ソガイ

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『リウーを待ちながら』 コミックレビュー

簡単な紹介

 本作は朱戸アオによる漫画であり、雑誌『イブニング』で2018年2月現在も連載されている。その内容を一言で説明すれば、現代日本のある市でペストが流行していく様子が描かれている。局地的なパンデミック漫画とも言える。

タイトルの由来

 『リウーを待ちながら』というタイトルは一見しただけでは、何を意味しているのか分からない。その由来は以下の様なものと考えられる。

 『ゴドーを待ちながら』というサミュエル・ベケットの戯曲がある。題名にも入っているゴドーをいつまでも待ち続けるという不条理演劇*1である。最後までゴドーはやってこない。また『ペスト』というアルベール・カミュの小説がある。その登場人物の一人にベルナール・リウーという人物がある。医師であるリウーは語り手でもあり、作品内において重要な役割を果たしている。

 また『リウーを待ちながら』の中で、医学者の原神が以下のようなセリフを言う場面がある。昔読んだある本に感動してそこに出てくる医師のようになりたかったが、無理だった。だから、その先生を待っていると*2。その本こそ『ペスト』であった。

 ある意味でネタバラシをしているわけだ。もっとも、あまりにも気づかれなければ元ネタとして意味を成さないわけだから、しょうがないのかもしれない。

 この二作品はどちらもフランス文学であるわけだが、作者の朱戸アオはその方面に詳しいのだろうか。確かに『ペスト』は『リウーを待ちながら』の内容と直接的に関係している。どちらもペスト感染が作品の主題と言っていい。だが、『ゴドーを待ちながら』はそうでもないと思う。元々思い入れがなければ、元ネタに使おうとは思わないだろう。

 ちなみに恥ずかしながら、私は『ペスト』の方しか読んだことがない。なので、この感想も『リウーを待ちながら』と『ペスト』を中心に進めていく。また単行本しか読んでいないので、この感想は現在発行されている2巻までのものとなる。

 カミュ『ペスト』の紹介

 『リウーを待ちながら』の前にカミュ『ペスト』の内容をもう少し、紹介したい。物語の舞台はフランス植民地・アルジェリアの要港オランである。時代は第二次大戦前後ぐらいだろうか。そして、オランで発生したペスト感染の経過が描かれている。

 特徴的なのは、ペスト感染の医学的な解説をするというよりも、人々の精神的な反応を濃密に描いていることである。ペスト感染が酷くなるに連れて、人々の精神がどのように変わっていくかがこの小説の重要な見どころの一つである。もっとも、人間の精神を重点的に描くのは、小説なのだから当たり前かもしれないが。

 例えば、ペスト感染がかなり進んだ段階の市民たちの様子はこのように表現される。

(前略)事実上、保健隊の人々は、もうどんなにしてもこの疲労をこなしきれなくなっていた。医師リウーは、友人たちや自分自身の態度に奇妙な無関心さが増大しつつあるのを看取して、そのことに気がついた。例えば、それまで、ペストに関係のあるあらゆる報道に対して実に活発な関心を示していたこれらの人々が、もうまるで、そんなことを気にかけなくなってしまった*3

 ちなみに保健隊とはペスト感染を防止する役割を果たしている団体のことである。そのような人々でも疲労とあいまって、非常事態が日常化していることがここでは描かれている。平和ボケという言葉があるが、これは非常事態ボケとでも表現できる事態だろう。もっと簡単にいえば、人間は事態に順応するということだ。

  『リウーを待ちながら』とはあまり関係がないが、私が『ペスト』の中で特に好きな場面がある。作中で作家志望の登場人物グランは小説*4を書き、ときたまリウーに見せる。

 しかし、接続詞や形容詞の使い方など文章の細かい点にこだわりすぎて創作は全く進まない。小説の最終盤で、グランは文章の形容詞をすべて削ってしまったと笑みを浮かべながらリウーに話す。推敲の正反対のようなエピソードだ。神は細部に宿ると言うが、細部に拘りすぎると文章は完成しない。

 本題に戻ろう。『リウーを待ちながら』では、所々に『ペスト』の引用がなされる。また『リウーを待ちながら』を読んでいると、『ペスト』の描写が思い出されることがある。おそらく、作者が意図的にやっているのではないか。具体的な箇所は、次の『リウー』を待ちながらの内容紹介で指摘したい。

詳細な内容紹介

 物語の部隊は富士山麓のS県横走市である。同市には自衛隊の駐屯地*5があり、中央アジアキルギスへの災害派遣から帰還した自衛隊員が感染源であった。

 このペスト菌が多剤耐性菌*6であることもあり、感染は凄まじい勢いで拡大していく。そして、周囲への感染拡大を防ぐために横走市は封鎖される。『ペスト』のオランと同じように。封鎖された横走市では物資が不足する。

 ペスト感染自体の被害に加えて横走の人々には、人間の悪意が降りかかる。周辺の住民は横走からの脱走*7を防止しようと自警団を結成する。ちなみに脱走者が描かれるのも『ペスト』と同じである。また感染直前に横走から引っ越してきた家族に、感染を恐れた町内会の人間が更なる引っ越しを迫る。

 母親をペストでなくした女子高校生鮎澤は、市外の高校に通うことができなくなった。それだけではなく、ネット上や同級生からのからかいや批難の対象となった。そんな彼女も怒りをペスト感染源の自衛隊にぶつける。また感染源の隊員は、他の隊員からいじめを受ける。自分以外の人間に怒りをぶつけ、責任を追求してしまうのは仕方のないことかもしれない。ペスト菌に感情はないのだから。

横走と福島

 これらの描写から私は思わず福島での原発事故を想起してしまった。そう考えると、感染を防ぐ防護服も、放射線に対する防護服と似ているようにも思える。ひょっとして作者は意図的にこのような描写をしているのかもしれない。特に横走の人々に対するデマや悪意は原発事故の際のものを参考にしているのではないか。

 例えば、ニコニコ動画風のコメント欄に横走菌大繁殖!! という文字が流れるが場面がある。現実では原発事故の避難者に対して名前に菌を付ける、放射能が伝染るから触るなといういじめがあった。

 一方で放射能が感染するというのは偏見にすぎないが、ペストは確かに感染するわけだ。こちらのほうがある意味では放射線よりも厄介かもしれない。

 もう少し広い観点から考えると、英語でNIMBYと言われる迷惑施設*8が立地し、その施設が災害を招いた点においてやはり横走と福島は共通している。

絶望と希望

 そして2巻の途中で既に人々の間には無力感が漂っている。そのことは『ペスト』から引用された以下の文章に表されている。

「市民たちは事の成り行きに甘んじて歩調を合わせ」

「みずから適応していった」

「彼らはまだ当然のことながら、不幸と苦痛との態度を取っていたが、しかし

*9

 それでも本作は絶望、不幸、怒りだけで出来ているわけではない。例えば医学者原神はそもそもペスト菌キルギスに持ち込んだのは、他国の災害救助部隊かもしれないことを鮎澤に告げる。すると鮎澤はこう尋ねる。

        「じゃあその人達が悪いってこと?」

(筆者注 原神)「人助けに行ったのに?」(中略)

(筆者注 原神)「世界は複雑なんだよ」

*10

 ここで原神は原因の複雑性を鮎澤に気づかせることで、彼女の直情的な怒りを緩和している。

 また治る見込みのない患者への果てしない医療活動に疲れ果てていた、医師玉木は院長の命令に逆らって特別な取り計らいをする。患者の母子二人を同じ病室に入れたのである。しかし、というか予想通り、二人とも死んでしまう。そのことに対する玉木の反応はなんとも描写のしづらいものである。

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 これらの希望はささやかなものである。希望というより絶望への反抗とでも形容したほうがいいかもしれない。

古典への入口となる漫画作品

 今回書評で本作を取り上げたのは、作品自体の魅力もある。だが、それだけでなく古典作品に対しての尊敬が感じられる作品だったからである。また、同時に古典への入口となる漫画作品ではないかと思った。

 『ペスト』は文庫本で450ページほどもある大作である。カミュは大作家であるが、現代日本でどれだけこの作品を読む人がいるのかは怪しいものだ。そもそも海外文学がほとんど読まれないようになってきているようであるし。

 もちろん本作単体でも読み応えがあるが、『ペスト』を読めばより楽しめるのではないだろうか。長さはともかくとして、文章や内容自体はそこまで難解なものではない。フランス語の固有名詞が見慣れないかもしれないが。

 

 なお以下のサイトで本作の第一話が読める。

www.moae.jp

参考文献

『リウーを待ちながら 1巻』(2017) 朱戸アオ 講談社

『リウーを待ちながら 2巻』(2017) 朱戸アオ 講談社

上記はいずれもkindle、電子版である。

『ペスト』(2011) カミュ 宮崎嶺雄 訳  新潮社

ゴドーを待ちながら(ゴドーをまちながら)とは - コトバンク

(最終閲覧2018年2月14日)

震災6年 埋もれていた子どもたちの声 ~“原発避難いじめ”の実態 - NHK クローズアップ現代+

(最終閲覧2018年2月14日)

 また巻数を付しているものは全て『リウーを待ちながら』からの引用である。いちいち題名を付けると膨大になるのでこのような形を取った。

*1:ごく簡単に言えば、不合理な常識に反した演劇のこと。

*2:2巻 62ページ。

*3:『ペスト』 278ページ。

*4:ひょっとしたら詩かもしれない

*5:総火演があるなどの描写から、おそらく横走市のモデルは静岡県御殿場市と思われる。

*6:簡単に言えば薬が効かない。

*7:作中では、横走と掛けてだつばしりと呼ばれる。

*8:必要性は認められるが、立地住民の反対を受けやすい施設。典型的には原発、空港、軍事基地など。

*9:2巻 92ページ。さらにこれは『ペスト』268ページからの引用であると考えられる。ただしいくつか中略がなされている。

*10:2巻 78ページ。

思考の断片 2017年7月~8月 雲葉

 書評 ウティット・ヘーマムーン『旧友の呼び声』(あるいは、一つの到着点)

 旧友から主人公にかかってきた四回の電話を描いている。主人公と旧友は、一〇年以上前に芸術系の学校で親友だったが、それ以来連絡を取っていなかった。

 四回目の電話から描写されているので時系列は逆だ。旧友の用件は学生時代の仲間とアトリエに一緒に住むという、学生時代の約束を実行することだった。しかし子供が生まれる主人公は乗り気ではない。また電話は深夜にかかってくるし、旧友は精神的に不安定で主人公はうんざりしてくる。

  最後に主人公は、旧友からの一回目の電話を心の底から喜んでいたということが明かされる。

 感想 昔入っていた文芸サークルを思い出した。怒った主人公が旧友に十年経ったのに他に友達できなかったのかよ、みたいなことを言ってるのが悲しい。

 本作は『現代タイのポストモダン短編集』(2012)に収録されている。同著は以下のリンクから無料で読むことが出来る。

現代タイのポストモダン短編集|アジアの現代文芸の翻訳出版|翻訳出版|事業紹介 | 公益財団法人大同生命国際文化基金

(7月30日)

 

チャック・パラニュークファイト・クラブ2』

 実はファイトクラブ2が出版されているが、邦訳の見込みが無いのが悲しい。参考に強烈な場面を一枚だけ121ページから引用する。ちなみにThe world is my oyster(世界は思いのまま)の元ネタはシェイクスピア

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 ファイト・クラブの池田真紀子の翻訳が非常にいいので、彼女が訳してくれることを夢想している。 

出典はChuck Palahniuk 『Fight Club 2』(2016,Kindle版) より。

(8月16日)

ミシェル・ウェルベック服従

 ミシェル・ウェルベック服従』の読書会を本日行った。以下、紹介と感想を述べていく。本作の語り手であるフランソワは大学教授を努めている。専門はフランスの作家であるユイスマンスだ。語り手は退廃的、厭世的であり、この点で、ユイスマンスの『さかしま』の主人公と共通点がある。

 またフランソワはかなりの皮肉屋でもある。例えば、彼は以下のように文学研究を評する。(P15)

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 そんな語り手の目を通して、フランスにイスラーム政権が誕生するさまが描かれていく。ここで注目すべきなのは、多少の混乱がありながらもフランス人達がその状況に服従(まさしく題名の通り)していくことである。例えば、語り手を始めとする大学教員達はムスリムへの改宗を迫られる。 

 当然、彼らは戸惑う。だが、高給と複数のムスリムの女性をあてがわれ、次々と改宗を受け入れ始める。語り手の同僚の、恐らく童貞の変人タイプの学者がムスリムの女性と結婚する様子は滑稽である。語り手は思わず、同僚にこう質問したほどだ。
「結婚? 女性とですか?」 (P302)

  その一方では、大学から女性教員が追放されている。これはグロテスクな光景だが、ある意味でユートピアである。変人の学者は、イスラーム政権が誕生しなかったら決して結婚することはなかっただろう。そして、彼いわく、結婚生活もうまく行っていると言う。実に微笑ましい光景ではないか。

 フランスにイスラーム政権が誕生するという筋書きもあって、『服従』は極めて政治的な小説と見なされている。それは正しいが、その面でだけこの作品を捉えるのは片手落ちだろう。ムスリムへの改宗を受け入れた時、語り手は自分の知的生命が終わったと感じる。

 本作を通して、描かれているのは知識や教養の無力さである例えば、フランソワは研究対象であるユイスマンスを真似て、キリスト教に深く帰依しようと試みる。しかし、煙草を吸いたいという極めて肉体的な欲求の前に、その試みはあっけなく失敗する。

 代わりに彼は金銭や性欲、食欲の解消(どちらもムスリムの女性が提供する)を求めてムスリムに改宗することを選んだ。あるいはP324の解説で佐藤優はこう指摘する。自己同一性を保つにあたって、イスラーム教の超越神と比べて知識や教養は脆いと。

出典 『服従』ミシェル・ウェルベック 訳 大塚桃(2017) 河出書房新社

チャールズ・ブコウスキー『死をポケットに入れて』

 『死をポケットに入れて』でブコウスキーが一度も仕事に就いたことがない、売れない詩人にどうやって生活しているのかと尋ねる場面がある。詩人ははぐらかすがブコウスキーは問い詰める。結局、親の不動産収入で暮らしていることが明らかになる。また、他の詩人たちも似たようなものだった。

 他にも働いていると嘘をつく、地主の共産党員の詩人なども出てきて、とてもユーモラスに描かれている。だが、もっと面白いのは彼らを揶揄するブコウスキーもまともに働いている様子はないことだ。もっとも真面目に働けというよりも苦労しろと言いたいのだろうが。

出典 チャールズ・ブコウスキー『死をポケットに入れて』(2016)中川五郎 訳 河出書房新社>

(8月26日)

未来世紀ブラジル』とテロ

 『未来世紀ブラジル』というカルト映画がある。テリー・ギリアムによって、ディストピアがユーモラスに描かれている。私は特に頻発するテロとそれに対する人々の反応の描写が印象に残った。

 テロに対する作中人物たちの反応は総じて鈍感だ。例えば、主人公はレストランで爆弾テロに遭遇する。驚きはするものの、彼はそのまま食事を続ける。まるで、テロなど大したことではないように。

 テロが頻発する現在の状況がこの映画に近づきつつあるという見方はたしかに正しい。西ヨーロッパで起きている数々のテロを全て正確に把握している人間がどれだけいるだろうか?私自身、テロが起きたと聞いてもあまり驚かなくなっている。

 しかし、テロから離れてもう少し広い視野で考えてみよう。つまり、現在の我々が様々な異常なことに慣れきっているのではないかということだ。例えば、交通事故死はどうだろう。一年で四千人余りが死んでいる。仮になんらかの新発明で、年間四千人の死者が出たら大変なニュースになるだろう。

 交通事故と違ってテロの日常化が意識されるのは、現在が過渡期であるからに違いない。もしテロの頻発が五十年続いたらどうだろう。きっとテロが少なかった昔を振り返る老人に、若者はこんな言葉を投げかける。『テロが毎月起きるなんて、当たり前だろ。爺さんボケてるのか』

 そしてここで重要なのは老人=現代の我々にとって、若者の発言は異常に思えるが若者にとっては老人=我々こそが異常に思えるということだ。現代の我々が交通事故が少なかったモータリーゼーション以前の生活に戻ることが考えられないように。

(8月27日)

太陽を盗んだ男と『北朝鮮

 『太陽を盗んだ男』公開1979年当時の核保有国は、米英ソ仏中、インド、南ア連邦、イスラエル。現在では南アフリカが核放棄した一方、パキスタン北朝鮮が加わっている。なので、現在の9番は北朝鮮だということにふと気がついた。

 『太陽を盗んだ男』は理科教師が原爆を製造して政府を脅すという内容の映画。荒唐無稽なあらすじと描写、無意味な生、激しいアクションシーンなどがごった煮になって、強烈な印象を残す。また、作中で主人公は野球の打順とかけて9番目の核保有者であることを宣言する。

(8月29日)

 

 以上の文章は

ソガイ (@oy6528096) | Twitter

に投稿した文章を転載したものである。ただし、誤字訂正や出典の関係で多少手を加えている。

『それからはスープのことばかり考えて暮らした』書評

 吉田篤弘の作品を読むのは、これが2冊目である。『つむじ風食堂の夜』(ちくま文庫)は、たしか2年前くらいに読んだ。現実とファンタジーのあいだのような雰囲気と、ほんわりとこころのあたたまる話が、非常に魅力的な作品だった。その後も、気になっていたのだが、他の所用に忙殺されていて、なかなか読む機会に恵まれないまま、ここまできてしまった。

 今回、この作品を手に取るきっかけとなったのは、『私的読食録』(プレジデント社)を読んだことだ。この本は、堀江敏幸角田光代が交互で一作品ずつ、食べ物をテーマとして小説やエッセイを紹介する、といった内容の連載を書籍化したものだ。合わせて100の作品が紹介されているのだが、そのひとつに、堀江敏幸がこの、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(中公文庫)を紹介した文章があった。

 なつかしい名前を見たぞ。そんなことを思っていた私は、こじらせにこじらせたインフルエンザで弱ったからだのリハビリがてら、一駅先の書店まで徒歩で出かけ、本棚を物色していたとき、この本を発見した。これもなにかの縁だ、ということで即決で購入、翌日から読み始めた。

 

 この作品は、連作短編の構成となっている。路面電車が走る町に引っ越してきた、失業中の主人公、大里(通称オーリィ)には、ひとつの趣味があった。それは、映画館通い。しかし、それは普通の映画好きとは異なる。彼は、一昔前のマイナー映画のいくつかを、上映される度に映画館に足を運んでは、繰り返し繰り返し観ている。彼の観る映画には、ひとつの共通点がある。それは、松原あおい、という女優が出ている作品である、ということ。

 彼女は、けっして大女優ではない。大里が知る限り、ひとつだけ主演作があるほかは、準主演作すらなく、クレジットはされているものの、そのほとんどが、登場時間わずかというちょい役である。大里は、そんな彼女に恋している。その大里を中心として、この物語には、そのほかに、アパートの大家・マダム(と大里がひそかに呼んでいる)や、二度の失業ののち、サンドイッチ店「トロワ」を経営している安藤、その息子のリツ、そして、毎回映画館で顔を見る緑帽子のおばあさんなど、さまざまひとびとが登場する。『それからは~』は、そういったひとびとと大里との関わり合いを描いた、ささやかな、優しい物語である。

 のちに「トロワ」で働くことになる大里が、味噌汁の腕を評価され、お店の新メニューとしてスープを作ることを依頼される。試行錯誤を重ねるなかで、いくつかの偶然を経て、映画館でいつも会うおばあさんと接点を得る。このおばあさんの作るスープは、自他ともに認める絶品である。

 彼女のスープには、きまった材料・作り方といったものがない。基本は、冷蔵庫にあるものを適当につっこむ、といったようなものである。特徴としてひとつ言えることは、このスープは、「主役のいないスープ」である、ということだ。飲むひとによってその味は、じゃがいもだったり、えびだったり、桃だったりして、しかも、ひと口めとふた口めでも、もう味が変わっているのだ。だから、このスープには名前がない。これが、題名のなかにある「スープ」のことである。

 このスープを作るコツ、というかレシピは、究極的にはただひとつ、「とにかく、おいしい!」、このひとつを念じること。これは、『それからは~』のささやかに優しい物語のキーアイテムでありながら、ある種の換喩となっているのかもしれない。

 

 私が購入した、中公文庫の帯には、「第8回京都水無月大賞」を受賞したことが紹介されているが、その下には、このようなあおり文がある。「もしかして これは恋愛小説かもしれない。」。これは言い得て妙だ。恋愛小説「かもしれない」、のだ。

 かなり大人びたところのあるリツの関心事のひとつは、恋愛である。そんなリツに、好きなひとはいないの? と訊かれた大里は、だいぶ濁して映画女優であることを伏せつつ、松原あおいの存在を打ち明ける。その話を聞いて、リツは、遠距離恋愛ってやつだね、とませたことを言う。ここでの距離とは、映画館の席とスクリーンのなかの距離であり、大里が映画を観ている「いま」と、映画のなかの松原あおいの時間との距離である。

 事実、大里は映画が好きというよりは、松原あおいが好きで、彼女に会いたいがために、彼女が出演している作品が上映されている、と聞きつければ、その出演時間がどれだけ短かろうと、映画館に出かけている。それは、片想いのようでもある。彼の、松原あおいに対する感情は、行動だけみればストーカーすれすれの執拗さも感じさせるのだが、実際に読んでいると爽やかであって、むしろ愛おしいくらいだ。

 しかし、やはりこの作品を「恋愛小説」と区分することには抵抗をおぼえる。なにがいけないのだろう。ということで、試しに「恋と愛の小説」と分けてみる。だいぶ、しっくりくる。おそらくこれは、大里の松原あおいへの感情が、ほかの人物、マダムや安藤、リツのようなひとびととの関わり合いと比べて、この物語のなかでは極端に大きいもの、というわけではないからかもしれない。

 そして、松原あおいに対する大里の感情は、一般的にイメージされる「恋愛」とするには、いささか純粋で、空想的であることも、要因のひとつだろう。大里は、松原あおいとどうこうしたい、なりたい、というのではない。ただ、恋い焦がれているのだ。彼自身、携帯電話の解約を考えたり、映りの悪い、古いブラウン管テレビを実家から持ってきていたり、インターネットの類いを使っていなかったり、俗世間から離れたような生活を好んでしている。また、この町も、どこか現代から離れた、懐かしさを感じさせる空気がただよっている。

 恋愛、という概念がいつ生まれ、どのように変遷をしているのか、具体的にはわからないし、説明もできない。しかし、「恋愛」と、見た目では「恋」と「愛」が合わさっただけのこの単語は、くっつくことで新たな文脈が付与されて、恋とも愛とも違う、べつのものになっているのかもしれない。思えば、『つむじ風食堂の夜』で描かれる「私」と奈々津さんとの関係も、「恋愛」とは言い難い、繊細で微妙な空気で彩られていた。

 

 つまり、私の考えでは、この作品は「恋愛小説かもしれない」が、「恋愛小説」ではない、ということになろう。

 物語のなかで、大里はあるひとりの女性と出会うことになる。この私の文章でも、察しのいい方ならば気付いたかもしれない。私も、本作を読んでいてかなり早い段階で、そのことには気付いた。オーリィくん、きみは鈍いなあ、と思ったものだ。しかし、それに気付いてしまうことが、この物語の良さをそこなうことはない。この物語は、なぞを解くことを志向しているのではない。気付いたら気付いたで、そのうえで、物語の流れに身をゆだねること。そのような読み方が、よく合っている。

 大きな事件は起きないけれども、不思議とぐいぐい読ませる、というより、いつのまにか読んでいる作品だ。このふたつは矛盾するかもしれないが、忙しい通勤電車のなかか、夜寝る前のお供におすすめしたい。前者ではこころにゆとりを、後者では穏やかで優しい夢を、きっと生んでくれるだろう。

 

(文責 宵野)

 

 

 

コミックレビュー『給食の時間です。』 視点移動によって思い込みが露わになること

簡単な紹介 

 『給食の時間です。』は飯田による給食を題材とした漫画作品である。小学生たちが給食を通じて互いに影響を与え、成長していく様子が描かれている。

 本作はウェブコミック配信サイト『裏サンデー』や漫画アプリ『マンガワン』で掲載されていた。2017年12月には最終第3巻が発売され、完結した。

主要人物紹介

 以下の登場人物たちは小学校5年生である。ただし最終盤に6年生に進級する。

 佐野和彦 主人公と言っていいほど作品の軸をなしている。得意なものが何もないと自覚しており、あまり目立つ生徒ではない。

 岩谷実子 転入生。給食が好きでおかわりもよく食べる。母親は病死しており、父親と一緒に暮らしている。

 石丸あたる 中学受験をするために塾に通っており、勉強ができる。最初は佐野と岩谷の関係性をからかっていたが、すぐに二人と仲良くなる。

 阿久津洋介 小学生離れしているほど気が利く。また顔がよく運動もできるので、男女双方から人気がある。両親が離婚しているため、弟の面倒をよく見ている。

死体を転がせ

 唐突であるが、ミステリーの世界には死体をまず転がせという言葉がある*1。要は衝撃的な場面を見せることで読者を引きつけようというわけだ。ミステリー作品でなくても、この発想自体は様々なジャンルに応用可能だろう。例えばバトル漫画なら、最初から戦闘場面の描写を始めたりなど。

 そしてそのような発想が出てくるのは、まずもって読まれないとどうしようもないからだろう。このことを念頭に置いて、以下読んでもらいたい。

第1話のあらすじ

 本作の1話*2はそのような発想の真逆を行く。これから、その内容を詳しく説明しよう。

 佐野は気がつくと、給食の味を感じられなくなっていた*3。その原因は進級の際に友達と別れ、一人で給食を食べることの寂しさにあった。そんな折に佐野は給食の時間に誤って牛乳瓶を割ってしまう。その上、指を切ったので保健室に行く破目になった。

 岩谷は牛乳を保健室まで待ってきてくれるが、主人公は素直になれず拒絶する。 

 翌日、阿久津から主人公は意外なことを聞く。他の皆が嫌がるなか、岩谷さんが床にこぼれた牛乳を雑巾で拭いてくれたというのだ。

 このことがきっかけで、主人公は岩谷さんに提案する。一緒に給食を食べないかと。転入生の彼女もまたひとりで給食を食べていたのだ。その日に出たきな粉揚げパンから、主人公は久しぶりに感じる。甘い味を。

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1巻 28ページより

死体を転がさない漫画

 以上のあらすじに衝撃的な展開は皆無と言っていいだろう。これは概ね作品全体にも言える。悪く聞こえるかもしれないが、派手ではなく地味である。実際に作者も1巻のあとがきで、「こんな地味な話場違いなんじゃ...」と自分の作品を評している*4。ちなみにこれはマンガワン投稿トーナメントの際の言葉なので、このその特殊性を割り引く必要はあるだろうが。

 本題に戻ろう。前述した死体を転がせという格言を裏がえして言えば、いわばこの作品は死体を転がさない漫画なのである。インパクトで勝負することを意図的に避けているような漫画なのである。

 そのような地味な作品にしか描けないこともあると私は考える。例えば上記の第1話には以下のようなさりげない描写がある。主人公が保健室に行く際に、楽しく給食を食べている同級生たちを見て、疎外感を感じるのだ。

 この辛さは一見大したことがないように思える。例えば、恋人や親友が死ぬことに比べれば地味に思えてしまうだろう。あるいは、そのようなことに比べれば、不幸の度合いが低いとさえ言えてしまうかもしれない。

 しかし、実際に体験している本人にとってはそんな客観的なことは大した問題ではないのだ。むしろこのようなありふれた、あるいは周りから見れば大したことがない辛さによって多くの人々が傷ついているのではないだろうか。言い換えれば、派手ではない不幸とでも言えば良いのだろうか。

 この作品はそんな辛さや不幸と、その解消を丁寧に描いている。そしてそれらの辛さが解消される際に、深く関わってくるのが給食なのである。

 また、以上の点とも関係するが、本作は心理状態の機微を丁寧に描いている。例えば第1話では佐野が友人に岩谷の様子を聞かれる場面がある。ここで佐野は後ろめたさを感じながら、彼女と大して仲が良くない風に振る舞う。これは石丸から、二人の関係性をからかわれていたためであった。

 仮に、衝撃的な展開の中でこんな場面があったらどうだろうか。こんな微妙な描写は消し飛んでしまうだろう。

知らない他人の顔 あるいは思い込み

 この作品は、徐々に佐野を始めとする登場人物たちが、互いを知り友達を増やしていく漫画でもある。つまり最初はあまり互いを知らないというわけだ。例えば前述した一話の佐野と岩谷さんもそうであった。

 とはいえ、登場人部達は同じクラスの同級生であるので、全く見知らぬ他人というわけではない。少しの面識はあるわけだが、それゆえに相手に先入観や思い込みを抱いている場面がこの漫画ではしばしば描かれる。

 例えば9話での石丸と阿久津のエピソードを例に出そう。石丸は学芸会の劇に出たくないために、仮病を使い学校を休む。石丸には優秀で優しい兄がいた。そして、父親が兄を引き合いに出して自分を批判することが心理的なストレスとなっていたのだ。

 そんな折、佐野と阿久津は石丸の家を訪ねる。阿久津は石丸に対して、劇の失敗程度で学芸会を休むのは大げさだと語りかける。ここで石丸は阿久津に大して怒りを露わにしてしまう。なんでも出来る、お前には自分の気持ちはわからないと。自分の兄と阿久津を重ね合わせ、兄と同じような自慢の息子だと考えたのである。

 そんな石丸の内心や家庭の事情を察した阿久津は意外な事実を口にする。実は両親が離婚しているので、父親とは一緒に暮らしていないというのだ。このことを知った石丸は唖然とする。

 阿久津が自慢の息子だという考えは石丸の思い込みに過ぎなかったわけである。ちなみに、この場面ではその思い込みが間違いであったということが明らかになっている。しかし、仮に事実であったとしてもそれは思い込みに過ぎないのではないか。つまり他人の事情を確認することもなく予想するという意味で。事後的に正しかったということがわかったとしても、それは結果論にすぎない。

 そんな思い込みが互いに交流することによって徐々にほぐされていく様子が、この漫画ではしばしば描かれる。相手のことを少しずつ知ることによって、先入観が崩れていくのである。

 そして、先入観が消えるということは他者の言動を評価する文脈が変わるということでもある。他者の言動が違った意味で見えてくるのだ。この漫画においては、否定的だったり、中立的だったりするものから肯定的な意味を持つものへと他者への評価が変化する。例えば、前述した石丸の態度がそうだろう。

 ちなみに、この漫画では概ね根っからの悪人というものが登場しない。その意味で言えば、この漫画の設定は非現実といえるかもしれない。相手を知れば知るほど、嫌になってしまう関係性というものも世の中にはあるだろうから。しかし、漫画の中でぐらいこんな世界があっても良いのではないか。

最終話

 最終話の描かれ方は印象的である。あたかもこの作品のテーマが詰め込まれているかのようである。ただし、給食はあまり出てこないのだが。

 最終話の語り手、あるいは視点は汐田純である。彼は進級の際に、佐野とクラスが別になった友達の一人である。2話で佐野に岩谷のことを聞いた友人の一人でもある。作中で佐野と一緒に登場してはいたものの、それほど目立った存在ではなかった。どちらかと言うと、主役格というより脇役である。また彼を中心にしたエピソードもそれまで一度もない。よって、脇役の中でも影が薄い。

 この点で最終話の語り手として、彼はかなり特殊といえるだろう。普通だったら主役格の佐野や岩谷が語り手になるのではないか。

 しかし、この語り手の選択が良い効果を生み出している。最終話では、汐田の思い込みが解きほぐされていくさまが描かれている。その思い込みの一部は、彼の友人の佐野や、石丸についてのことであった。

 最終話まで読んできた読者にとって、彼の佐野や石丸に対しての思い込みが誤りであるというのはすぐに分かる。つまり、ここでは視点移動による、情報量の差異が描かれているのである。

 ちなみに本作では話数が変わると度々、視点や語り手に相当する登場人物が変わる。だから、あの登場人物はこんなふうに考えていたんだなと、しばしば気付かされる。あたかも色々な登場人物の声が響いているかのようである。ある意味、私達が登場人物達に対する思い込みを修正しているとも言えるかもしれない。

 だが、最終話が特異なのは汐田が、彼独自の情報を読者に提供するだけではないということだ。読者からしてみれば当たり前の情報が、汐田にしてみれば驚きである。このことに読者は強く気付かされるのだ。彼がこれまで脇役であるが故である。

 このような読者との関係性とは別に、汐田からしてみれば時間経過による結果であるとも言える。クラスが別れた結果、彼が知らない佐野の一面が大きくなっていったということなのだろう。

 また、彼の思い込みは単に事実レベルというよりも規範意識あるいは価値判断基準にも関わっているのだ。汐田には同じ学校に通う幼馴染がいたが、現在疎遠になっていた。それは女子と遊ぶことが恥ずかしいという意識が原因であった。

 そのような価値判断レベルの思い込みが見られるのは汐田だけではない。例えば、前述した9話で阿久津は一年からずっと同じクラスだったのに、あまり話す機会がなかった、と石丸に指摘する。これに対する、石丸の心情の吐露はやや大げさに思える。

…そうだよ。

だって、ずっと住んでる世界が違ったろ。

2巻 59ページより。

 

 この場面からは以下のような石丸の思考が読み取れる。住んでいる世界が違うのだから、阿久津に語りかけても意味がないし、語りかけてはいけないのだと。

 しかし、これらの思い込みや規範が大げさに思えるのは、我々読者が大人である*5からかもしれない。全く異なる文化圏や時代の倫理的な規制を理解できなかったりすることがそのいい例だろう。

 そのような規範意識のせいで、生きづらさを抱えている人間は何も子供だけではなく大人にもいるだろう。いや、むしろ長い年月を生きてきた大人の方が強力かもしれない。例えば、偶然プライベートの場で上司に会ったとして、全く対等に接することが出来る部下などほとんどいないのではないか。子供から見れば、会社でもないのに奇妙だろうが。

 もちろん、規範意識がいつも悪い結果ばかりを生むわけではないだろう。しかし、時には人間の生き方の可能性を狭めることがある。あるいは人間の生き方の可能性を狭めるように働いてしまう規範意識も中にはある、と言うべきだろうか。

 本題に戻る。しかし汐田は佐野が岩谷と仲良くしている様子を目撃し、給食を一緒に食べていることを又聞きする。そうすることで別に天罰がくだるわけでも、なにか悪いことが起きるわけでもない事を知る。最後に汐田は幼地味に不器用ながら話しかける。

 また、これまで仲良く出来ると思っていなかった、石丸や阿久津が、自分の友人である佐野と仲がいいことも知る。こうして思い込みが、あるいは規範意識が崩れていくのだ。

最後に

 書評を書くにあたって、作品を読み返したのだがかなりの時間を取られた。初読時に気づいていなかった描写の細かさを多く発見したからである*6。実に丁寧な作品だと感心した。

 マンガワン最終話の作者コメントによれば、作者は新連載を準備していると言う。次回作が出版される日を期待したい。

 

文責 雲葉零

 

参考文献一覧

「コラム>「最初の一行目」で読者を惹きつけるには 」鳥影社ホームページ

https://www.choeisha.com/column/column24.html

(2018年1月26日最終閲覧)

 給食の時間です。(1)2016年 飯田 小学館

 給食の時間です。(2)2017年 飯田 小学館

 給食の時間です。(3)2017年 飯田 小学館

 

書籍からの引用は全て『給食の時間です。』からなので、書名や出版社名等は省略した。私が参照したのは全てKindel版である。

*1:どこで初めて目にしたのかは思い出せない。とりあえず参考としてそのような言葉が使われている出版社のページを貼っておく。

https://www.choeisha.com/column/column24.html

*2:ちなみに本作は「何時間目」という話数表記を取っているが、煩雑なので以下通常の話数表記で表現する。

*3:ちなみに心理的ストレスによって味を感じられなくなる、ということがこの漫画ではしばしば描かれる。

*4:1巻 199ページより。

*5:この記事を子供が読んでいるとはあまり想定していない。

*6:ただしアプリで読んでいたことも考慮しなければならないが。

小沼丹『藁屋根』書評

  『藁屋根』(講談社文芸文庫 2017年12月)を書店で見つけ、頁をぱらっとめくってみると、「谷崎さん」の文字が目に入った。ほかにも「井伏さん」「広津さん」などの名前が出てきており、これは私小説的なものなのだろう、と思う。また、少し前に『村のエトランジェ』(講談社文芸文庫)を読んでいたことも相俟って、興味が湧いた。

 これは「竹の会」という短編のなかの話なのだが、少し読み進めて、自分の勘違いに気付いた。この「谷崎さん」とは、谷崎潤一郎ではなく、弟の谷崎精二のことであった。(もっとも、カバーのあらすじをちゃんと読めば「恩師である谷崎精二」としっかり書いてある。)

 谷崎精二の存在はもちろん知ってはいたものの、早稲田の教授であったことを除いて、正直ほとんどその功績は知らない。たしか小説も書いていたが、あれだけの兄を持ってしまい、大変だったろうと思う。

 

 小沼丹という作家は、しばしば「ユーモアとペーソスの漂う洒脱な文体」などと評されることがあるようだ。ユーモアはまだしも、ペーソスという単語を見聞きする機会はそうあるものではない。ペーソスは、哀愁、悲哀などを意味する言葉で、同じ語源を持つ言葉としてパトス、対になるものとしてユーモア(諧謔)がある。つまり、小沼丹は相反するふたつの要素を兼ね備えた文体を持つ作家、ということになる。正直なところ、最初、これがどういったものを意味しているのか、よくわからなかった。ということで、とりあえずはあまりこういった評価を気にせずに読んでいくことにする。

 

 小沼丹の作品には、「大寺さんもの」と呼ばれる私小説的な作品群がある。本書のなかでいうと、「藁屋根」「眼鏡」「沈丁花」の三作はそれだ。小沼丹を思わせる「大寺さん」の視点から語られる話は、よく私小説について説明するときに用いられる言葉、「身辺雑事」、についての話のように思える。本書の作者年譜(中村明)には、このような記述がある。1964年のことである。

 

一月、庄野潤三と熱海に玉井乾介を訪ねる。同月下旬、母涙死去。相次ぐ近親者の死に遭ってか、頭でつくりあげる小説に興味を失い、身辺に材をとった作品に気持ちが動くようになって、五月、大寺さんものの第一作「黒と白の猫」を『世界』に発表。(222頁)

 

 相次ぐ近親者の死、とは、前年に妻和子が急死したことを言っている。もちろん、ここだけを根拠に「大寺さんもの」への転換を見るのは早計というものだろう。たとえ現実をそのまま描こうとしたところで、そこには取捨選択や誇張などが意識しないうちに入り込んでしまうものである。しかし、大寺さんものの作品を読んでいて思うのは、解説で佐々木敦が指摘していることでもあるが、これが「想い出す」作品である、ということだ。まず、「藁屋根」の冒頭からして、大寺さんは想い出し、そして想い出せない。

 

その頃、大寺さんは大きな藁屋根の家に住んでいた。正確に云うと、郊外にある大きな藁屋根の家の二階を借りて住んでいた。大寺さんは結婚したばかりで、その二階が新居と云う訳であった。その二階の広さがどのくらいあったか、はっきり想い出せない。(「藁屋根」7頁)

 

 それにしても、その直後でこの部屋には、「黒く太い梁や棟が剝出しになっている。太い柱も何本か立っていて、階段の上の柱だけ、手の届く所が黒く光っていた」ことなんかをしっかり憶えているのだから、不自然といえば不自然である。

 しかし、得てして記憶とはそういうものであるのかもしれない。つまり、部分でしかないものが非常に大きな印象を以て私たちを捉える、ということだ。私にも覚えがある。たしか幼稚園の遠足でのこと。おやつとしてもらったマーブルチョコレートを、私は大事に大事に左手に握りしめていた。どこかの広場でひとりになったとき、その手を開くと、表面のコーティングはみんな剥げて、手のひらにべっとりついていた。その光景はかなり鮮明に憶えている。逆にいえば、その他のことはほとんど憶えていない。その日の天気でさえも。

 小沼丹の作品は、過去の自分の体験を描いているのではなく、過去の出来事を想い出す、その行為や状態を描いた話である。その点で、小沼の私小説はけっして破滅型のものにはならない、ということができよう。

 「想い出す」話であること、それを示す一節がある。

 

大寺さんは一度、マダムの家に行ったことがある。マダムの家に近い映画館で、何とか云う映画をやっているから観ないかと誘われて、大寺さんはふらふら観に行った。どんな映画だったか憶えていないが、マダムが眼鏡を掛けたのは憶えている。眼鏡を外すと序に半巾で眼を拭いていたから、悲しい話だったかもしれない。(「眼鏡」54頁)

 

 ここで大寺さんが憶えているのは、マダムだけである。記憶のなかでは、通常の因果関係、時系列は成り立たない。大寺さんの推測が正しいとすれば、悲しい話だったからマダムは涙を流し、半巾で眼を拭いた。しかし大寺さんが想い出す方向では、マダムが眼鏡を外して、半巾で眼を拭いた。すると、マダムは泣いていたのだろう。だとすれば、その映画は悲しい話だったのかもしれない。まるで逆の流れで、文字通り、思い返されるのである。(現代、このような語り方をする作家として、磯﨑憲一郎が挙げられよう。○○ということは、そのとき私は高校生だったかもしれない、のような。)

 ここまできて、小沼丹のペーソスがわかったような気がする。小沼丹は、想い出すことそれ自体を描いている。記憶は、現実そのものではない。もう失われてしまったものに想いを馳せるその行為には、どこか空しさや悲しさのようなものが漂っている。加えて、本書の大寺さんものでは、大寺さんの妻が存命である。小沼丹は、大寺さんものを、妻が亡くなってからほどなくして書き始めている。そこにはやはり、亡き妻への哀惜の想いも漂ってくる。

 この想い出す視線は、大寺さんもの以外の作品にも流れている。恩師である谷崎精二との交流を、その死のときまで邂逅した「竹の会」、ヨーロッパの諸都市を訪問したときの出来事を描いた「ザンクト・アントン」以下三作、語りの位置は常に「いま」にある。そこから語られる文体には、邂逅の懐かしさが滲んでいる。

 この懐かしさは、悲しいだけではない。

 

 谷崎さんの名前を口にすると決って先生が近くに現れることがあって、油断がならなかった。(中略)直ぐ前を降りて行く友人に、

――おい、矢島、この次の谷崎さん、さぼらないか?

 と声を掛けた。矢島は振返って何か云い掛けたと思ったら、不意に前を向いてしまった。近くの連中の様子も何だか変だから振返ると、直ぐ背後から谷崎さんが苦笑しながら降りて来る。これは閉口した。失礼しました、と云う心算でお辞儀したら、

――いや……。

 と先生もさり気無く会釈された。そうなると、とても休めない。(「竹の会」67頁)

 

 或るとき、夜更に井伏さんにその話をしたら井伏さんは何だか考え深そうな顔をした。

――君は谷崎さんの教え子だろう?

――そうです。

――教え子としては、先生のそう云う点は大いに見習うべきじゃないのかね……。

 何だか思い当ることもあるから、早速見習うことにして、ではそろそろお先に失礼します、と云うと、井伏さんはそっぽを向いて、ふうん、君はそう云う男か、と云った。(「竹の会」83頁)

 

 ユーモアについては、このように一読すればくすりときてしまうところが、いくつもある。身辺雑事について書いている、と言っても、まずは単純におもしろいし、どこかおかしいのだ。

 それでいて、このような出来事、人物が、どこか愛おしく感じられてくるのは、それが想い出されているものだから。私はまだ経験したことがないが、それは葬式のあとの食事会で、故人を偲ぶときの視線に近いかもしれない。あんなことがあったなあ。こんなところがあったなあ。こういうところは、困ったものだったなあ。実際、本書の多くの作品では、「死」が大きなテーマのひとつとなっている。

 

 マダムはそんなことを云って、小さな声でロング・ロング・アゴウを歌った。(中略)暗い店で小さな歌声を聴いていると、何だかいろいろ忘れていることがぐるぐると動き出すようであった。マダムは遠い所を見るような顔で歌っていたが、その唄と共にマダムに何が甦ったのだろう?

 唄が終ったら、親爺が中途半端な顔をして、

――一体、何て云う唄だね?

 と訊いた。

――遠い遠い昔、って云う唄だ。

 と、大寺さんは云った。(「眼鏡」61-62頁)

 

 想い出す。その視線に身を委ねるなかで、ユーモアとペーソスが微妙に混ざり合った小沼丹特有の文体は生まれたのである。

 

 

(文責 宵野)

書評『輸入学問の功罪――この翻訳わかりますか?』

逐語訳への妄執 『資本論』向坂訳を題材に

 第一号の追加資本を成す剰余価値が、原資本の一部分による労働力の購入の結果だったかぎりでは、すなわち、商品交換の諸法則に一致する購買、また法律的に見れば、労働者の側においては彼自身の能力にたいする自由処分権、貨幣または商品所有者の側においては彼に属する価値にたいする自由処分権以外には何ものも前提しない購買だったかぎりでは、また、第二号以下の追加資本が単に第一号の追加資本の結果にすぎず、したがってかの最初の関係の帰結にすぎないかぎりでは、また、各個の取引がすべてつねに商品交換の法則に一致し、資本家は つねに労働力を買い、労働者はつねにそれを売り、しかもわれわれのなさんと欲する仮定にしたがってその現実の価値どおりに売買するかぎりでは、明らかに、商品生産と商品流通とに基づく取得の法則または私有の法則は、それ自身の内的な不可避的な弁証法によって、その正反対物に顚倒するのである。( マルクス資本論』、向坂逸郎訳、第一巻第二二章、岩波文庫全九冊第三分冊、一二九頁以下。引用は 二〇〇一年第三二刷より)*1

 以上の文章は本書で引用されている資本論の岩波、向坂訳である。著者はこの訳を提示することで、近現代日本の翻訳が逐語訳への妄執を抱えていることを示す。なんと、この訳文は原文つまりマルクスのドイツ語と文構造が全く同じだというのだ。受験生のような誠実な訳だ。

 もちろん著者も指摘するように、専門用語の使用によって読解が難しくなっている面はある。例えば、冒頭に出てくる剰余価値はその最たるものだろう。とはいえ、この後に提示される著者訳のほうは(マルクスの大家である)向坂訳よりよほど読みやすくなっているのである。その訳は向坂訳と対照的に一文を短く区切り、表現を易しくしたものである。

 この一文(原文と向坂訳ならばであるが)は最も極端な例である。しかし、著者の主張は、私が漠然と『資本論』を始めとする人文、社会科学系の翻訳書に抱いていた疑念と一致する。つまり、翻訳によって無用に原著が難解になっているのではないかということだ。

 例えば、まさしく『資本論』を読んだ時内容があまり頭に入ってこないので、途中で挫折したことがある。また他の翻訳書でも、文体がこなれていないあるいは日本語らしくないものに遭遇したことは何度もある。

 この問題を誤訳という言葉で表現するのは適切ではない。何故ならば向坂がそうであるように、翻訳対象の言語についての知識が十分であってもこのような事態は起こりうるからである。誤訳というよりも不親切なまでの逐語訳への執着と言ったほうが良い。あるいは日本語として成立していないような翻訳とも言えるだろうか。

 輸入学問の功罪とタイトルにはあるが、このように、本書ではかなり輸入学問あるいは翻訳の罪、問題点に焦点が当てられている。

 

原因は一体どこにあるのか

 一体この原因はどこにあるのであろうか。その点についての著者の射程は広い。ドイツを模範にした日本の近代化、市場とアカデミズム、教養主義など様々な論点を引っ張り出してくる。ただ、そのせいで論点が散らかっている印象も否めない。

 例えば第二章の題名は『ドイツの近代化と教養理念』であり、第三章の題名は『日本の近代化の基本構図』である。本書が六章で構成されていることを考えれば、その回り道は長い。また基礎的な近代ドイツ史や日本史の知識がある方にとっては、多少それらの説明がくどすぎるかもしれない。

 それらの説明は煩雑であり、本書を読んでもらうことにしよう。私はそれよりも具体的な翻訳を巡るある論争(とは大げさすぎかもしれない)が印象に残った。それは冒頭に挙げた『資本論』についての論争である。

 日本で最初に『資本論』を全訳したのは社会主義者、高畠素之であった。1924年のことである。また翌年には、読みやすいように日本語らしいように訳文が全面改訂された。この翻訳方針には翻訳文を「商品」とみなす高畠の捉え方が影響していた。高畠は売文社*2に参加するなど商業作家として生計を立てていた。この高畠訳を始めとする幾つかの訳を批評したのが京大教授の河上肇*3

 河上の批評は良く言えば精緻な、悪く言えばあら探しのような逐語的なものであり、自訳を批判されたように感じた高畠は反発している。ただ、河上は高畠訳を直接的に批判したわけではなく行間から読み取れるようなものである。ここから、著者はジャーナリズムとアカデミズムの断絶を読み取る。つまり、商業翻訳者である高畠が、学者である河上の批評に過剰反応したというわけだ*4

 河上と対照的に徹底的な批判を展開したのが三木清である。ちなみにこの批判は岩波文庫河上肇・宮川実訳と対比する形で行われた。そしてこの批判もやはり高畠訳が逐語的ではないというものであった。著者は三木の翻訳観をこのようにまとめる。

 三木の翻訳観に見られるのは原文への強迫観念的な自己同化であり、欠落しているのは読者の視点からの解釈学的反省だ。そうなればいきおい、わかりにくい翻訳を苦労して解読する責任は読者に転嫁される。原文の構造を忠実に再現することこそ訳者の任務であり、それを解読するのは読者の責任だ 、となる。ここに権威主義が発生する根拠がある。 *5

 逆に三木が持ち上げた岩波文庫が後に、冒頭で取り上げた向坂訳『資本論』を出版したのは歴史の偶然だったのか、それとも必然だったのか。この点について私は確証を持たない。ただし、著者が指摘するように三木は岩波書店と深いつながりがあり*6、そのことが影響しているのかもしれない。

 余談になるが本書を読んでいて、ひょっとしたら、原因かもしれないと私が思いついたことが二つある。それは原文と訳文を対照して読む時には逐語訳のほうが確かに読みやすいということである。もっとも、そのような効果を期待して逐語的に訳しているのだとしたら、原語が全く読めない読者にとってはいい迷惑だ。

 そして、そのような原文との対照を前提とした翻訳があるとしたら、同時に原文を翻訳文よりも上に位置づける思考形式があるのではないか。つまり翻訳文は原文を読む上での参考にすぎないというわけだ。確かにそうならば、翻訳文の読みやすさなど大した問題ではないだろう。

 もう一つは読みづらく、原文との対照を要求するような翻訳文は翻訳者やその読者の権威付けるということである。これは一種のオカルトと言って良い。つまり難解な訳文は原語が読めない一般人には読解できない。だからこそ、翻訳者やその読者は偉いというわけだ。

 これは中世のラテン語ギリシャ語が読めない庶民と神学者の関係を彷彿とさせる。中世において聖書は庶民の言葉に訳されなかったわけであるが、結局母語で理解できないという点では一緒である。

総評

 著者の専門は近代ドイツ思想、文学だ。そのこともあって、具体的な訳文についてはドイツ語に絞られて検討がなされている。また、著者は自分の主張を論証する上で少し実証性に欠けていると思う。ただ、これは著者の力量不足というよりも、むしろ翻訳論という分野があまりに広大無辺であるせいだ。こと日本の翻訳に限ってもである。

 近現代の日本に重要な影響を与えた外来の言語は多くある。少なくとも英、仏、独、露語あたりが含まれることは間違いない。これら四言語を自由自在に操れる人材など現代日本にほとんどいないだろう。

 それに語学ができるだけではなく、思想的、歴史的な知識もこの問題を論じる上では必要とされる。一人で取り組む問題というよりも、語学だけでなく歴史や思想の専門家からなる集団でないと太刀打ちできない問題なのかもしれない。

 話は変わるが日本の翻訳の問題については、皮肉なことに西欧からの輸入学問的な知見はそれほど望めないのではないかと思う。一つには翻訳の方向性が全く異なるからである。西欧諸国のそれが相互作用的なのに対し、日本の方は殆ど受動的な立場にとどまるざるを得なかった。

 つまり、西欧の人文、社会科学に大きな影響を与えた日本語文献はほとんどなかったのではないか。もちろんこれは西欧の近現代思想、哲学が日本の人文、社会科学に与えた影響に比べればという話である。そのような背景を無視して、日本の翻訳論(翻訳研究、翻訳学ともいう)を考察しても説得力がないだろう。

 また、文法的、語彙的な隔たりの大きさも西欧諸語間よりも日本語とそれらのほうがずっと大きい。そのようなことを考えるとむしろ、西欧よりも中韓などのアジア諸国のほうが近現代においては状況が似通っている。

 それにしても翻訳という分野は意訳をすれば原文からかけ離れていると批判され、逐語訳をすれば読みづらいと批判をされる。全く、難儀なものである。

 いずれにせよ本書が意欲作であったことは間違いない。翻訳論という分野にも興味が湧いたので、しばらくしたら同分野の書籍を書評するかもしれない。

 

 

 なお本記事における脚注は全て『輸入学問の功罪――この翻訳わかりますか?』からなので書名は省略した。また電子書籍を参照したので、ページ数の代わりに章数と見出し名を付した。

 文責 雲葉零

 

参考文献

『輸入学問の功罪――この翻訳わかりますか?』鈴木直 筑摩書房(2014)

*1:以上第一章 難解な訳文より。『資本論』の同じ刷りを入手するのが困難なこともあって、孫引きをお許し願いたい。

*2:編集プロダクションのようなものと考えれば良い。

*3:第一章、最初の『 資本論』 翻訳から逐語訳 という名の権威まで。

*4:第一章、河上肇の翻訳評価。

*5:第一章、三木の責任。

*6:第一章、三木の責任。

『フラッガーの方程式』感想

 浅倉秋成を、私はなんて評すればいいのだろう。『ノワール・レヴナント』で第十三回講談社BOX新人賞Powers を受賞してデビューした浅倉秋成は、同じく第十三回講談社BOX新人賞Powers の応募作を加筆修正した『フラッガーの方程式』、三年ぶりの新刊となった『失恋覚悟のラウンドアバウト』、いまのところ、この三作しか作品を発表していない。端的に言って、寡作である。

 私もこのひとの新作を心待ちにしているひとりであるが、しかし、ひとたび作品を読めば、なぜこれほどまでに遅筆であるのか、理由は明らかだ。

 浅倉の作風は、「伏線」である。もちろん、小説に限らず、あまねく物語作品において、まったく伏線のない物語というものはきっと存在しないであろう。伏線は、物語に刺激や味をもたらす。

 しかし、浅倉作品の伏線は、もはや物語の添え物、ましてや隠し味ではない。伏線、それ自体が物語、と言ってしまっても過言ではないほど、主役面をしているのである。物語の核であるだけに、その数も尋常ではない。読んでいる最中は、「え、あれも伏線だったのか」、読み終わっては、「いったいどれだけ伏線があったんだ」、唖然としてしまう。どれだけ綿密な設計図を立ててこの物語を作り上げたというのか、その苦労もしのばれるというものである。

 デビュー作『ノワール・レヴナント』は、まずその分厚さにたまげる。二段組み、612頁(書籍全体)。4人の登場人物の群像劇、一人称多元視点で語られる物語は、講談社BOX系の新人賞受賞作品らしく(?)非常にとがった内容となっている。困ったことに、これが頁をめくる手が止まらないのだが、しかし、読了後の頭の疲労感、といったものが凄まじい。伏線につぐ伏線、さらにその下を流れる伏線、といった様相を呈するこの複雑な物語は、しかし非常に感動的だ。よくあれだけはちゃめちゃなことをして、こうもきれいにまとめられるものだ、と職人に対するような感心をしたものだった。

 

 さて、そこでこの二作目の『フラッガーの方程式』だ。浅倉秋成入門(三作しかないのに入門もなにもないだろうが)があるとすれば、私はこの作品を推す。この作者にとっての伏線、というものが、もっともわかりやすい作品だと思うからだ。

 あらすじを説明したいのだが、この作品はいままで書評で採り上げてきた作品にもまして、あらすじをまとめるのが難しい。申し訳ないが、ここは公式の帯文を引用させていただく。

「深夜アニメの主人公のようなドラマティックな人生にしてみませんか?」何気ない行動を「フラグ」として認識し、平凡な日常をドラマに変えてしまう“フラッガーシステム”。そのデバッグテストに選ばれた平凡な高校生・東條涼一の生活は激変! やがてフラッガーシステムは、憧れの佐藤佳子さんとの「ある意味」感動的なラストへ向けて、涼一が思いもよらない暴走をはじめる!

  フラグ、という単語は、ゲームやアニメに親しんでいるひとには身近なものであろう。起源まではわからないが、恋愛シミュレーションゲームなどで、ヒロイン攻略の「フラグが立った」、なんて言い回しを、耳にしたことがあるかもしれない。やや暴論ではあるが、「フラグ」はまさしく、伏線である。まさしく、「伏線」がテーマの物語なのだ。もはや、伏線のためだけの物語。それでいて、ちょっとしたメタフィクションにもなっていて、さらに、極めて爽やかな読後感を残すラブコメディである。なかなか欲張りだ。

 ここで恋愛シミュレーションゲームを喩えにつかったが、この物語を説明するのにおいては、多分これが一番適切であろう。恋愛シミュレーションゲーム、通称ギャルゲー(べつにエロゲでもいいが、そういった性的要素はない。あしからず)の主人公(プレイヤー)の行動、選択は、極論をいえば、すべてヒロイン攻略のためにある。ただ単に好感度を上げる、というのもあれば、ヒロインの秘密を暴く、といった重要なものまで様々であるが、いうなれば、すべてヒロイン攻略のフラグを立てるためにプログラミングされた行動であるわけだ。

 すべての行動を「フラグ」にしてしまう「フラッガーシステム」の被験者となった涼一は、このときギャルゲーの主人公になったのだ。彼の想い人は、佐藤佳子。もちろん彼は、彼女との「エンディング」を期待して被験者となるわけであるのだが、ギャルゲーを知っているひとならご存じだろうが、この手のゲームでは、ヒロインはひとりではない。その多くがマルチエンディング、つまり、各ヒロインとの恋愛模様がそれぞれ用意されている世界であるのだ。ものによっては同時攻略といったものも可能であるこのシステムにのっとるだけに、この作品にも、複数のヒロインがいる。

 物語の性質上ネタバレには慎重にならざるを得ず、非常にもどかしい。こんな伏線の回収の仕方がありなのか、と冗談抜きで嘆息をもらした私の読書体験を語り尽くしたいのを、ここはぐっと堪える。

 少しだけ話すと、よりにもよって、本命である佐藤さんの攻略へと向かうのは最後になるのであるのだ。しかし、この物語はゲームとは異なり、やはり、マルチエンディングではない。それでありながら、完全に一本道のノベルゲームとも、どこか違う気がする。つまり、佐藤さんへと向かう物語ということはわかっていながらも、もしかしたらほかのヒロインとのエンディングも、ないとはわかっていながら、それでもあり得たのではないか、といった様相を呈するのだ。

 そういったものについて、私が近い作品を挙げられるとするならば、『G線上の魔王』というアダルトゲームであろうか。本題ではないのであまり深く掘り下げないようにしようと思うが、軽く説明すると、このゲームは明らかに、メインヒロインである宇佐美ハルと結ばれるまでの道が本筋である。散りばめられた伏線は、このエンディングためにこそある。しかし、この話にはあと3人のヒロインがいる。もちろん彼女たちとのエンディングもあるのだが、一般的なマルチエンディングと異なるのは、宇佐美ハルのエンディングにたどり着くためには、ほかのヒロイン攻略の道を、すべて途中まで辿る必要がある、ということである。他のヒロインとのエンディングは、宇佐美ハルへと続くルートの中途から派生しているようなものであるのだ。

 いわば、一般的なマルチエンディングをツリーダイアグラム、樹形図と見立てられるのに対し、『G線上の魔王』は、一本の太い幹から、いくつかの小枝が伸びている、といったようなものだ。

 『フラッガーの方程式』も、この方式に近い。近いのだが、このフラッガーシステムのシナリオ編成等を受け持ち、フラグというものがよくわからない涼一のアドバイザーとしてともに行動する、ヘビーオタクの村田清山は、やはりあくまでもこのフラッガーシステムが生み出す「ご都合主義」のシナリオを、どこかギャルゲーチックなものとして考えている節がある。私もそう思っていた。だからこそ、だまされた。『G線上の魔王』ではいちおうあった小枝が、『フラッガーの方程式』では、あらかじめ本元の幹に吸収される運命を持たされた幻の枝だった。

 すべてのフラグはこのエンディングのためだけに収斂する。究極の「ご都合主義」の物語である。なにせ、佐藤さんとのエンディングという「都合」のためだけに、それまでの物語すべての存在意義が保証されている、といったようなものなのだから。

 非常に精密でありながら、かつ極めて無理やりな力業で構築される、まさに科学と力が融合した物語を、是非体験してみて欲しい。

 なるほど、ここまでくれば「ご都合主義」も、あなどれない。きっと、そう思えてくるはずだ。

 

(文責 宵野)