ローズが親と言い争うシーンがあるので、親に対する不敬も意味しているのかもしれない。必ずしも神に対する不敬というわけでもないようだ。少なくとも、同作で宗教的な要素はほとんど感じられなかった。

*2:「This one summer」19頁。

*3:

‘This One Summer,’ by Mariko Tamaki and Jillian Tamaki - The New York Times

*4:画像の著作権アメリカ図書館協会に属する。 Artwork courtesy of the American Library Association。

Top Ten Challenged Books: Resources & Graphics | Advocacy, Legislation & Issues

*5:学校と学校図書館を分けている意味は正直いって、断定できない。だが、以下の記事を見ると、おそらく教科書に対する禁書運動を指しているのではないか。

New Florida Law Lets Residents Challenge School Textbooks : NPR

*6:

「白ポスト」王国、長崎の特殊事情 「有害図書」回収に同行してみた - withnews(ウィズニュース)

*7:余談だが同条例で優良図書を指定しているのも面白いところだ。

*8:ただし、前述したように実写や小説は対象になっていない。

*9:もっとも、トランプ大統領ならやりかねない気さえするのが怖いが。

*10:

Banned Books Q&A | Advocacy, Legislation & Issues

『デレマス』独断と偏見に基づいた映像論的なもの 後編

 4 光と影――期待と不安――

 

 

 もっともこれは映像の世界においては常套手段といえるものであろうが、『デレマス』も数多の映像作品の例にもれず、光と影の対比がところどころで用いられている。場面として明るいシーンでは全体的に明るく、シリアスなシーンでは影のなかだったり薄暗かったりするのは当然のこと、加えて、ひとつのシーンのなかでも、その登場人物の心の動きによって、画面全体の明るさが異なることもあるのが、注意をひく。

 たとえば、卯月の養成所について考えてみる。養成所については、レッスン場の入り口から全体を見渡すアングルでの同ポジが三回あるが、その最初の一回と、あとの二回では、文字通り部屋の明るさが異なっている。

 最初の一回とは、オープニング終了後、卯月が養成所でひとり、トレーナーの女性といっしょに部屋の隅でストレッチをしているシーンだ。この部屋は、大きく分ければ、入り口を入ってすぐ、かつての仲間たちと撮った集合写真や小日向美穂がイメージガールを務めるシンデレラオーディションの募集要項のポスターなどが貼られた掲示板がある空間と、実際にレッスンをおこなう空間のふたつに分けられる。

 そしてこのとき、このアングルから見たときに手前にあたる入り口の空間は、電灯が消されている。視聴者は、薄暗い場所から卯月のレッスンを見ることになる。対して、あとの二回、つまり彼女のデビューが決まってからプロデューサーが訪問するシーンでは、その電灯は煌々と灯されている。このとき、もちろん明るさそれ自体にも、卯月の心情が表されていると思われるのだが、注目したいのは、掲示板に貼られたシンデレラオーディションのチラシの存在だ。というのも、物語が始まってすぐ、卯月はまさしく、このシンデレラオーディションに惜しくも落選したことが語られるのである。だから、このとき、このポスターに光は当たっていない。しかし、補欠合格が決まり、プロデューサーが残りのメンバーを探すのを待つ間は、入り口近くの電気も付き、このポスターにも光が当たっている。

 さらに言えば、3列に並んだ蛍光灯のうち、1回目では、向かって一番右の一列だけ電気が付いていないのに対し、以降ではすべての電気が点いている。特に意図はなかった、という監督の話もあるが、結果的にこの一連のシーンでは明るさがおおいに役割を果たしていた、ということができる。

 また、全体を通じて、卯月は明、凛は暗、といった対比が見られる。

 たとえば、卯月がプロデューサーに付き添って、凛のスカウトに向かうシーン。見覚えのある花屋につき、「じゃああなたが!」と声を弾ませる卯月は、太陽の光を浴びて明るい。一方、戸惑いを隠せない凛は、店の屋根に光をさえぎられて、薄暗いなかにいる。

 そして公園で初めて卯月が凛の笑顔を引き出したとき、凛の背後は影、卯月の背後は明るい青空である。その後、凛がアイドルになる気がないことを知り、お互いに気まずいのか、木陰のなかにいる。しかし、自分の夢について語る卯月は、おもむろにベンチから立ち上がり、木陰から光の当たる場所へと走り出して、桜の花を拾う。その笑顔を見た凛の瞳は輝きを放ちはじめる。そしてその夜、自室で物思いにふける凛の顔には、窓から入る月光が一直線に差している。こうして卯月の放つ光はやがて、凛へと伝播したのだ。

 

5 視点の移動、少女たちの足

 

  カメラを意識するわけではないが、映像作品を観るときにひとつ、注目すべきなのはその「立ち位置」、あるいは「視点」だ。同じものでも、上からか下からか、どちらから見るかだけでも、そのものの見え方は変わってくる。映像っぽく「アングル」と言い換えてもいいだろう。

 ここで注目したいのは、ときおりワンショットの静止画の連続で現れるようなシーンである。その代表的なものが、『お願い!シンデレラ』が終わってすぐの、本編に入るところだ。

 まずここでは、桜の木と青空と高層ビルとが映される。色合い的にもコントラスト的にも明るいこのショットだが、この風景は明らかに下からの視線で見られたものだ。次に映されるのは道路で、どうもこの道は坂になっているらしく、このショットは、坂の下からの視点で撮られている。そして、「Tokyo Art School」と思しき、卯月が通う養成所の玄関。そこでは色々な制服を着た少女たちが談笑したりして、楽しげな様子が見て取れる。この視点は、この少女たちとほぼ同じ高さである。そして、「調整中」の紙が貼られた時計を見上げ、すぐに卯月のスマートフォンへと視線が下りる。このとき卯月は、ライブで撮らせてもらったアイドルの写真を見つめている。そうして初めて、卯月の横顔が現れ、トレーナーの呼びかけに応じて、床に座る彼女は顔を上げる。ストレッチを開始した卯月、最初に映るのは、彼女の目から見た風景だ。薄暗いレッスン室のなか、前屈運動であろう、自分の足へと精一杯伸ばすその手は、しかしぎりぎりのところで、足まで届かない。

 以上のように、この1分にも満たない短さのなかで目まぐるしく風景が移り変わっていくこの場面。しかし、そのショットは決して不規則ではなく、「上」から「下」、「外」から「内」、さらには「明」から「陰」へと、その視点の方向が移っていることがわかる。

 下から見上げる視点は、手の届かない夢への憧れの情の現れであり、下に向かうにつれて現実に近づく。「シンデレラ」たちはガラスの靴を履いて舞踏会に向かうのだが、卯月の足には普通のシューズ、そして、そこに手は届かない。つまり、彼女の手はまだ夢に届いていないのである。

 このように、視点の移り変わりのなかで、話には現れない、卯月がそれまで進んできた道のりと、その艱難辛苦やもどかしさが、見事に表されているのだ。

 このガラスの靴は、冒頭の四人が出会うシーンでも登場するが、この第一話においても、「足」といったモチーフが頻繁に登場する。さきほどの、卯月のストレッチのシーンでもそうだが、彼女たちが履く靴は、まだまだガラスの靴には程遠い、普通のものである。卯月のデビューが決まったときも、書類を読む彼女の視線の先には、やはり、ただのレッスンシューズがある。足もまた、大きな意味を持つことになるモチーフのひとつだ。

 そして、この少女たちの足と同じ高さの視点を持つのが、犬、特に凛の飼い犬のハナコだ。卯月と凛、ふたりの間で伏せて目を閉じているハナコは、卯月が立ち上がって駆け出すと目を開け、彼女の背中を目で追い始める。さらに凛の手からリードが離れると、ハナコはプロデューサーのもとへと駆け出し、彼の前で伏せて、あたかも懐いているかのような行動を見せる。それまでずっと犬に吠えられてばかりいたプロデューサーに、である。彼は決して、動物に好かれる体質ではないのだろう。しかし、初対面に近いハナコは彼に、驚くほど好意的な態度を示す。ふたりの足を見てきたハナコが、飼い主である凛の本心はどこに向いているのか、それを代弁したとも言えよう。

 

6 まとめ

 

  なんということだろう。結局、扱ったのは本編の全25話のうちの第一話のみとなってしまった。こうなってしまった主な理由は多分ふたつある。

 ひとつは、何度通しで観ても、やはりこの第一話が最も完成度が高い、と思われること。もうひとつは、全25話の考察やら分析をまとめれば、十分一冊の本ができてしまう分量になりそうだったこと。つまりは、自制したのである。そういうことにしておこう。

 しかし、もうちょっと手を加えれば、量だけならば卒業論文にも匹敵しそうな自己満足の論考を自分で読み直してみると、それなりの達成感を感じられた。映像論などの勉強は圧倒的に足りないと自覚しているが、これはこれで、等身大の、つまり門外漢としては一定の映像技術に触れられたのではないか、と自負しているのである。もっとも、その評価はこの論考に付き合ってくださった読者にゆだねられているし、その捉え方に、筆者が口出しする権利はない。

 ここで、冒頭とかなり重なるところもあるが、私の映像作品、ひいてはフィクション作品についての考え方と、極めて個人的な「お願い」を記して、この論考を終わりにしたい。

 

 フィクションでもノンフィクションでも、物語あるいはストーリーを表現する際に用いられる方法はいくつもある。小説やエッセイのように文章で表されることもあれば、漫画のようにコマ割りとイラストで、あるいは絵画や写真のような一枚の画像を、音楽のように音を、さらには演劇のように、その場の舞台での役者の演技を用いて、物語が表現されることもある。

 そのなかでも、あえて映像という表現方法を用いるのであれば、その表現方法に特徴的な強みを活かしていくことは、表現者には求められてもいいはずだ。

 そこで考える。映像を使ったときの強みとは何か。まずは、その直接性が思い浮かぶ。確かに映像は、文字だけで表される小説などと比べて、直接イメージを提示するので、受け手によってイメージの差異が生じず、発信者と受け手の間で確実に共有される。

 しかし、だとすればそれは演劇でもいいはずだ。いや、むしろ直接性、という点においては「いま・ここ」にしかない演劇の方が良いかもしれない。映像作品は決して一連の演技をそのまま流すのではなく、往々にして編集というものがおこなわれているからだ。また、実際には流れていなかったBGMや効果音をつけることなどもできる。それに対して演劇は、特にその場において鑑賞するならば、そのとき現実に演じている役者の姿を見て、声を聴き、実際にスピーカーから流される音楽が耳に入ってくる。まさに、役者と観客のあいだで、時と場を共有しているのである。スクリーンを通して、あくまで「過去」の演技を見ることしかできない映像作品と比べると、「現在」の演技を見せる演劇に分があるのは確かであろう。

 私が思うに、映像作品の強みとは、編集やカメラワークによって、「言葉」を使わない「声」を引き出せることにある。ある登場人物の感情を細やかに表そうと思ったら、小説などのように言葉を尽くすことの方がよいかもしれない。しかし映像作品では、たとえば役者が瞳を潤ませてそっとうつむいたならば、それは悲しみを表すことになる。あるいは、そういった表情もいらない場合もある。寂しげなシーンで雨が降り始め、傘もささない登場人物の足元を写し、髪から滴り落ちる雨粒を撮ったならば、特別な演技を使わずして、悲しみや涙といったものを表すことができる。あるいは、幸せだったころの過去のシーンや、雨雲が立ち込める薄暗い空を、間に挟んでもいいだろう。これもまた、登場人物の悲しみを強調することにつながる。そしてこれが、「深み」や「余韻」といったものになっていくのだ。

 観客の目の位置が決まっている演劇においては、この方法で「深み」を出すことは難しそうだ。これはカメラの位置によって視聴者の目の位置を自在に操ることができる映像作品だからこそ、用いることができる方法なのである。故に、映像作品でナレーションによって心の声をあまりに入れすぎる作品などは、映像作品の強みを自ら放棄している、とも言えないだろうか。そもそも、心の声、心内文というものは、小説の専売特許ではないだろうか。

 今回取り上げた『デレマス』、この作品は、登場人物に心の声を語らせていない。無口で鉄仮面のプロデューサーがなにを考えているのかはまったくわからないし、卯月も凛も、「楽しみだ」とか「迷惑だ」とかいったような感情を直接的に言葉で言う場面はほとんどない。しかし、その表情や息遣い、あるいは合間に挟まれる風景や小道具、そして視点やコントラストが、登場人物の心をしっかりと物語っているのだ。

 近年、ライトノベルからのアニメ化、漫画からの実写化やアニメ化など、メディアミックスが多くなっている。商業的な面で、この手法が極めて有効なものであることは、否定できないし、否定する必要もない。メディアミックス自体に罪はないのだから。

 しかし、ただ、この作品は人気もあるし設定も受けそうだから、ほかの表現媒体でもそれなりにいけるだろう、という安易な発想からきているならば、なかなか成功はしないだろう。事実、一般の視聴者の反応が、あるいは「原作ファン」の反感が、それを物語っている。

 もちろん、この作品の表現方法が絶対の正解、などと言うつもりはない。むしろ、この作品の表現方法はその気になれば門外漢である人間にも、考察めいたものが可能、といった点で、非常に分かりやすいものと言えるかもしれない。この作品を越えるような驚くべき手法を用いた作品はいくつもあるだろうし、これからもどんどん作られていくべきだと思っている。

 しかし、少なくともただストーリーだけではなく、映像作品に特有の表現方法を数多く試みていることは確かだ。ここではかなりべた褒めしているように見えるだろうし、事実かなり感心しているのである。なぜか。最初にも述べたが、それは私がこの作品が好きだからだ。公平性を思いっきり欠いた代物に仕上がったことは、再読した自分が一番よくわかっている。ともかく、映像作品に関して本来ならば、これくらいの手法はどの作品でも使われていてしかるべきものなのかもしれない。

 これからも、メディアミックスは頻繁に行われるだろう。だとするならば、ただ原作のストーリーをなぞるだけで、あとは最先端のCG技術や豪華俳優陣といった、枝葉の部分だけを売りにするようなことはせず、せめてその表現媒体に合った表現方法を用いてもらいたいものである。それが、本当の意味でその作品に真摯に向き合うことと言えるのではないだろうか。

 最初、この論考には作品への愛があると言った。

 映像化にしても、作品への、そしてその表現媒体への愛は、やはり必要だと思うし、思いたいのだ。

 

(文責 宵野)

『デレマス』独断と偏見に基づいた映像論的なもの 中編

2 彼女たちが中央に立つとき

 

  注意してみれば意外なほど明確でありながら、しかし意識していないとそうそう気づけそうもないのであるが、第一話において、人物が画面の中央に立つ場面は、実はそれほど多くない。

 例外的に、シンデレラガールズのメンバーが『お願い!シンデレラ』を歌うライブシーンでは、高垣楓をはじめとする、すでにアイドルとして活躍しているメンバーが中央に立つことが多いが、ほかのシーンでは、ふたり以上の人物が登場する場面はまだしも、画面にひとりしか登場しないシーンにおいても、その人物が画面の中央からずれた場所に置かれることが少なくない。

 たとえば、デビューが決まった卯月が凛の実家でアネモネの花を購入した後、花を選んでくれた凛を振り返って、「私、がんばります!」と、彼女のチャームポイントである笑顔を見せるシーン。このシーンにおいても、卯月は画面の左側に立っている。

 付け加えるなら、このとき画面の右上には釣り下げられたライトがあるのだが、それが照らす場所に、卯月はいない。デビューが決まり、笑顔、そして希望で満ちているように思われる卯月であるが、まだ彼女はスポットライトに照らされていないのである。このあと、プロデューサーは補充メンバーの三人を集めるのに苦労し、卯月はレッスンを命じられ続ける。デビューが決まったからといって、すぐに舞台に上がれるわけではない。実際のアイドルを考えれば確かにそうなのであるが、それはともかく、そこからの卯月の道のりは、決して順風満帆なものとは言えない。

 また、この中央にひとが立たないコマ割りは、凛において特徴的だ。凛が中央に立つのは、交番で事情を聞かれるシーン、通学路でプロデューサーから名刺を差し出されるシーン、公園で卯月の笑顔に魅せられるシーン、アイドルになることを決意するシーンくらいで、いま挙げたなかでも最後のふたつを除き、正面を向いて画面に中央に立つシーンはほとんどない。その他のシーンでは、画面内に凛ひとりしかいなくても、左右のどちらかの端に寄っている。中央に配置されることがまだ比較的多い卯月と比べると、その差は歴然だ。

 いずれにしても、その登場人物が画面の中央に立つのは、ストーリーのなかでポイントとなるシーンに多い。ひとが画面の中央に配置されるシーンを並べてみると、

 

憧れのアイドルたち→卯月の登場→プロデューサーの登場→卯月、デビュー決定→凛の登場→凛とプロデューサーの接近→凛のスカウト開始→頑張る卯月→卯月の笑顔、魅せられる凛→凛、アイドルになる決意→未央の登場。

 

このようになる。これだけでこの第一話のあらすじにもなりそうだ。このように、ターニングポイントとなるところで、「中央」というものが効果的に使われている。

 ここで最も注目したいのが、卯月と凛の公園での会話だ。持ち前の明るさで凛の笑顔を引き出した卯月だったが、まだアイドルになる気はない凛との間に齟齬があり、お互いに気まずい空気になる。ベンチでもやや離れて座るふたりの間には、ベンチの手かけと卯月の通学鞄があり、そして斜めに視点を変えると、背景のポールと思しきものが、ふたりの間にそびえ立つ。ひとりずつ映していくシーン*1でも、卯月は右側、凛は左側、と、やはり中央にはこない。*2

 そんなふたりであったが、卯月は、自分のアイドルへの積年の想いを語り始める。そして卯月は立ち上がり、地面に落ちた一輪の桜の花を拾って、凛に最高の笑顔を向ける。このとき、卯月の顔はアップで、中央にある。その卯月の笑顔に魅せられ瞳を輝かせる凛の表情もまた正面を向き、アップで中央。それまでそれぞれ左右に寄っていたふたりが、卯月の笑顔をきっかけにふたりとも中央に寄る。中央とは、スポットライトが当たる場所、と言い換えてもいいだろう。

 それまで中央を避け続けた彼女が「光」の当たる中央に立ったとき、凛の気持ちは決まっていたのである。

 

 3 少女と花

 

 第一話において、時計と同じくらいの頻度で登場したのが、花である。

 季節が春であることから、特に桜が多く登場した。始まりを象徴する花としてはおあつらえ向きであり、この演出そのものは、わりと使い古されたものといえる。

 本当に注目に値するのは、出てくるすべての木が桜の花を咲かせているわけではないということだ。花びらを散らせるほど満開を迎えている桜があたりいっぱいにあるにも関わらず、青々と緑の葉をつけている木も少なくない。

 もちろん、それは桜の木ではなくてべつの植物である、事実、すべての公園の木や街路樹はすべて桜であるわけではない、という指摘は可能だろう。しかしながら、だとしてもこれがリアリティを生み出すために有効であるのかは、疑問が残る。たしかに『デレマス』は、あくまで現実の世界を下敷きに舞台を作り上げている。とはいえ、フィクションであることには変わりない。

 上で、この桜の存在をおあつらえ向きといったが、フィクションには「お約束」というものが存在する。意識、無意識に関わらず、我々は綿々と受け継がれてきた「お約束」を念頭におきながら物語に接している。つまり、フィクションに独特のリアリティというものがあり、現実に似せれば似せるほど、むしろフィクションとしては逆に不自然になる、ということだって十分にあり得る。

 たとえば、「近接の原理」。フィクションでは偶然すれ違った男女(もちろん男同士、女同士でも構わない)は、往々にして、なんらかの関係を持つようになる。たとえば、ボーイミーツガールの物語は、その最たるものと言えよう。

 しかし現実では、たとえば外出先で私がある美しい女性の手助けをしたところで、その後親密な関係になるケースなど、稀としか言いようがない。

 つまり「近接の原理」は、現実世界においてはなかなか当てはまらない。だからといって、フィクションのなかで、すれ違った女性の容姿やらなにやらをそれなりの分量をもって描写しながらその後一切の関わりを持たないとしたら、それはフィクションとして不自然なのである。おばあさんが、どんぶらこ、どんぶらこ、と流れてくる桃を、うわあ、大きな桃だあ、とか言ってスルーしてしまったら、物語は始まらないのである。読者はきっと、騙されたような気分になる。

 たしかに、あえてそうすることで現実の世界の無常観を表現したフィクション作品もあるだろう。しかし、それだって、フィクションに固有である現実を前提として、それを皮肉的に描くことで初めて成立するもので、この原則がなければその特殊性、批評性といったものは生まれないのである。

 話を桜に戻す。桜の花を咲かせている木と、青々とした木が混在していることを説明したが、特にその差が顕著なのが、公園のシーンだ。ベンチに並んで座る卯月と凛だが、凛を映すアングルでは背景が青々としているのに対し、卯月を映すアングルからは、色鮮やかな桜の花が咲き誇っている。やりたいことが見つけられず、どこか無気力に学生生活を送っている凛と、長年の目標であったアイドルになることができ、これからやりたいことがどんどんあふれてくる卯月、ふたりの心を対比しているかのようである。

 もっとも、卯月を映すシーンでも、背景が緑であることもある。

 ひとつは、プロデューサーが凛をスカウトしたときの台詞が自分のときと同じ、しかもそれが、自分が唯一自信を持っている強みの「笑顔」であったことを知ったシーン。一瞬ではあるが、卯月は自分の選考理由に不安を覚える。その不安が背景にも表れていると言えよう。

 もうひとつは、凛に「なんでアイドルになりたいの?」と訊かれたシーンだ。

 この質問に対し、卯月は自分なりのアイドルという仕事に対する明確なイメージを提示することができない。卯月の夢は、ただ「アイドルになりたい」というだけで、その実、具体性というものが欠けている。自分の夢にまっすぐ突き進んでいるように思える卯月のなかにも、陰りというものがある。卯月、つまり四月の名を持つ夢見る少女にとって、桜の時期はホームグラウンドともいえる。しかし、その花が散って葉桜、そして枯れ木となったとき、彼女の拠り所はどこにあるのか。

 桜のほかに、アネモネの花も、重要なシーンでしばしば登場する。「期待・希望」の花言葉を持つアネモネを、店番をしていた凛が卯月に勧め、それを買った卯月は、その花束を右胸に抱えて、凛にお礼と共に、「がんばります!」の言葉と笑顔を投げかける。この、卯月が自分の右胸に花を当てて満面の笑顔を向ける、という構図は、公園で凛の心をつかんだ笑顔のときと同様だ。そのシーンで卯月は地面に落ちた桜の花を拾い、右胸に優しく抱いて凛に笑顔を向ける。

 プロデューサーのしつこい勧誘を受け、なし崩し的に入った喫茶店と思しき店の壁には、三輪のアネモネの花が前を向いている絵が飾られている。卯月に授けたアネモネが、図らずも自分の許に戻ってきたかたちだ。面倒だ、という感情を露骨に顔に出す凛であるが、どこかで「期待・希望」を求めているところがあり、彼女のそんな気持ちが、彼女のアネモネを再び近づけたのである。このとき、彼女はプロデューサーに、「今、あなたは楽しいですか?」と言葉をかけられ、はじめて心が揺さぶられる。

 そして、公園で卯月と出会った日の夜、自室の勉強机にはガラスのコップに飾られたアネモネの一輪挿しが置かれ、窓から入る夜の光がそれを照らし、ベッドに横になる凛の顔に注がれる。最後、アイドルになる決心をして卯月たちの前に現れる場所も、アネモネの絵が飾られているあの喫茶店なのである。凛から卯月に渡ったアネモネ――期待・希望――は、プロデューサーとの出会い、そして卯月の笑顔を通じて凛のもとに帰ってきて、最後には三人のものとなるのである。

 おまけにはなるが、では凛と桜との間に関係はないのか、という問題について考えてみたとき、ひとつの答えがあるので、それを提示する。それは、凛とプロデューサーのファーストコンタクトの後、交番で事情を聞かれる場面だ。

 凛の後ろに貼られているポスターに注目する。二枚あるうちの上のポスターは、全体に桜の花のイラストが散りばめられており、凛の顔の横で花を咲かせている。また、このポスターは765プロのアイドル・四条貴音がイメージガールを務めているものだ。「桜の花」と「アイドル」、そして「渋谷凛」とが接近しているのだ。フィクションに固有の現実の一例として「近接の原理」を説明した。気にしなければただの背景に過ぎないが、注意してみると、これはなかなかにあざとい演出ともいえよう。

 さらに、下のポスター、内容はわからないが、「夢」という文字が大きく目立っている。この「夢」とは、この時点で卯月が持っていて、凛が持っていないものだ。しかしながら、この両者の接近により、凛が「夢」を見つけることがここで予測されているのである。

 ついでに言えば、プロデューサーの背中には「指名手配」と「注意!」の文字が目立つ。そののち、再び警察のお世話になりかけた展開を思えば、これもまた示唆的である。

 

 

(後編に続く)

*1:(2017年10月17日追記)こういった、向い合っている状況においてひとりずつを映していく映像手法のことを「切り返し」あるいは「リヴァース・ショット」などと言うらしい。代表例としては小津安二郎だそうだ。興味はあったがまだ観たことのなかった監督である。是非観てみよう。(佐々木敦『シチュエーションズ』を読んでいて遭遇しました。)

*2:自分が最近観たなかでは、『響け! ユーフォニアム2』において、久美子と秀一とのふたりきりの会話シーンで同様の演出がおこなわれていて、ちょっと感動した。

『デレマス』独断と偏見に基づいた映像論的なもの 前編

 

アイドルマスター シンデレラガールズ

 いちファンによる独断と偏見に基づいた映像論的なもの

 

 これは、アニメーションはおろか、映画における表現方法の歴史もろくに学んでいない、正真正銘の門外漢による考察である。

 世の中にはいま、論じやすいアニメ作品などは、それはもういくつもある。そういったものを扱ってみようと思ってもみたのだが、なんだか興が乗らない。そこで、やはりまずは好きなものを論じようと思った。『アイドルマスター シンデレラガールズ』(以下『デレマス』)を、映像論にもサブカルチャー論にも少し疎い私が、とにかく好きなだけ味わい尽くしてやるのである。

 それだけの愛は持っている。

 

0 映像と小説、『デレマス』の表現方法

 

 アニメーションは、当然ながら映像作品である。では、そもそも映像作品の強みとは、同時に弱点とはどこにあるのだろうか。私の関心の中心である小説の表現方法を念頭におきながら、まずはそこから簡単に考えてみたい。

 さっそくであるが、映像の強み、それは全体を一度で表すことができることであろう。

 簡単に景色一枚をとっても、小説であったら「季節は春、抜けるような真っ青な空には雲ひとつなく、桜の花びらが風に舞い――」といったように、ひとつひとつをあげて順番に描写していかなければならない。しかも丁寧に描写しようとすればするほど記述は長くなり、全体性からはほど遠くなっていくという矛盾を抱えているのである。

 対して映像は、その景色を提示するだけで、景色全体を視聴者に見せることが可能である。しかも、編集という技術を使って、連続する時間のなかでそれらを任意のタイミング、順番で簡単に示すこともできるのだ。これは、ほかの表現方法と比して、圧倒的な強みである。小説を書いているとき、映像作品のこういった特性が羨ましくて仕方がないときがある。と同時に、この特性を活かしていない、あるいは活かす気もない映像作品を観てしまったときなどは、もやもやした気持ちをおぼえることもある。

 では弱点は。というよりも映像の苦手分野といったほうが適切であろうか。それは、間違いなく、心理描写である。

 世の中にはあまたのフィクション作品が存在する。その大半の作品が人間を描いたものであるから、そこには人間の心理というものが否応なく存在し、それを描くことこそがフィクション作品の目的のひとつであるともいえるのだが、当然、その心理なるものは目に見えない。だからこそ好き勝手になんとでもできる万能の素材だ、ともいえるのかもしれないが、しかし映像は、その目に見えないものを描きにくい。いや、視覚第一である映像では本質的には不可能、といってもいいだろう。

 これはむしろ、小説の得意分野である。もともと、文字によって世界を構築する表現方法である小説は、目に見えないものの概念を作り上げることが容易である。(泉鏡花が描く幽霊など。)聞いた話であるが、初心者が小説を書こうとするとき、その多くが一人称視点をとるらしい。そしてその一人称が、地の文で自分の心のなかの言葉をよくしゃべる。ひとの心は目に見えないものだから、どうとでもいえる。ゆえに書きやすそうに思える。その気持ちは非常によく理解できる。私も最初は一人称で書いた。特になにも考えず、ただ書きやすそう、という理由で。

 話を映像に戻す。いつからかはわからないが、映像作品もその弱点を補おうとしてなのだろうか、と感じるようになった。とりわけ、「独り言」や「ナレーション」という形で、登場人物に心の声をしゃべらせる、といったものをよく見かける。あまり映像作品を観ない私ですらそう感じるのだから、実際はもう大半がそうであるのかもしれないし、実はそうでもないのかもしれない。

 ともかく、この現象には、メディアミックスによるところもあるかもしれない。つまり、もともと心内語が当たり前に書かれている小説や漫画を映像化するにあたり、その心内語を文字通りに処理しようとするなら、どこかで登場人物自身の口から語らせるしかないのである。

 しかし、このような「声」に頼る方法でこの欠点を補うのは、はっきり言わせてもらえば、映像が小説的な表現に隷属することと同義である。私は小説が好きであるが、映像作品が小説のようになってほしいとは思わないし、第一、その必要性も皆無だ。それならば小説であればいいのであり、映像である必然性はない。

 当然、作品そのものが表現媒体に先立つ、という考え方にも理はある。たとえば、喜劇と悲劇では、それに適した表現方法は変わってくる。だから、ここで私が念頭に置いているのはやはり、メディアミックスであろう。

 作品そのもの自体は同じで、表現媒体だけが変わってくる。最近のこの国の出版状況をみていると、ますますメディアミックスは力を持ってくると思われる。それ自体は良いことであろう。しかし、メディアミックスの仕方がいささか乱暴なものであるがため、表現媒体の変化により、先立つはずの作品そのものが変質させられている例が少なくない、と個人的には思われる。あるいは、あまりに原作に忠実であるがゆえ、原作の特色がどぎつく現れて欠点となりかねないものもある。*1*2

 たとえば、たとえ実写映画化が不評だったとして、あとからでも原作(作品そのもの)に目を通してみて改めて判断する受け手ばかりなら、それでもいいのかもしれない。しかし、実際にはそうではなく、メディアミックスに触れてから原作を手に取るひとは、そのメディアミックスが気に入ったひとである。しかも、その原作を手に取ったひとの少なからずが、なんか映画(ドラマ)と違う、と違和感をおぼえ、シリーズものならやがて、あのときの盛り上がりはなんだったのか、とばかりにその売り上げは急落する。*3*4

 ともかく、この状況を見ていると、もはや作品そのものにも大きな影響を及ぼしてくる表現媒体の力を無視できない。

 だからこそ、作品そのものを無意味に損なうことがないよう、メディアミックスに臨む者は、その表現媒体の特徴はある程度把握しておく必要があると思う。そうすれば、たとえば、小説(漫画)の方法を用いなくとも、映像は映像の特質も生かしながら映像の欠点を補うことで、作品そのものの価値を極力伝えることができるのではないか、といいたい。

 ある登場人物が悲しみに暮れているとする。彼/彼女に「悲しい」と言わせる必要はない。たとえば、そのひとが俯くシーンを入れればいい。くわえて、雨を降らせるのもいいだろう。バックに短調のBGMを流すのもよい。それだけで、その登場人物の感情は伝わってくる。言葉は一切使わない、これは小説ではできないことである。禍を転じて福と為す、とは言いすぎかもしれないが、映像は、目に見えないものは写せないという弱点をうまく活かせば、その弱点がゆえに、むしろ効果的に、目に見えないものを観る者の心に訴えかけることができるのである。(偶然か、この文を書いた翌日、『最新 文学批評用語辞典』(研究社)を読んでいると、「サブ・テクスト」なる項目に遭遇した。曰く、「とくに劇において、人物の行動や言動の背後にありながら、明確に言及されることも説明されることもない意味や事情。観客は間接的言及、沈黙、ニュアンスなどから舞台上の人物の意図を読みとることになる。」。*5まさしく、である。)

 私が、そのひとつの到達点を、北野武監督『その夏、いちばん静かな海』に見たことはさておき、本題に戻る。『デレマス』の表現方法は、そういった映像の特質をかなり用いたものになっている。

 かなりの評判を呼んだ第一話においてそれは顕著だ。第一話では、まず先代のシンデレラガールズのライブから始まるのであるが、そこで、ライブの前口上と思しき先代たちのナレーション以外、主要人物の三人、島村卯月渋谷凛、プロデューサーの心内語となるナレーションは一切ない。独り言も、卯月の花屋でのシーンを例外として、ほとんどない。寡黙なプロデューサーの人物像のせいもあるだろうが、むしろ無言のシーンが目立つくらいである。

 では、いかにして登場人物の心のなかを描いているか。それは、たとえば、風景のショット、カット割り、カメラワーク、背景、表情、間、コントラスト、などなど、映像が持つ要素をこれでもかと盛り込んだ表現方法によって、雄弁は銀沈黙は金を図らずも体現するかのごとく、少ないセリフで、多分に登場人物の心のなかを鮮やかに描き出しているのである。少なくとも私には、近頃の「おしゃべり」なドラマやアニメよりずっと、三人の心情が、Pのつかみどころのなさと共に、甚く伝わってきた。

 とはいうものの、一度目の視聴では、静かではありながらとても豊かな作品だ、近頃なかった魅力に満ち満ちているぞ、くらいの感想しか抱けなかった。しかし、二度、三度と視聴を重ねるにつれ、映像の可能性が、この三十分の作品からひしひしと伝わってくるのがわかった。そして、そういったことを念頭においてさらに数回視聴した。再生と停止、巻き戻しを繰り返し、気づいたことがあればメモを取る。そんな鑑賞の仕方が正しいのかどうかは自信をもって断言することができないが、気がつけばキャンパスノート半分がメモで埋まっていた。以下、いろいろ付け足しながら、その走り書きに近いメモを文章化することで、いささか断章的ではあるが、私の『デレマス』考察としていきたい。

 

1 時計というモチーフ

 

 『デレマス』には、全体を通じて時計が重要なアイテムとして登場する。

 これは、本家『シンデレラ』の、「十二時になると魔法が解けてしまう」、という重要なストーリーを踏襲しているのだろう。この第一話だけでも、冒頭が時計の針がカチカチと進む音から始まり、本田未央と思われる少女がライブ会場に駆け込むシーン、シンデレラガールズのメンバーが『お願い!シンデレラ』を歌う場面におけるバックの映像、オープニングのアバンなど、ありとあらゆる場面で時計が登場している。

 そこで、この第一話で登場した時計に焦点を当てて、その時刻が示している意味を考えていきたい。

 まずは冒頭。第一話はアンティーク調の時計の針が、12に向かうところから始まる。そして『お願い!シンデレラ』のライブシーン(第一話ではこれがオープニング代わりになっている)ではいくつもの時計が出てくるのだが、そのほとんどが「12時前」である。時計の針がぐるぐる回る場面もあるのだが、その時計も、その針が「12時」を示す直前で画面が切り替わってしまう。つまり、絶対に「12時」にはならない。この物語において、「12時」というものの到来がどれだけ重要であるのかを示していると言えよう。

 しかしながら、このオープニングのシーンでは、ひとつ気になる時計がある。それは、本田未央がライブの会場に駆け込んでいくシーンに見られる時計だ。背景に小さくあるその時計の針は、4時前。いままで注目してきた12時からは、ほど遠い。このあと、島村卯月渋谷凛本田未央、のちにNew Generations(以下NG)を結成する3人とプロデューサー、という物語の中心を担っていく4人が偶然にも出会うのだが、この時点ではまだ物語は始まったばかり、ということであるのだろうか。

 さてオープニングが終わって、物語は本筋に入り、卯月の養成所へと移る。卯月がひとりレッスンを受けるこの部屋の時計は、最初「調整中」の紙が貼られていて、その動きは止まっている。針が指す時刻は、11時50分37秒といったところ。ここでも、「12時前」という時刻が出てくる。「シンデレラオーディション、あと一歩だったじゃない」というトレーナーの話なども踏まえると、卯月は夢のアイドルまであと一歩というところで足踏みしていることが表されている。

 そこで登場するのがプロデューサーだ。一度受付に案内されたプロデューサーが、ひとりでストレッチをする卯月の前に再び現れ、「島村、卯月さんですね」と声をかけて名刺を差し出す。このとき、卯月とプロデューサーは本当の意味で出会うことになるのだが、そのとき、「調整中」の紙がはがれて落ちる。アイドルとしての卯月の時間が動き出すと共に、『デレマス』という作品全体の物語が動き出したことも、ここでは表されている。

 こうしてシンデレラプロジェクト(以下CP)でのデビューが決まった卯月は、自分へのご褒美として花を買うことにする。そのとき立ち寄ったのが、のちに仲間となる渋谷凛の実家である花屋だ。

 母に代わってちょうど店番をしていた凛が、卯月にアネモネの花を勧めたあたりで画面に映る時計は、6時過ぎを指している。12時からは真反対ともいえる時刻だ。この時点で、凛のなかの時間はまだまだ進んでいない。事実、卯月が店に入る直前、視聴者は頬杖をついて気だるげな凛の様子をすでに見ている。

 この第一話においての中心は、打ち込めるものがなく生活を楽しめていない凛が、卯月の笑顔に魅せられてアイドルという未知の世界に飛び込むまでの過程である。時計も、このメインストーリーと並行するように、その針を進めているのだ。このあと、それまで画面には表れていなかった凛の顔が、初めて視聴者に公開される。卯月の背中を見送るその顔は、感情に乏しく、どこか無気力な印象すら受ける。その直後、凛の母親の用事が済み、凛は店番を交代することになる。

 次に時計が現れるのは、おあつらえ向きと言えよう、渋谷駅前、ハチ公前広場で、勘違いから警察官とのトラブルに巻き込まれていた凛を助けたプロデューサーが、その後、凛をスカウトする場面である。このとき凛は、親切にしてくれた男がスカウト目当てで接近してきたものだと思い込んで失望し、どこか当てつけのようにアイドルという存在に強い拒絶を示すのだが、このとき映る時計は、4時過ぎの時刻を示している。

 卯月と出会ったシーンから、さらに12時から遠ざかってしまっている。状況が後退した、ことを表しているのと同時に、これは冒頭、未央がライブ会場に駆け込む際に映った時計の時刻からは少しだけ進んでいるともいえる。このとき未央はまだオーディションを受けてすらおらず、スカウトを受けた凛よりもさらに前の状態にある、といえなくもない。

 そんな凛のなかの時間だが、卯月の笑顔に魅せられ、プロデューサーの言葉に心を揺さぶられた日の夜、事態は急変する。自室のベッドに横になってアネモネの一輪挿しを眺めながら物思いにふけっているとき、彼女の部屋の時計は11時34分を指している。一気に12時に近づいたのもさることながら、卯月の養成所の時計からも進んでいる。このとき、凛はひとこともしゃべらない。しかし、ここまで見てきた者はその時計の針から、凛の意思がアイドルへと近づいたことを、そして卯月の時間も進んだことを知るのである。

 そして、凛は卯月とプロデューサーが待つ喫茶店へと現れ、アイドルになる意思を表明する。「あんたが私のプロデューサー?」という原作ゲームのセリフにプロデューサーが頷くと、時計の針がひとつ、音を立てて進む。アニメコンプリートブックにおけるインタビューのなかで、高雄監督は、「一話につき一回だけ、時計の針を動かす」という制約を課していたことを明らかにしている。冒頭のシーンを除けば、これがその一回だ。このとき、時計は11時35分に進んだように見える。これは、その前のシーンで凛の部屋の時計が指していた11時34分からちょうど1分、進んだ時刻である。この瞬間から、『デレマス』という物語は11時34分から、明らかに重大な意味を持つ12時、という時刻に向かって進んでいく、ということが暗示されていると言えよう。

 最後、3人目のメンバーの再選考オーディションを映す場面、画面右上の端に小さく時計がかかっているのが見える。

 その時刻は、11時35分。

 その直前、ひとつ進んだ時計の時刻と一致する。これは単なる偶然ではない。そしてこの再選考オーディションでは最後のメンバー、本田未央が登場する。

 3人の時間は軌をひとつにして、『デレマス』という物語の時間もまた進んでいくのである。

  

 (中編につづく)

*1:コメディ系の漫画を実写化する際、すべての動き・台詞を再現すると、うるさくないだろうか

*2:さらにいえば、小説・漫画の実写化はともかく、アニメーション映画の、間を置かぬ実写映画化は、雇用創出以外にいったいなんの意味があるのだろうか、正直疑問である。

*3:しかし、これは仕方ないことなのかもしれない。流れて行くから「流行」なのだから。ブームは一時的だからブームたり得る。もはや、「いま『ワンピース』という漫画が流行している」とは、仲間内ならともかく、社会全体をみたときにはいわないのである。

*4:さらに加えると、これは実体験であるが、『ホタルノヒカリ』という漫画がある。これは2007年、綾瀬はるか藤木直人が主演する同名ドラマで大ブームとなり、ある書店では単巻あたり三桁の販売を記録していた。2014年から、原作は『ホタルノヒカリSP』という続編の連載を始める。その単行本、同じ店舗で数冊しか売れなかった。まさか、当時この作品を買っていた読者層が、この店舗の圏内からごっそり移住したわけではあるまい。ブームの恐ろしさを思い知った。

*5:『最新 文学批評用語辞典』(研究社)p111