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アメリカ禁書ランキングトップ10 2016年度版 後編

ランキング一位 「This One Summer」を読んで

 一位の「This One Summer」をKindleで購入して読んだ。そもそも同作が禁書になった理由を振り返ろう。LGBTの人物が登場し、薬物が使用され、不敬*1で、「大人びたテーマと相まって性的に露骨」だと考えられたからであった。

 本題に戻る。以下、その四つの理由に注目して、感想と内容を述べていく。同作にはスラングや口語が多く、読み解くのに少し苦労したのでちょっと誤解しているところもあるだろうが。

 最初に結論を述べてしまうと、「This One Summer」はそれほど過激な作品だとは思えなかった。もちろん、何が過激かというのは人によって違うのであるから、以下詳しく説明する。

 「This One Summer」の主人公は二人の少女、ローズとウィンディである。ローズはウィンディよりも一歳半ほど年上である。*2はっきりとした年齢描写は、一見したところ見つからない。絵柄や扱われ方から判断すると、10歳前後ぐらいだろうか。ちなみにローズの年齢を一〇代前半ぐらいと、判断している書評もある*3

 過激でないと述べた主な理由は、上述した禁書の理由に主人公が二人があまり関わっていないからだ。脇役と言っていい人物たちが、禁書の理由となる行動を起こし、主人公二人は遠巻きにそれに関わっているという感が強い。

 例えば、作中でダンカンという少年が恋人を妊娠させ、揉め事を起こす。ダンカンは主人公二人が利用する雑貨店やビデオショップの店員で、ローズは彼に恋心をいだいている。しかし、主人公二人とダンカンとのつながりはそこまで強いものではない。単なる客よりは関係性があるにしても、顔見知り程度のものだ。

 主人公二人が薬物を使用するということもないし、汚い言葉遣いも主に主人公二人以外の人物、具体的に言えばダンカンの周囲のティーンエイジャーが使う場面が多い。

 敢えて主人公二人が主体的に関わる重大な不敬あるいは非行を挙げれば、ローズが母親と激しい口論をした場面ぐらいだろうか。年齢制限があるホラー映画「エルム街の悪夢」を、ビデオ店で借りる場面もあるが、大したこととは思えない。 

現代アメリカにおける禁書運動の分析

 次に、現代アメリカにおける禁書運動を全体的に把握していこう。便利なことに、アメリカ図書館協会は、そのことについてネット上で発表している。例えば、以下の図のように。上部のランキング上位10位の紹介は前回行ったので、下部を中心に見て欲しい。

 

http://www.oif.ala.org/oif/wp-content/uploads/2017/04/OIF-graphic-2000.jpg

 *4

 下部左側の「Where are books challengnd? 」はどこで禁書の申し立てが行われるかを表している。公的図書館が49%と一位だが、二位の学校と三位の学校図書館を合わせた値は50%でそれを上回る*5

 その右隣上部の「Who challenges books?」は誰が禁書の申し立てを行っているかを表している。一位は親で42%。31%を占める二位のパトロンという単語は分かりづらいが、おそらく学校のパトロン、支援者のことだろう。三位は行政で10%、四位は図書館職員と教師で合わせて8%である。

 この二つの情報を合わせると、子供にその本を読ませないために、禁書運動の多くが行われていること事が分かる。

 その下の「Why are books challengnd? 」は禁書申し立ての理由を表している。これまでのようにパーセンテージがないので分かりづらいが、見た目の大きさの順に列挙しよう。もっとも全てではないが。

sexually explicit 性的露骨さ

offensive language 不快な言葉遣い

violence 暴力

LGBT

religious viewpoint 宗教上の観点

nudity ヌード

author 著者 

日本との比較

 私が調べた限り、現代日本の禁書に関する網羅的な統計は見つけられなかった。しかし、子供の本を読む自由、そして性表現が重大な争点になっているという点などで日米共通しているようにみえる。例えば、日本ではやや古くなるが、以下のような悪書追放運動の事例がある。

 

背景にあったのは1950~60年台の少年非行。その原因として、過激な性や暴力が描写された本や雑誌が挙げられた。各地の自治体は青少年健全育成条例を定めて、そうした本や雑誌を「有害図書」に指定し、販売のしかたを制限した。

 白ポストはそうした「有害図書」を家庭内に持ち込ませないようにと、兵庫県尼崎市で1963年、ドラム缶を白く塗って置いたのが始まりらしい。長崎県の設置はその翌年で、全国でも先進的な取り組みだったようだ。

*6 

  幸いなことに、「有害図書」回収は現代の日本ではごく一部に留まっている。だが、各地の青少年保護育成条例によって、青少年に限定して一部の図書が規制されている。例えば、東京都青少年の健全な育成に関する条例では、第8条1で以下の基準を満たした、図書*7を知事が不健全図書として指定できることを規定している。

 

「(前略)その内容が、青少年に対し、著しく性的感情を刺激し、甚だしく残虐性を助長し、又は著しく自殺若しくは犯罪を誘発するものとして、東京都規則で定める基準に該当し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあると認められるもの」

 

 また第八条の二では、以下のように規定している。ちなみに、この条文に出てくる第7条2号では実写を除いた、漫画、アニメなどの画像に限って規制が行われている。よって、この条文では実写映画や小説のたぐいは対象になっていない。

 

「(前略)その内容が、第七条第二号に該当するもののうち、強姦等の著しく社会規範に反する性交又は性交類似行為を、著しく不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を著しく妨げるものとして、東京都規則で定める基準に該当し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあると認められるもの」

 そして不健全図書として指定された図書は、第9条で青少年向けの販売などが規制されている。第8条を読めば分かるように、性表現や暴力性を焦点にして、子供に限定して、規制が行われているのである。アメリカの禁書運動と、理由が似通っていることが分かる。

 あえて違いを言うならば、LGBTや宗教を理由にした、規制や禁書運動は日本ではあまりないことだろうか。ただ、同条例の第7条2号では近親相姦の描写が規制されている*8。方向性はかなり異なるが、性的タブーを禁止するという点では、やはり通じるものがある。

 

表現の自由の最前線

 例えば、大統領批判を理由に、アメリカ政府が図書館から書籍を取り除くということはあまり考えられない*9。また、仮にそのようなことが起きても、かなり激しい批判が起きるだろう。あるいは日本での政府批判も同じだろう。民主主義国家では、表現の自由の重要性について、正面から否定する政治家はほとんどいないし、国民もある程度理解しているからである。

 だから、先進国での禁書や検閲の焦点は子供向け書籍に移っているのだろうし、その主体は政府だけでなく民間も担っている。いや、むしろアメリカの場合、民間団体のほうが積極的に禁書運動を起こしているように思える。あくまで、私的な行動なので、好き勝手に動けるからだろう。日本でもPTAなどの民間諸団体が禁書運動に関わっている。

 このような状況は中国やロシアなどに比べれば遥かにましなのは確かである。日米やあるいは西ヨーロッパ諸国の政治状況と禁書や検閲という単語は、あまり結びつかないようにさえ思える。

 とはいえ、ましだからといって、表現の自由が完全に保たれているのかどうかには注意をしなければならないだろう。子供に対する規制だから、大人は関係ないと言っても、子供だっていつかは大人になるのだ。

 子供時代に何を読んだかによって、どのような本を読むのかに違いが出るのは当たり前である。私自身、子供時代に読んだ本で、いまだに印象に残っている本はいくらでもあるし、いまだに好きな作家もいる。本は、文章は思考に影響を与える。どんな大人になるのかにさえ、違いが出るだろう。

 むしろ、そうだからこそ、子供向け書籍をある種の大人たちが規制しようとするのではないのか。LGBTの登場人物が全く出てこない作品しか読んだことのない読者が、大人になって主人公がセクシュアルマイノリティである作品を読んだらどう思うだろうか。違和感を感じるのではないか。あるいはLGBTの人物が出てこない作品しか読んだことのない、子供が現実にそのような人物と接触したらどうだろうか。

 度々引用してきたアメリカ図書館協会のサイトから、以下の警句を引いて本記事を締めくくる。

 

検閲はほとんど気づかれないほどに微妙なものでありうる。露骨で明白なものでありうるのと同じように。しかし、それにもかかわらず有害である*10

 

参考文献

‘This One Summer,’ by Mariko Tamaki and Jillian Tamaki - The New York Times


東京都青少年の健全な育成に関する条例

上記はいずれも最終閲覧が2017年9月15日である。

*1:ちなみに前回記事を投稿した後に、知人から不敬とは一体何なのかという質問を受けた。確かに、神に対する不敬とか、政府に対する不敬ならば意味がはっきりしているが、単に不敬では意味が漠然としている。しかし、翻訳元のアメリカ図書館協会「Top Ten Challenged Books」では、不敬、原語だとprofanity単体で使われている。辞書で調べたところ、神に対する不敬を暗に意味することもあるらしいが、自信がなかったので単に不敬と訳した。

「This One Summer」を読んで、類推するところ、おそらく社会常識とか、良識に対する不敬を暗に意味しているのではないか。また、ローズが親と言い争うシーンがあるので、親に対する不敬も意味しているのかもしれない。必ずしも神に対する不敬というわけでもないようだ。少なくとも、同作で宗教的な要素はほとんど感じられなかった。

*2:「This one summer」19頁。

*3:

‘This One Summer,’ by Mariko Tamaki and Jillian Tamaki - The New York Times

*4:画像の著作権アメリカ図書館協会に属する。 Artwork courtesy of the American Library Association。

Top Ten Challenged Books: Resources & Graphics | Advocacy, Legislation & Issues

*5:学校と学校図書館を分けている意味は正直いって、断定できない。だが、以下の記事を見ると、おそらく教科書に対する禁書運動を指しているのではないか。

New Florida Law Lets Residents Challenge School Textbooks : NPR

*6:

「白ポスト」王国、長崎の特殊事情 「有害図書」回収に同行してみた - withnews(ウィズニュース)

*7:余談だが同条例で優良図書を指定しているのも面白いところだ。

*8:ただし、前述したように実写や小説は対象になっていない。

*9:もっとも、トランプ大統領ならやりかねない気さえするのが怖いが。

*10:

Banned Books Q&A | Advocacy, Legislation & Issues

『デレマス』独断と偏見に基づいた映像論的なもの 後編

 4 光と影――期待と不安――

 

 

 もっともこれは映像の世界においては常套手段といえるものであろうが、『デレマス』も数多の映像作品の例にもれず、光と影の対比がところどころで用いられている。場面として明るいシーンでは全体的に明るく、シリアスなシーンでは影のなかだったり薄暗かったりするのは当然のこと、加えて、ひとつのシーンのなかでも、その登場人物の心の動きによって、画面全体の明るさが異なることもあるのが、注意をひく。

 たとえば、卯月の養成所について考えてみる。養成所については、レッスン場の入り口から全体を見渡すアングルでの同ポジが三回あるが、その最初の一回と、あとの二回では、文字通り部屋の明るさが異なっている。

 最初の一回とは、オープニング終了後、卯月が養成所でひとり、トレーナーの女性といっしょに部屋の隅でストレッチをしているシーンだ。この部屋は、大きく分ければ、入り口を入ってすぐ、かつての仲間たちと撮った集合写真や小日向美穂がイメージガールを務めるシンデレラオーディションの募集要項のポスターなどが貼られた掲示板がある空間と、実際にレッスンをおこなう空間のふたつに分けられる。

 そしてこのとき、このアングルから見たときに手前にあたる入り口の空間は、電灯が消されている。視聴者は、薄暗い場所から卯月のレッスンを見ることになる。対して、あとの二回、つまり彼女のデビューが決まってからプロデューサーが訪問するシーンでは、その電灯は煌々と灯されている。このとき、もちろん明るさそれ自体にも、卯月の心情が表されていると思われるのだが、注目したいのは、掲示板に貼られたシンデレラオーディションのチラシの存在だ。というのも、物語が始まってすぐ、卯月はまさしく、このシンデレラオーディションに惜しくも落選したことが語られるのである。だから、このとき、このポスターに光は当たっていない。しかし、補欠合格が決まり、プロデューサーが残りのメンバーを探すのを待つ間は、入り口近くの電気も付き、このポスターにも光が当たっている。

 さらに言えば、3列に並んだ蛍光灯のうち、1回目では、向かって一番右の一列だけ電気が付いていないのに対し、以降ではすべての電気が点いている。特に意図はなかった、という監督の話もあるが、結果的にこの一連のシーンでは明るさがおおいに役割を果たしていた、ということができる。

 また、全体を通じて、卯月は明、凛は暗、といった対比が見られる。

 たとえば、卯月がプロデューサーに付き添って、凛のスカウトに向かうシーン。見覚えのある花屋につき、「じゃああなたが!」と声を弾ませる卯月は、太陽の光を浴びて明るい。一方、戸惑いを隠せない凛は、店の屋根に光をさえぎられて、薄暗いなかにいる。

 そして公園で初めて卯月が凛の笑顔を引き出したとき、凛の背後は影、卯月の背後は明るい青空である。その後、凛がアイドルになる気がないことを知り、お互いに気まずいのか、木陰のなかにいる。しかし、自分の夢について語る卯月は、おもむろにベンチから立ち上がり、木陰から光の当たる場所へと走り出して、桜の花を拾う。その笑顔を見た凛の瞳は輝きを放ちはじめる。そしてその夜、自室で物思いにふける凛の顔には、窓から入る月光が一直線に差している。こうして卯月の放つ光はやがて、凛へと伝播したのだ。

 

5 視点の移動、少女たちの足

 

  カメラを意識するわけではないが、映像作品を観るときにひとつ、注目すべきなのはその「立ち位置」、あるいは「視点」だ。同じものでも、上からか下からか、どちらから見るかだけでも、そのものの見え方は変わってくる。映像っぽく「アングル」と言い換えてもいいだろう。

 ここで注目したいのは、ときおりワンショットの静止画の連続で現れるようなシーンである。その代表的なものが、『お願い!シンデレラ』が終わってすぐの、本編に入るところだ。

 まずここでは、桜の木と青空と高層ビルとが映される。色合い的にもコントラスト的にも明るいこのショットだが、この風景は明らかに下からの視線で見られたものだ。次に映されるのは道路で、どうもこの道は坂になっているらしく、このショットは、坂の下からの視点で撮られている。そして、「Tokyo Art School」と思しき、卯月が通う養成所の玄関。そこでは色々な制服を着た少女たちが談笑したりして、楽しげな様子が見て取れる。この視点は、この少女たちとほぼ同じ高さである。そして、「調整中」の紙が貼られた時計を見上げ、すぐに卯月のスマートフォンへと視線が下りる。このとき卯月は、ライブで撮らせてもらったアイドルの写真を見つめている。そうして初めて、卯月の横顔が現れ、トレーナーの呼びかけに応じて、床に座る彼女は顔を上げる。ストレッチを開始した卯月、最初に映るのは、彼女の目から見た風景だ。薄暗いレッスン室のなか、前屈運動であろう、自分の足へと精一杯伸ばすその手は、しかしぎりぎりのところで、足まで届かない。

 以上のように、この1分にも満たない短さのなかで目まぐるしく風景が移り変わっていくこの場面。しかし、そのショットは決して不規則ではなく、「上」から「下」、「外」から「内」、さらには「明」から「陰」へと、その視点の方向が移っていることがわかる。

 下から見上げる視点は、手の届かない夢への憧れの情の現れであり、下に向かうにつれて現実に近づく。「シンデレラ」たちはガラスの靴を履いて舞踏会に向かうのだが、卯月の足には普通のシューズ、そして、そこに手は届かない。つまり、彼女の手はまだ夢に届いていないのである。

 このように、視点の移り変わりのなかで、話には現れない、卯月がそれまで進んできた道のりと、その艱難辛苦やもどかしさが、見事に表されているのだ。

 このガラスの靴は、冒頭の四人が出会うシーンでも登場するが、この第一話においても、「足」といったモチーフが頻繁に登場する。さきほどの、卯月のストレッチのシーンでもそうだが、彼女たちが履く靴は、まだまだガラスの靴には程遠い、普通のものである。卯月のデビューが決まったときも、書類を読む彼女の視線の先には、やはり、ただのレッスンシューズがある。足もまた、大きな意味を持つことになるモチーフのひとつだ。

 そして、この少女たちの足と同じ高さの視点を持つのが、犬、特に凛の飼い犬のハナコだ。卯月と凛、ふたりの間で伏せて目を閉じているハナコは、卯月が立ち上がって駆け出すと目を開け、彼女の背中を目で追い始める。さらに凛の手からリードが離れると、ハナコはプロデューサーのもとへと駆け出し、彼の前で伏せて、あたかも懐いているかのような行動を見せる。それまでずっと犬に吠えられてばかりいたプロデューサーに、である。彼は決して、動物に好かれる体質ではないのだろう。しかし、初対面に近いハナコは彼に、驚くほど好意的な態度を示す。ふたりの足を見てきたハナコが、飼い主である凛の本心はどこに向いているのか、それを代弁したとも言えよう。

 

6 まとめ

 

  なんということだろう。結局、扱ったのは本編の全25話のうちの第一話のみとなってしまった。こうなってしまった主な理由は多分ふたつある。

 ひとつは、何度通しで観ても、やはりこの第一話が最も完成度が高い、と思われること。もうひとつは、全25話の考察やら分析をまとめれば、十分一冊の本ができてしまう分量になりそうだったこと。つまりは、自制したのである。そういうことにしておこう。

 しかし、もうちょっと手を加えれば、量だけならば卒業論文にも匹敵しそうな自己満足の論考を自分で読み直してみると、それなりの達成感を感じられた。映像論などの勉強は圧倒的に足りないと自覚しているが、これはこれで、等身大の、つまり門外漢としては一定の映像技術に触れられたのではないか、と自負しているのである。もっとも、その評価はこの論考に付き合ってくださった読者にゆだねられているし、その捉え方に、筆者が口出しする権利はない。

 ここで、冒頭とかなり重なるところもあるが、私の映像作品、ひいてはフィクション作品についての考え方と、極めて個人的な「お願い」を記して、この論考を終わりにしたい。

 

 フィクションでもノンフィクションでも、物語あるいはストーリーを表現する際に用いられる方法はいくつもある。小説やエッセイのように文章で表されることもあれば、漫画のようにコマ割りとイラストで、あるいは絵画や写真のような一枚の画像を、音楽のように音を、さらには演劇のように、その場の舞台での役者の演技を用いて、物語が表現されることもある。

 そのなかでも、あえて映像という表現方法を用いるのであれば、その表現方法に特徴的な強みを活かしていくことは、表現者には求められてもいいはずだ。

 そこで考える。映像を使ったときの強みとは何か。まずは、その直接性が思い浮かぶ。確かに映像は、文字だけで表される小説などと比べて、直接イメージを提示するので、受け手によってイメージの差異が生じず、発信者と受け手の間で確実に共有される。

 しかし、だとすればそれは演劇でもいいはずだ。いや、むしろ直接性、という点においては「いま・ここ」にしかない演劇の方が良いかもしれない。映像作品は決して一連の演技をそのまま流すのではなく、往々にして編集というものがおこなわれているからだ。また、実際には流れていなかったBGMや効果音をつけることなどもできる。それに対して演劇は、特にその場において鑑賞するならば、そのとき現実に演じている役者の姿を見て、声を聴き、実際にスピーカーから流される音楽が耳に入ってくる。まさに、役者と観客のあいだで、時と場を共有しているのである。スクリーンを通して、あくまで「過去」の演技を見ることしかできない映像作品と比べると、「現在」の演技を見せる演劇に分があるのは確かであろう。

 私が思うに、映像作品の強みとは、編集やカメラワークによって、「言葉」を使わない「声」を引き出せることにある。ある登場人物の感情を細やかに表そうと思ったら、小説などのように言葉を尽くすことの方がよいかもしれない。しかし映像作品では、たとえば役者が瞳を潤ませてそっとうつむいたならば、それは悲しみを表すことになる。あるいは、そういった表情もいらない場合もある。寂しげなシーンで雨が降り始め、傘もささない登場人物の足元を写し、髪から滴り落ちる雨粒を撮ったならば、特別な演技を使わずして、悲しみや涙といったものを表すことができる。あるいは、幸せだったころの過去のシーンや、雨雲が立ち込める薄暗い空を、間に挟んでもいいだろう。これもまた、登場人物の悲しみを強調することにつながる。そしてこれが、「深み」や「余韻」といったものになっていくのだ。

 観客の目の位置が決まっている演劇においては、この方法で「深み」を出すことは難しそうだ。これはカメラの位置によって視聴者の目の位置を自在に操ることができる映像作品だからこそ、用いることができる方法なのである。故に、映像作品でナレーションによって心の声をあまりに入れすぎる作品などは、映像作品の強みを自ら放棄している、とも言えないだろうか。そもそも、心の声、心内文というものは、小説の専売特許ではないだろうか。

 今回取り上げた『デレマス』、この作品は、登場人物に心の声を語らせていない。無口で鉄仮面のプロデューサーがなにを考えているのかはまったくわからないし、卯月も凛も、「楽しみだ」とか「迷惑だ」とかいったような感情を直接的に言葉で言う場面はほとんどない。しかし、その表情や息遣い、あるいは合間に挟まれる風景や小道具、そして視点やコントラストが、登場人物の心をしっかりと物語っているのだ。

 近年、ライトノベルからのアニメ化、漫画からの実写化やアニメ化など、メディアミックスが多くなっている。商業的な面で、この手法が極めて有効なものであることは、否定できないし、否定する必要もない。メディアミックス自体に罪はないのだから。

 しかし、ただ、この作品は人気もあるし設定も受けそうだから、ほかの表現媒体でもそれなりにいけるだろう、という安易な発想からきているならば、なかなか成功はしないだろう。事実、一般の視聴者の反応が、あるいは「原作ファン」の反感が、それを物語っている。

 もちろん、この作品の表現方法が絶対の正解、などと言うつもりはない。むしろ、この作品の表現方法はその気になれば門外漢である人間にも、考察めいたものが可能、といった点で、非常に分かりやすいものと言えるかもしれない。この作品を越えるような驚くべき手法を用いた作品はいくつもあるだろうし、これからもどんどん作られていくべきだと思っている。

 しかし、少なくともただストーリーだけではなく、映像作品に特有の表現方法を数多く試みていることは確かだ。ここではかなりべた褒めしているように見えるだろうし、事実かなり感心しているのである。なぜか。最初にも述べたが、それは私がこの作品が好きだからだ。公平性を思いっきり欠いた代物に仕上がったことは、再読した自分が一番よくわかっている。ともかく、映像作品に関して本来ならば、これくらいの手法はどの作品でも使われていてしかるべきものなのかもしれない。

 これからも、メディアミックスは頻繁に行われるだろう。だとするならば、ただ原作のストーリーをなぞるだけで、あとは最先端のCG技術や豪華俳優陣といった、枝葉の部分だけを売りにするようなことはせず、せめてその表現媒体に合った表現方法を用いてもらいたいものである。それが、本当の意味でその作品に真摯に向き合うことと言えるのではないだろうか。

 最初、この論考には作品への愛があると言った。

 映像化にしても、作品への、そしてその表現媒体への愛は、やはり必要だと思うし、思いたいのだ。

 

(文責 宵野)

『デレマス』独断と偏見に基づいた映像論的なもの 中編

2 彼女たちが中央に立つとき

 

  注意してみれば意外なほど明確でありながら、しかし意識していないとそうそう気づけそうもないのであるが、第一話において、人物が画面の中央に立つ場面は、実はそれほど多くない。

 例外的に、シンデレラガールズのメンバーが『お願い!シンデレラ』を歌うライブシーンでは、高垣楓をはじめとする、すでにアイドルとして活躍しているメンバーが中央に立つことが多いが、ほかのシーンでは、ふたり以上の人物が登場する場面はまだしも、画面にひとりしか登場しないシーンにおいても、その人物が画面の中央からずれた場所に置かれることが少なくない。

 たとえば、デビューが決まった卯月が凛の実家でアネモネの花を購入した後、花を選んでくれた凛を振り返って、「私、がんばります!」と、彼女のチャームポイントである笑顔を見せるシーン。このシーンにおいても、卯月は画面の左側に立っている。

 付け加えるなら、このとき画面の右上には釣り下げられたライトがあるのだが、それが照らす場所に、卯月はいない。デビューが決まり、笑顔、そして希望で満ちているように思われる卯月であるが、まだ彼女はスポットライトに照らされていないのである。このあと、プロデューサーは補充メンバーの三人を集めるのに苦労し、卯月はレッスンを命じられ続ける。デビューが決まったからといって、すぐに舞台に上がれるわけではない。実際のアイドルを考えれば確かにそうなのであるが、それはともかく、そこからの卯月の道のりは、決して順風満帆なものとは言えない。

 また、この中央にひとが立たないコマ割りは、凛において特徴的だ。凛が中央に立つのは、交番で事情を聞かれるシーン、通学路でプロデューサーから名刺を差し出されるシーン、公園で卯月の笑顔に魅せられるシーン、アイドルになることを決意するシーンくらいで、いま挙げたなかでも最後のふたつを除き、正面を向いて画面に中央に立つシーンはほとんどない。その他のシーンでは、画面内に凛ひとりしかいなくても、左右のどちらかの端に寄っている。中央に配置されることがまだ比較的多い卯月と比べると、その差は歴然だ。

 いずれにしても、その登場人物が画面の中央に立つのは、ストーリーのなかでポイントとなるシーンに多い。ひとが画面の中央に配置されるシーンを並べてみると、

 

憧れのアイドルたち→卯月の登場→プロデューサーの登場→卯月、デビュー決定→凛の登場→凛とプロデューサーの接近→凛のスカウト開始→頑張る卯月→卯月の笑顔、魅せられる凛→凛、アイドルになる決意→未央の登場。

 

このようになる。これだけでこの第一話のあらすじにもなりそうだ。このように、ターニングポイントとなるところで、「中央」というものが効果的に使われている。

 ここで最も注目したいのが、卯月と凛の公園での会話だ。持ち前の明るさで凛の笑顔を引き出した卯月だったが、まだアイドルになる気はない凛との間に齟齬があり、お互いに気まずい空気になる。ベンチでもやや離れて座るふたりの間には、ベンチの手かけと卯月の通学鞄があり、そして斜めに視点を変えると、背景のポールと思しきものが、ふたりの間にそびえ立つ。ひとりずつ映していくシーンでも、卯月は右側、凛は左側、と、やはり中央にはこない。*1

 そんなふたりであったが、卯月は、自分のアイドルへの積年の想いを語り始める。そして卯月は立ち上がり、地面に落ちた一輪の桜の花を拾って、凛に最高の笑顔を向ける。このとき、卯月の顔はアップで、中央にある。その卯月の笑顔に魅せられ瞳を輝かせる凛の表情もまた正面を向き、アップで中央。それまでそれぞれ左右に寄っていたふたりが、卯月の笑顔をきっかけにふたりとも中央に寄る。中央とは、スポットライトが当たる場所、と言い換えてもいいだろう。

 それまで中央を避け続けた彼女が「光」の当たる中央に立ったとき、凛の気持ちは決まっていたのである。

 

 3 少女と花

 

 第一話において、時計と同じくらいの頻度で登場したのが、花である。

 季節が春であることから、特に桜が多く登場した。始まりを象徴する花としてはおあつらえ向きであり、この演出そのものは、わりと使い古されたものといえる。

 本当に注目に値するのは、出てくるすべての木が桜の花を咲かせているわけではないということだ。花びらを散らせるほど満開を迎えている桜があたりいっぱいにあるにも関わらず、青々と緑の葉をつけている木も少なくない。

 もちろん、それは桜の木ではなくてべつの植物である、事実、すべての公園の木や街路樹はすべて桜であるわけではない、という指摘は可能だろう。しかしながら、だとしてもこれがリアリティを生み出すために有効であるのかは、疑問が残る。たしかに『デレマス』は、あくまで現実の世界を下敷きに舞台を作り上げている。とはいえ、フィクションであることには変わりない。

 上で、この桜の存在をおあつらえ向きといったが、フィクションには「お約束」というものが存在する。意識、無意識に関わらず、我々は綿々と受け継がれてきた「お約束」を念頭におきながら物語に接している。つまり、フィクションに独特のリアリティというものがあり、現実に似せれば似せるほど、むしろフィクションとしては逆に不自然になる、ということだって十分にあり得る。

 たとえば、「近接の原理」。フィクションでは偶然すれ違った男女(もちろん男同士、女同士でも構わない)は、往々にして、なんらかの関係を持つようになる。たとえば、ボーイミーツガールの物語は、その最たるものと言えよう。

 しかし現実では、たとえば外出先で私がある美しい女性の手助けをしたところで、その後親密な関係になるケースなど、稀としか言いようがない。

 つまり「近接の原理」は、現実世界においてはなかなか当てはまらない。だからといって、フィクションのなかで、すれ違った女性の容姿やらなにやらをそれなりの分量をもって描写しながらその後一切の関わりを持たないとしたら、それはフィクションとして不自然なのである。おばあさんが、どんぶらこ、どんぶらこ、と流れてくる桃を、うわあ、大きな桃だあ、とか言ってスルーしてしまったら、物語は始まらないのである。読者はきっと、騙されたような気分になる。

 たしかに、あえてそうすることで現実の世界の無常観を表現したフィクション作品もあるだろう。しかし、それだって、フィクションに固有である現実を前提として、それを皮肉的に描くことで初めて成立するもので、この原則がなければその特殊性、批評性といったものは生まれないのである。

 話を桜に戻す。桜の花を咲かせている木と、青々とした木が混在していることを説明したが、特にその差が顕著なのが、公園のシーンだ。ベンチに並んで座る卯月と凛だが、凛を映すアングルでは背景が青々としているのに対し、卯月を映すアングルからは、色鮮やかな桜の花が咲き誇っている。やりたいことが見つけられず、どこか無気力に学生生活を送っている凛と、長年の目標であったアイドルになることができ、これからやりたいことがどんどんあふれてくる卯月、ふたりの心を対比しているかのようである。

 もっとも、卯月を映すシーンでも、背景が緑であることもある。

 ひとつは、プロデューサーが凛をスカウトしたときの台詞が自分のときと同じ、しかもそれが、自分が唯一自信を持っている強みの「笑顔」であったことを知ったシーン。一瞬ではあるが、卯月は自分の選考理由に不安を覚える。その不安が背景にも表れていると言えよう。

 もうひとつは、凛に「なんでアイドルになりたいの?」と訊かれたシーンだ。

 この質問に対し、卯月は自分なりのアイドルという仕事に対する明確なイメージを提示することができない。卯月の夢は、ただ「アイドルになりたい」というだけで、その実、具体性というものが欠けている。自分の夢にまっすぐ突き進んでいるように思える卯月のなかにも、陰りというものがある。卯月、つまり四月の名を持つ夢見る少女にとって、桜の時期はホームグラウンドともいえる。しかし、その花が散って葉桜、そして枯れ木となったとき、彼女の拠り所はどこにあるのか。

 桜のほかに、アネモネの花も、重要なシーンでしばしば登場する。「期待・希望」の花言葉を持つアネモネを、店番をしていた凛が卯月に勧め、それを買った卯月は、その花束を右胸に抱えて、凛にお礼と共に、「がんばります!」の言葉と笑顔を投げかける。この、卯月が自分の右胸に花を当てて満面の笑顔を向ける、という構図は、公園で凛の心をつかんだ笑顔のときと同様だ。そのシーンで卯月は地面に落ちた桜の花を拾い、右胸に優しく抱いて凛に笑顔を向ける。

 プロデューサーのしつこい勧誘を受け、なし崩し的に入った喫茶店と思しき店の壁には、三輪のアネモネの花が前を向いている絵が飾られている。卯月に授けたアネモネが、図らずも自分の許に戻ってきたかたちだ。面倒だ、という感情を露骨に顔に出す凛であるが、どこかで「期待・希望」を求めているところがあり、彼女のそんな気持ちが、彼女のアネモネを再び近づけたのである。このとき、彼女はプロデューサーに、「今、あなたは楽しいですか?」と言葉をかけられ、はじめて心が揺さぶられる。

 そして、公園で卯月と出会った日の夜、自室の勉強机にはガラスのコップに飾られたアネモネの一輪挿しが置かれ、窓から入る夜の光がそれを照らし、ベッドに横になる凛の顔に注がれる。最後、アイドルになる決心をして卯月たちの前に現れる場所も、アネモネの絵が飾られているあの喫茶店なのである。凛から卯月に渡ったアネモネ――期待・希望――は、プロデューサーとの出会い、そして卯月の笑顔を通じて凛のもとに帰ってきて、最後には三人のものとなるのである。

 おまけにはなるが、では凛と桜との間に関係はないのか、という問題について考えてみたとき、ひとつの答えがあるので、それを提示する。それは、凛とプロデューサーのファーストコンタクトの後、交番で事情を聞かれる場面だ。

 凛の後ろに貼られているポスターに注目する。二枚あるうちの上のポスターは、全体に桜の花のイラストが散りばめられており、凛の顔の横で花を咲かせている。また、このポスターは765プロのアイドル・四条貴音がイメージガールを務めているものだ。「桜の花」と「アイドル」、そして「渋谷凛」とが接近しているのだ。フィクションに固有の現実の一例として「近接の原理」を説明した。気にしなければただの背景に過ぎないが、注意してみると、これはなかなかにあざとい演出ともいえよう。

 さらに、下のポスター、内容はわからないが、「夢」という文字が大きく目立っている。この「夢」とは、この時点で卯月が持っていて、凛が持っていないものだ。しかしながら、この両者の接近により、凛が「夢」を見つけることがここで予測されているのである。

 ついでに言えば、プロデューサーの背中には「指名手配」と「注意!」の文字が目立つ。そののち、再び警察のお世話になりかけた展開を思えば、これもまた示唆的である。

 

 

(後編に続く)

*1:自分が最近観たなかでは、『響け! ユーフォニアム2』において、久美子と秀一とのふたりきりの会話シーンで同様の演出がおこなわれていて、ちょっと感動した。

『デレマス』独断と偏見に基づいた映像論的なもの 前編

 

アイドルマスター シンデレラガールズ

 いちファンによる独断と偏見に基づいた映像論的なもの

 

 これは、アニメーションはおろか、映画における表現方法の歴史もろくに学んでいない、正真正銘の門外漢による考察である。

 世の中にはいま、論じやすいアニメ作品などは、それはもういくつもある。そういったものを扱ってみようと思ってもみたのだが、なんだか興が乗らない。そこで、やはりまずは好きなものを論じようと思った。『アイドルマスター シンデレラガールズ』(以下『デレマス』)を、映像論にもサブカルチャー論にも少し疎い私が、とにかく好きなだけ味わい尽くしてやるのである。

 それだけの愛は持っている。

 

0 映像と小説、『デレマス』の表現方法

 

 アニメーションは、当然ながら映像作品である。では、そもそも映像作品の強みとは、同時に弱点とはどこにあるのだろうか。私の関心の中心である小説の表現方法を念頭におきながら、まずはそこから簡単に考えてみたい。

 さっそくであるが、映像の強み、それは全体を一度で表すことができることであろう。

 簡単に景色一枚をとっても、小説であったら「季節は春、抜けるような真っ青な空には雲ひとつなく、桜の花びらが風に舞い――」といったように、ひとつひとつをあげて順番に描写していかなければならない。しかも丁寧に描写しようとすればするほど記述は長くなり、全体性からはほど遠くなっていくという矛盾を抱えているのである。

 対して映像は、その景色を提示するだけで、景色全体を視聴者に見せることが可能である。しかも、編集という技術を使って、連続する時間のなかでそれらを任意のタイミング、順番で簡単に示すこともできるのだ。これは、ほかの表現方法と比して、圧倒的な強みである。小説を書いているとき、映像作品のこういった特性が羨ましくて仕方がないときがある。と同時に、この特性を活かしていない、あるいは活かす気もない映像作品を観てしまったときなどは、もやもやした気持ちをおぼえることもある。

 では弱点は。というよりも映像の苦手分野といったほうが適切であろうか。それは、間違いなく、心理描写である。

 世の中にはあまたのフィクション作品が存在する。その大半の作品が人間を描いたものであるから、そこには人間の心理というものが否応なく存在し、それを描くことこそがフィクション作品の目的のひとつであるともいえるのだが、当然、その心理なるものは目に見えない。だからこそ好き勝手になんとでもできる万能の素材だ、ともいえるのかもしれないが、しかし映像は、その目に見えないものを描きにくい。いや、視覚第一である映像では本質的には不可能、といってもいいだろう。

 これはむしろ、小説の得意分野である。もともと、文字によって世界を構築する表現方法である小説は、目に見えないものの概念を作り上げることが容易である。(泉鏡花が描く幽霊など。)聞いた話であるが、初心者が小説を書こうとするとき、その多くが一人称視点をとるらしい。そしてその一人称が、地の文で自分の心のなかの言葉をよくしゃべる。ひとの心は目に見えないものだから、どうとでもいえる。ゆえに書きやすそうに思える。その気持ちは非常によく理解できる。私も最初は一人称で書いた。特になにも考えず、ただ書きやすそう、という理由で。

 話を映像に戻す。いつからかはわからないが、映像作品もその弱点を補おうとしてなのだろうか、と感じるようになった。とりわけ、「独り言」や「ナレーション」という形で、登場人物に心の声をしゃべらせる、といったものをよく見かける。あまり映像作品を観ない私ですらそう感じるのだから、実際はもう大半がそうであるのかもしれないし、実はそうでもないのかもしれない。

 ともかく、この現象には、メディアミックスによるところもあるかもしれない。つまり、もともと心内語が当たり前に書かれている小説や漫画を映像化するにあたり、その心内語を文字通りに処理しようとするなら、どこかで登場人物自身の口から語らせるしかないのである。

 しかし、このような「声」に頼る方法でこの欠点を補うのは、はっきり言わせてもらえば、映像が小説的な表現に隷属することと同義である。私は小説が好きであるが、映像作品が小説のようになってほしいとは思わないし、第一、その必要性も皆無だ。それならば小説であればいいのであり、映像である必然性はない。

 当然、作品そのものが表現媒体に先立つ、という考え方にも理はある。たとえば、喜劇と悲劇では、それに適した表現方法は変わってくる。だから、ここで私が念頭に置いているのはやはり、メディアミックスであろう。

 作品そのもの自体は同じで、表現媒体だけが変わってくる。最近のこの国の出版状況をみていると、ますますメディアミックスは力を持ってくると思われる。それ自体は良いことであろう。しかし、メディアミックスの仕方がいささか乱暴なものであるがため、表現媒体の変化により、先立つはずの作品そのものが変質させられている例が少なくない、と個人的には思われる。あるいは、あまりに原作に忠実であるがゆえ、原作の特色がどぎつく現れて欠点となりかねないものもある。*1*2

 たとえば、たとえ実写映画化が不評だったとして、あとからでも原作(作品そのもの)に目を通してみて改めて判断する受け手ばかりなら、それでもいいのかもしれない。しかし、実際にはそうではなく、メディアミックスに触れてから原作を手に取るひとは、そのメディアミックスが気に入ったひとである。しかも、その原作を手に取ったひとの少なからずが、なんか映画(ドラマ)と違う、と違和感をおぼえ、シリーズものならやがて、あのときの盛り上がりはなんだったのか、とばかりにその売り上げは急落する。*3*4

 ともかく、この状況を見ていると、もはや作品そのものにも大きな影響を及ぼしてくる表現媒体の力を無視できない。

 だからこそ、作品そのものを無意味に損なうことがないよう、メディアミックスに臨む者は、その表現媒体の特徴はある程度把握しておく必要があると思う。そうすれば、たとえば、小説(漫画)の方法を用いなくとも、映像は映像の特質も生かしながら映像の欠点を補うことで、作品そのものの価値を極力伝えることができるのではないか、といいたい。

 ある登場人物が悲しみに暮れているとする。彼/彼女に「悲しい」と言わせる必要はない。たとえば、そのひとが俯くシーンを入れればいい。くわえて、雨を降らせるのもいいだろう。バックに短調のBGMを流すのもよい。それだけで、その登場人物の感情は伝わってくる。言葉は一切使わない、これは小説ではできないことである。禍を転じて福と為す、とは言いすぎかもしれないが、映像は、目に見えないものは写せないという弱点をうまく活かせば、その弱点がゆえに、むしろ効果的に、目に見えないものを観る者の心に訴えかけることができるのである。(偶然か、この文を書いた翌日、『最新 文学批評用語辞典』(研究社)を読んでいると、「サブ・テクスト」なる項目に遭遇した。曰く、「とくに劇において、人物の行動や言動の背後にありながら、明確に言及されることも説明されることもない意味や事情。観客は間接的言及、沈黙、ニュアンスなどから舞台上の人物の意図を読みとることになる。」。*5まさしく、である。)

 私が、そのひとつの到達点を、北野武監督『その夏、いちばん静かな海』に見たことはさておき、本題に戻る。『デレマス』の表現方法は、そういった映像の特質をかなり用いたものになっている。

 かなりの評判を呼んだ第一話においてそれは顕著だ。第一話では、まず先代のシンデレラガールズのライブから始まるのであるが、そこで、ライブの前口上と思しき先代たちのナレーション以外、主要人物の三人、島村卯月渋谷凛、プロデューサーの心内語となるナレーションは一切ない。独り言も、卯月の花屋でのシーンを例外として、ほとんどない。寡黙なプロデューサーの人物像のせいもあるだろうが、むしろ無言のシーンが目立つくらいである。

 では、いかにして登場人物の心のなかを描いているか。それは、たとえば、風景のショット、カット割り、カメラワーク、背景、表情、間、コントラスト、などなど、映像が持つ要素をこれでもかと盛り込んだ表現方法によって、雄弁は銀沈黙は金を図らずも体現するかのごとく、少ないセリフで、多分に登場人物の心のなかを鮮やかに描き出しているのである。少なくとも私には、近頃の「おしゃべり」なドラマやアニメよりずっと、三人の心情が、Pのつかみどころのなさと共に、甚く伝わってきた。

 とはいうものの、一度目の視聴では、静かではありながらとても豊かな作品だ、近頃なかった魅力に満ち満ちているぞ、くらいの感想しか抱けなかった。しかし、二度、三度と視聴を重ねるにつれ、映像の可能性が、この三十分の作品からひしひしと伝わってくるのがわかった。そして、そういったことを念頭においてさらに数回視聴した。再生と停止、巻き戻しを繰り返し、気づいたことがあればメモを取る。そんな鑑賞の仕方が正しいのかどうかは自信をもって断言することができないが、気がつけばキャンパスノート半分がメモで埋まっていた。以下、いろいろ付け足しながら、その走り書きに近いメモを文章化することで、いささか断章的ではあるが、私の『デレマス』考察としていきたい。

 

1 時計というモチーフ

 

 『デレマス』には、全体を通じて時計が重要なアイテムとして登場する。

 これは、本家『シンデレラ』の、「十二時になると魔法が解けてしまう」、という重要なストーリーを踏襲しているのだろう。この第一話だけでも、冒頭が時計の針がカチカチと進む音から始まり、本田未央と思われる少女がライブ会場に駆け込むシーン、シンデレラガールズのメンバーが『お願い!シンデレラ』を歌う場面におけるバックの映像、オープニングのアバンなど、ありとあらゆる場面で時計が登場している。

 そこで、この第一話で登場した時計に焦点を当てて、その時刻が示している意味を考えていきたい。

 まずは冒頭。第一話はアンティーク調の時計の針が、12に向かうところから始まる。そして『お願い!シンデレラ』のライブシーン(第一話ではこれがオープニング代わりになっている)ではいくつもの時計が出てくるのだが、そのほとんどが「12時前」である。時計の針がぐるぐる回る場面もあるのだが、その時計も、その針が「12時」を示す直前で画面が切り替わってしまう。つまり、絶対に「12時」にはならない。この物語において、「12時」というものの到来がどれだけ重要であるのかを示していると言えよう。

 しかしながら、このオープニングのシーンでは、ひとつ気になる時計がある。それは、本田未央がライブの会場に駆け込んでいくシーンに見られる時計だ。背景に小さくあるその時計の針は、4時前。いままで注目してきた12時からは、ほど遠い。このあと、島村卯月渋谷凛本田未央、のちにNew Generations(以下NG)を結成する3人とプロデューサー、という物語の中心を担っていく4人が偶然にも出会うのだが、この時点ではまだ物語は始まったばかり、ということであるのだろうか。

 さてオープニングが終わって、物語は本筋に入り、卯月の養成所へと移る。卯月がひとりレッスンを受けるこの部屋の時計は、最初「調整中」の紙が貼られていて、その動きは止まっている。針が指す時刻は、11時50分37秒といったところ。ここでも、「12時前」という時刻が出てくる。「シンデレラオーディション、あと一歩だったじゃない」というトレーナーの話なども踏まえると、卯月は夢のアイドルまであと一歩というところで足踏みしていることが表されている。

 そこで登場するのがプロデューサーだ。一度受付に案内されたプロデューサーが、ひとりでストレッチをする卯月の前に再び現れ、「島村、卯月さんですね」と声をかけて名刺を差し出す。このとき、卯月とプロデューサーは本当の意味で出会うことになるのだが、そのとき、「調整中」の紙がはがれて落ちる。アイドルとしての卯月の時間が動き出すと共に、『デレマス』という作品全体の物語が動き出したことも、ここでは表されている。

 こうしてシンデレラプロジェクト(以下CP)でのデビューが決まった卯月は、自分へのご褒美として花を買うことにする。そのとき立ち寄ったのが、のちに仲間となる渋谷凛の実家である花屋だ。

 母に代わってちょうど店番をしていた凛が、卯月にアネモネの花を勧めたあたりで画面に映る時計は、6時過ぎを指している。12時からは真反対ともいえる時刻だ。この時点で、凛のなかの時間はまだまだ進んでいない。事実、卯月が店に入る直前、視聴者は頬杖をついて気だるげな凛の様子をすでに見ている。

 この第一話においての中心は、打ち込めるものがなく生活を楽しめていない凛が、卯月の笑顔に魅せられてアイドルという未知の世界に飛び込むまでの過程である。時計も、このメインストーリーと並行するように、その針を進めているのだ。このあと、それまで画面には表れていなかった凛の顔が、初めて視聴者に公開される。卯月の背中を見送るその顔は、感情に乏しく、どこか無気力な印象すら受ける。その直後、凛の母親の用事が済み、凛は店番を交代することになる。

 次に時計が現れるのは、おあつらえ向きと言えよう、渋谷駅前、ハチ公前広場で、勘違いから警察官とのトラブルに巻き込まれていた凛を助けたプロデューサーが、その後、凛をスカウトする場面である。このとき凛は、親切にしてくれた男がスカウト目当てで接近してきたものだと思い込んで失望し、どこか当てつけのようにアイドルという存在に強い拒絶を示すのだが、このとき映る時計は、4時過ぎの時刻を示している。

 卯月と出会ったシーンから、さらに12時から遠ざかってしまっている。状況が後退した、ことを表しているのと同時に、これは冒頭、未央がライブ会場に駆け込む際に映った時計の時刻からは少しだけ進んでいるともいえる。このとき未央はまだオーディションを受けてすらおらず、スカウトを受けた凛よりもさらに前の状態にある、といえなくもない。

 そんな凛のなかの時間だが、卯月の笑顔に魅せられ、プロデューサーの言葉に心を揺さぶられた日の夜、事態は急変する。自室のベッドに横になってアネモネの一輪挿しを眺めながら物思いにふけっているとき、彼女の部屋の時計は11時34分を指している。一気に12時に近づいたのもさることながら、卯月の養成所の時計からも進んでいる。このとき、凛はひとこともしゃべらない。しかし、ここまで見てきた者はその時計の針から、凛の意思がアイドルへと近づいたことを、そして卯月の時間も進んだことを知るのである。

 そして、凛は卯月とプロデューサーが待つ喫茶店へと現れ、アイドルになる意思を表明する。「あんたが私のプロデューサー?」という原作ゲームのセリフにプロデューサーが頷くと、時計の針がひとつ、音を立てて進む。アニメコンプリートブックにおけるインタビューのなかで、高雄監督は、「一話につき一回だけ、時計の針を動かす」という制約を課していたことを明らかにしている。冒頭のシーンを除けば、これがその一回だ。このとき、時計は11時35分に進んだように見える。これは、その前のシーンで凛の部屋の時計が指していた11時34分からちょうど1分、進んだ時刻である。この瞬間から、『デレマス』という物語は11時34分から、明らかに重大な意味を持つ12時、という時刻に向かって進んでいく、ということが暗示されていると言えよう。

 最後、3人目のメンバーの再選考オーディションを映す場面、画面右上の端に小さく時計がかかっているのが見える。

 その時刻は、11時35分。

 その直前、ひとつ進んだ時計の時刻と一致する。これは単なる偶然ではない。そしてこの再選考オーディションでは最後のメンバー、本田未央が登場する。

 3人の時間は軌をひとつにして、『デレマス』という物語の時間もまた進んでいくのである。

  

 (中編につづく)

*1:コメディ系の漫画を実写化する際、すべての動き・台詞を再現すると、うるさくないだろうか

*2:さらにいえば、小説・漫画の実写化はともかく、アニメーション映画の、間を置かぬ実写映画化は、雇用創出以外にいったいなんの意味があるのだろうか、正直疑問である。

*3:しかし、これは仕方ないことなのかもしれない。流れて行くから「流行」なのだから。ブームは一時的だからブームたり得る。もはや、「いま『ワンピース』という漫画が流行している」とは、仲間内ならともかく、社会全体をみたときにはいわないのである。

*4:さらに加えると、これは実体験であるが、『ホタルノヒカリ』という漫画がある。これは2007年、綾瀬はるか藤木直人が主演する同名ドラマで大ブームとなり、ある書店では単巻あたり三桁の販売を記録していた。2014年から、原作は『ホタルノヒカリSP』という続編の連載を始める。その単行本、同じ店舗で数冊しか売れなかった。まさか、当時この作品を買っていた読者層が、この店舗の圏内からごっそり移住したわけではあるまい。ブームの恐ろしさを思い知った。

*5:『最新 文学批評用語辞典』(研究社)p111

アメリカ禁書ランキングトップ10 2016年度版 前編

 アメリカ図書館協会 (en:American Library Association, ALA)は「Top Ten Challenged Books」というランキングを発表している。意訳すればアメリカ禁書ランキングトップテンとも言うべきものだ。ただ、ここでchallengedという言葉は禁書運動のことを指している。対してbanningという言葉は実際に本棚から本が取り除かれたり、閲覧が制限されることを指している。なのでこのランキングに乗っていても、実際に禁書にされているとは限らない*1

 また禁書にされたと言っても、必ずしも政府や公権力が主体的にそう命じたというわけでもなさそうだ。禁書運動に屈して、図書館が本棚から撤去したことも禁書の一種として捉えているからである。また、全米で一斉に禁書にされたわけでもない。

 タイトルにあるように今回は直近の2016年度を翻訳、紹介する。全てを逐語訳しているわけではなく、省略したり、情報を加えたりしている。なお、筆者は専門の翻訳者というわけでもないので、誤訳が生じている可能性はある。気づいた方は、ぜひ指摘してほしい。保険をかけるようで恐縮だが。

 それぞれの本の題名の和訳は、必要ないだろうと思われるほど簡単なものは省略した。

 

1 This One Summer  マリコ・タマキ 著  ジリアン・タマキ イラスト

 第一位を獲得したのはグラフィックノベル*2の「This One Summer」だ。 第一位なので少し詳しく説明しよう。著者とイラストレーターは名前を見ても分かる通り、親戚で日系人である。二人はいとこの関係に当たる。また、マリコ・タマキはユダヤ系カナダ人とのハーフである*3。彼女の国籍はカナダであるが、ジリアン・タマキの国籍はアメリカである。

  アマゾンの商品紹介を翻訳しよう。

 

 毎年夏になると、ローズは母と父と一緒にアワゴ湖畔の家に出かける。これは彼らの逃亡であり、彼らの隠れ家である。ローズの友達、ウィンディもまた、いつも一緒にそこにいる。ローズには、いたことがない妹のように。しかし、この夏は違っていた。ローズの母と父は争うのをやめない。ローズとウィンディがその劇的な状況の中から、気晴らしを求めようとした時、彼女たちは、自身たちが全く新しい問題の渦中にいることに気づく。

 それは夏の秘密、悲しみ、成長。ローズとウィンディがお互いに経験した愛しい出来事。*4

 

 ヤングアダルト向けの本書はベストセラーである。だが、閲覧制限や、図書の移転、禁書などの措置が取られることになった。LGBTの人物が登場し、薬物が使用され、不敬で、「大人びたテーマと相まって性的に露骨」だと考えられたからである。

 

2 Drama ライナ・テレジマイアー 著

 一位に続いて二位もグラフィックノベルである。ヤングアダルト向けの本書は、親たち、図書館員、行政官によって禁書にされた。その理由はLGBTの人物が登場し、性的に露骨で、「政治的に不快な観点を含んでいる」と考えられたからである。

3  George アレックス・ジノ著

 二つの賞を受賞したにも関わらず、行政官は本書を本棚から取り除いた。トランスジェンダーの子供が登場し、「セクシャリティーが小学生には不適切」だからである。

4 I Am Jazz ジェシカ・ハーシェル、ジャズ・ジェニングス 著 シーラ・マクニコラス イラスト

 子供向けの絵本であり、筆者の回顧録でもある本書は禁書運動が起き、実際に本棚から取り除かれた。その理由はトランスジェンダーの子供を描写しているからである。言葉遣い、性教育、不快な物の見方もまた原因となった。

5 Two Boys Kissing  デイヴィッド・レヴィサン 著

このヤングアダルト小説は以下の理由で禁書運動が起きた。すなわち、表紙が二人の少年がキスをする画像であり、「LGBTの文脈で性的に露骨」であると考えられたからである。

6 Looking for Alaska(アラスカを求めて) ジョン・グリーン 著

 生徒を「性的冒険」に導きかねない、性的な露骨なシーンにより、このヤングアダルト小説は禁書運動を起こされ、閲覧を制限された。

7  Big Hard Sex Criminals マット・フラクション著 チップ・ズダースキー イラスト

 性的に露骨と、図書館員と行政官にみなされ、この大人向け漫画は禁書運動を起こされ、禁書にされた。

8 Make Something Up: Stories You Can’t Unread(間に合わせる。あなたが読まないことができない物語) チャック・パラニューク 著

 個人的にこの本が入っていたのは驚いた。というのも筆者はパラニュークの熱烈なファンだからである。邦訳された本は全て持っている。またこの本の原著も持っている。正確に言えば、原著といっても日本語訳がないのだが。

 世間的に言えば、パラニュークは映画「ファイト・クラブ」の原作者として有名である。過激な作風だから禁書運動の対象にされるのは違和感がない。本書は大人向けの短編集で、ニューズウィークニューヨーク・タイムズから肯定的な批評を送られている。

 禁書申し立ての理由は以下のようなものである。不敬、性的に露骨、「実に嫌で不快」。

9 Little Bill (series) ビル・コスビー 著  バネット・ハニーウッド イラスト

 この子供向けの本は著者が性犯罪を犯したとする主張のため、禁書運動が起きた。

10 Eleanor & Park レインボー・ローウェル 著

 本書は不快な言葉遣いのため、禁書運動が起きた。

 

 これら一〇タイトルのうち、五タイトルが禁書の異議申し立てが起きた図書館の本棚から取り除かれた。

 後編ではアメリカ図書館協会のデータを元に、アメリカの禁書運動の分析や表現の自由についての考察を行う。

 文責 雲葉 零

 

参考文献 

Top Ten Challenged Books: Resources & Graphics | Advocacy, Legislation & Issues American Library Association 

Tamaki no fake - NOW Magazine

https://www.amazon.co.jp/This-One-Summer-Mariko-Tamaki/dp/159643774X

This one summer 商品ページ AMAZON

上記はいずれも2017年9月8日に最終閲覧した。

*1:

http://www.ala.org/advocacy/bbooks/banned-books-qa

*2:簡単に言えば漫画のこと。だが、ノベルという言葉が入ってることからわかるようにコミックよりは硬めの内容。余談だが、片や日本にはライトノベルという小説のジャンルがあるのは面白い

*3:

https://nowtoronto.com/art-and-books/books/tamaki-no-fake/

*4:

https://www.amazon.co.jp/This-One-Summer-Mariko-Tamaki/dp/159643774X

書評 申 東赫『収容所で生まれた僕は愛を知らない』

 まるで小説のような書名であるが、本書はノンフィクションである。朝鮮民主主義人民共和国*1の収容所に生まれた著者が自身の過酷な半生を綴ったものだ。著者は一九八二年生まれで二〇〇五年に中国に脱北した。

 引用は、全て同書からである。

政治犯収容所完全統制区域价川一四号管理所

 これが著者が収容されていた施設の名称である。「完全統制区域」という名称は「革命化区域」と対になっているものだ。後者の収容者には釈放の可能性があるが、前者にはその可能性がない。よって「完全統制区域」の情報が外部に漏れることはない。また、革命化区域は北朝鮮でたった一箇所しかない*2

 不謹慎を承知で言えば、「完全統制区域」にせよ「革命化区域」にせよ虚構のような名称である。いかに北朝鮮の現実が、私達の社会と現実離れしているかが分かる。

収容所で生まれた経緯

 収容所には、収容者同士を結婚させる、「表彰結婚」という制度がある。これは文字通り収容者に対する表彰の意味もあるが、労働力確保という面もある*3。誰と誰とが結婚するかは保衛員*4が独断で決める。もし拒否すれば、一生結婚はできなくなる*5

 著者の両親は、この表彰結婚を行ったのだ。そして表彰結婚で生まれた子供も収容者となる。こうして、筆者は生まれてから、ずっと収容所内で生活することとなった。そもそも、父親が収容された原因は、朝鮮戦争時に兄弟が韓国へ逃亡したからであった。だが、多くの収容者は、何故自分が捕まったのかさえ知らないという*6

学校生活

 収容所の子どもたちは五歳のときに、五年制の人民学校に入学する。前述したように学校の教師は保衛員が務める。拳銃を携帯したままでだ。学校で教えられる科目は国語、算数、体育の三科目にすぎない。国語の授業は字の練習程度のもので、本を読む訓練はしない。これは収容所内に、収容者が読める本が一冊もないからだ*7

 人民学校卒業後は一〇歳で六年制の高等中学校に通う。学校とはいっても、実態は労働者となる準備をするだけである。工場や農場や炭鉱に行って働くのだ。特に過酷なのが炭鉱である。空気不足で、胸焼けがし、最奥ではまともに息をするのも難しい。また、手押しトロッコの脱線で著者の同級生は足の親指を切断した*8

拷問と母と兄の処刑

 学校生活を送るある日、突然、著者は捕らえられ拷問を受けることになる。母と兄が収容所から逃亡したからだ。事前に知らされてなかった著者は尋問に対して、知らないとしか言いようがない。だが、保衛員は決してその言葉を信じない。背中を焼くなどの過酷な拷問を著者に加える*9

 それでも、なんとか釈放された著者を待っていたのは、捕らえられた母と兄の公開処刑だった。また、学校生活に戻った後は、逃走者の身内として、周囲からのいじめを受けた。

学校卒業後

 著者は当初、比較的、楽な豚舎に配属され、そののち縫製工場に転属する。ある日、ミシンを壊すという失敗を犯す。これに対する処罰は過酷なものだった。中指を詰められたのだ。

 また、保衛員の命令を受けて、著者は密告をせざるを得なくなる。その結果、同僚の二人の男女が激しい暴行を受けることになった*10。他者を傷つけなければ、自分が傷つくという極限的な状態である。このことは収容所からの脱走についても言える。著者のように、脱走者の身内は激しい制裁を加えられるからだ。

 朴課長との出会い

 著者が脱北するきっかけを作ったのが朴課長である。縫製工場に配置された彼を、著者がマンツーマンで教えることになったのだ。元々、彼は金正日と握手をした経験があるほどのエリートだった。課長というのはエリートだった時の役職名である*11。また彼は中国に出国した経験があり、北朝鮮の体制批判を著者にする。この時の逸話は後で詳述する。

脱北

 有刺鉄線にからまった朴課長を置き去りにしつつも著者は収容所からの脱出に成功する。それから中朝国境へと、北上する。一ヶ月あまりの時間をかけ、著者は中国へ脱北した。警備兵は煙草などの賄賂を渡してやり過ごしたと言う。

 中国について述べている場面で印象的なのは、中国を極めて豊かな社会と評価していることだ*12脱北に成功したのは二〇〇五年だから、日本人からすればそこまで豊かな社会には見えなかっただろう。いかに北朝鮮社会が貧しいかが分かる。その後、一年余りの時を経て著者は上海の韓国領事館に保護された。

気まぐれな権力の行使

 全体を通して、保衛員は極めて気まぐれである。体制のため、というより私利私欲のために動いているという面が大きい。例えば、著者が人民学校に通っていたときに同級生の女の子が教師の保衛員に殴り殺されたことがあった。トウモロコシを盗んだためであるが、この程度のことでは、場合によっては全く殴られないときもあるという。教師の機嫌が悪かったのだ*13

 また縫製工場には二五〇〇名もの収容者がいたが、保衛員はたったひとりしか配置されていなかった。そのため彼は絶対的な権力*14を持っており、収容者の女性を好き勝手に選ぶことができる。また女性の方でも、保衛員に気に入られようとする。保衛員に選ばれると、他の収容者は手出しできないからだ*15

 さらに保衛員の子どもたちは収容者の子供達をしきりにいじめているという*16

 北朝鮮の体制悪といえば、金正日金正恩など想起するのが普通だろう。もちろん責任の重大性で言えば彼らが飛び抜けているのは間違いない。だが、見落としてはいけないのが、末端の役人やあるいはその子供までもが、自分たちの怒りや欲望を、収容者達にぶつけているということである。

奪われた言葉と思考

 本書はそう上手い文章で綴られているわけではない。正直、読むのに少し疲れてしまった。文章の緩急がほとんどなく、平板な描写が続くからだろう。また、悲惨な体験を描写するときも、著者の個人的な感慨はあまり多くない。例えば、ミシン工場で中指を詰められた描写も僅か二ページに過ぎない。ある意味で報告書のようである。誇張の正反対、内容に反して語ることが少ないノンフィクションである。

 あまりに悲惨で異常な事態が多すぎて、いちいち詳細に描写できないのも一因だろう。この書評でも、凄惨なエピソードのいくつかを省略している。収容所の中ではあまりに簡単に人が死に、肉体的にも精神的にも傷つく。だが、他の理由も考えられる。

 別の理由の一つは、弱音を吐く余裕すらなかったことだ。筆者は、ダム建設現場での事故死目撃を回想してこう綴っている。

 しかし、建設現場で誰かが死んだからからといって、悲しんで涙を流す人はいない。ただ、自分の命がまだあることだけを確認して、もう一度自分の持ち場で働くだけだ*17

 北朝鮮の収容者達は涙を流さないのである。モスクワのように。そして保衛員にとって収容者の死は労働力の減少にすぎない。また作者は別の場面でこう述べている。

 互いが互いを監視する体制の中では、友達という概念すらも事実上ないのである。他人を信じて話すことができないから、あまり友達付き合いなどしないのだ*18

 誰も同情はしないのだ。このような状況下で弱音を吐く意味はあるだろうか。

 読み書きの能力の低さと偏りにも注目すべきだろう。前述したように著者は本を読む機会がなかった。その結果、以下のように著者の語彙は偏っていた。

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 また高等中学校時代には生活総括のノートに自己批判を強制された。仕事の失敗を書いたり、怠慢した生徒を批判するのだ。こんな作文しか、綴ったことがなければ、自分の感情をうまく伝えるのは難しい。韓国に来てから、再教育を受けているだろうが、そうすんなりとは行くまい。ちなみに韓国入国後から、この本の発行まで一年半あまりにすぎない。これは日本語版の数字なので、原著はもう少し短くなるだろう。

 著者は収容所で暴動が起きることはありえないと断言する。一つには食べ物を報奨とした、密告体制が形成されているからだ。暴動計画は事前に密告される。またそもそも収容者には抵抗意識がないと言う。罪を犯して収容されていると洗脳されているからだ。その結果、保衛員個人に不満は抱いても、体制に不満を抱くことはない。*19

  感情を表す言葉を知らなければ、うまく文章を書けなければ、抽象的な思考を形成することも難しい。このようにして、収容者達が自律的な思考を奪われていることも暴動が起こらない一因ではないだろうか。

 外部の世界、無駄を知ることによる思考、人間性の回復

 朴課長は著者に外の世界の情報をもたらした。中国や国連の存在、収容所外部の北朝鮮社会などである。また北朝鮮の体制が悪いという、著者が思いもよらなかった思考までもたらした。この時、著者の身体は収容所内に留まっていたが、思考は外の世界を向き出したのだ。脱北を決意した時の、著者自身の言葉を引こう。

 

 脱出をしようという話になったとき私は胸がいっぱいになった。

 初めて、私に"生きる目的"ができたのだ。

 

 脱出をして、だった一度だけでいい、中国という国に行ってみたかった。白いご飯を食べ、肉の汁を飲んで暮らしてみたい*20

 

 また本筋からすると関係ないようだが、朴課長と筆者の交流で極めて印象深い場面がある。朴課長と一緒に筆者が歌を歌う場面だ。二人でいるときに朴課長が突然歌を歌いだしたので、著者は戸惑う。歌を聞いたことはあっても自分で歌ったことはなかったのだ。やめるように頼むが、それでも課長が歌い、やがて二人で一緒に歌う*21

 こちらはフィクションであるが、映画『ショーシャンクの空に』にも同じような場面があった。主人公は冤罪で刑務所に収容される。主人公は元々銀行家だったので、所長の右腕に成り上がる。

 また図書室係としても過ごすが、ある日「フィガロの結婚」のレコードを無断で所内放送に流す。収容者達は一斉に立ち止まり、皆で「フィガロの結婚」を聞く。とても、いいシーンだ。無断で流したので、主人公は処罰を受けたが。

 歌を歌う、あるいは聞くというのは誤解を恐れず言ってしまえば、余暇であり、無駄である*22。仕事以外で本を読むことが余暇であり、無駄であるように。

 しかし、労働以外の余暇や無駄がなければ主体的に生きていると言えるだろうか。前述したように収容者達は労働力としてしか見られていない。いわば収容者達は金正日やその手下の保衛員のロボットであり道具である。

 ここでダム建設工事の際の収容所所長の訓示を引こう。

「おい、お前たち、仕事をもっと一生懸命しなければならない。お前たちはそんな働きぶりで、どうやって詰みを償い、どうやって生きていくというのか。仕事を熱心にしろ、わかったな? よく食べて、よく寝て、いつも働くのだ。もっと一生懸命に働け!」

*23

 このようにその冷酷な事実は、罪を償うという論理で道徳的にも正当化されていた。そして、食事や睡眠すら労働のためにすぎないということが分かる。いくら苛烈な収容所とは言え、最低限の食事や睡眠がなければ持続的な労働はできないからだ。もっとも食事はごく粗末なものだが。

 まして、著者は収容者同士の子である。前述したように、その結婚は労働力の確保が一つの目的であった。生まれる前から、労働することを課されており、学校でもそのように教育された。働かなくてはいけないという考えは、著者の心に強固に刻まれていただろう。

 歌を歌うということは、傍目には些細な事である。しかし、それは労働、罪の償い、強制ではない、著者自身のための自由な行動であった。人間は歌を歌わなくても労働はできるからだ。大げさに言えば、著者は歌という無駄を獲得することで、主体性、人間性回復のきっかけをつかんだのだ。

 

 文責 雲葉零

 

参考文献

申 東赫『収容所で生まれた僕は愛を知らない』(2008)李洋秀 訳 KKベストセラーズ

*1:以下、北朝鮮と省略する。

*2:一五頁。

*3:少子化対策をもっとも露骨にすれば、この制度のようなものになるだろう。

*4:スパイや反体制派を弾圧する秘密警官だが、収容所内では看守や教師の役割を果たしている。

*5:七〇頁から七四頁。

*6:三〇頁。

*7:九七頁。

*8:一三一頁から一三二頁。

*9:一五五頁から一五七頁。

*10:二二五頁から二二八頁。

*11:二三〇頁から二三一頁。

*12:二七八頁。

*13:一〇〇頁から一〇二頁。

*14:「王様のような」と著者は形容する。社会主義国家であるはずの北朝鮮がこのような体制になってしまったのはまさに皮肉だろう。

*15:二一六頁から二一九頁。

*16:一〇七頁から一一〇頁。

*17:一三六頁。

*18:九四頁。

*19:二八二頁から二八四頁。

*20:二四三頁から二四四頁。

*21:二三九頁から二四三頁。

*22:職業歌手や歌の先生なら別だろうが。

*23:一四三頁。

書評 ケン・リュウ 紙の動物園

 今回の書評で扱うのは『ケン・リュウ傑作短編集1 紙の動物園』である。長々しくなるのでタイトルでは省略した。元々『紙の動物園』という題名で出版された一冊の短編集を二冊に分冊したものだ。七つの短編が収録されている。

 

作者紹介

 ケン・リュウ中華人民共和国で一九七六年に生まれ、十一歳の頃にアメリカに移住した。大学では英文学を専攻すると同時にコンピューターサイエンスの授業も取っていた。卒業後はソフトウェア関係の仕事をした後、ロースクールに通い弁護士になった。現在は特許訴訟関係のコンサルタントをしつつ、アプリ開発もしている*1

 SF作家が技術関係の仕事をしているのはさして、不思議ではない。だが、法律も学んで弁護士にまでなったというのは中々、多才な経歴である。また後述する、『月へ』の法哲学的な問題意識はこの経歴から培われたのかもしれない。

 しかし、なによりも中国で生まれアメリカに移住した、この経歴が作品に影響を与えているようだ。まずは作品を一つ一つ、軽く紹介する。 

 

『紙の動物園』

 表題作。母が折ってくれた折り紙の動物達を軸に母と語り手の関係が描かれている。母親はアメリカ人の父のもとにアメリカへ嫁いできた中国人女性だった。しかし子供の頃にそのことをからかわれたことから、語り手と母の関係性は希薄なものになってしまった。例えば、中国語で話しかけてくるなら答えを返さないというふうに。母の死後、語り手は折り紙の裏面に書かれた中国語のメッセージを発見する。中国語が分からない主人公は、観光客の中国人にそのメッセージの内容を読んでもらう。

 

『月へ』

 アメリカの若手女性弁護士が初めて担当したのは亡命案件だった。希望するのは中国人男性とその娘。しかし、中国人男性の嘘が判明する。難民条約の定義と適合するように虚偽の申請をしていたのだ。ただし、彼が役人によって立ち退きを強要され、妻を殺されたのは事実だった。法と正義の相反という古典的なテーマが取り扱われている。

 

『結縄』

 結縄とは縄の結び目によって物事を記録することである。現実にもインカ文明で存在していた。アメリカ人研究者が結縄文化が残っているミャンマーの村を訪ねるところから物語は始まる。研究者は結縄を読み解く技術をタンパク質の構造解析に活かせないかと考えていたのだ。総評で詳しく取り上げる。

 

『太平洋横断海底トンネル小史』

 アメリカと上海及び東京を結ぶ太平洋横断トンネルが実用化された世界を描いている。それは、大恐慌後に日本とアメリカが外交的に協調政策を取った結果である。語り手はトンネルの建設に携わった台湾人の元労働者。彼はトンネル工事の際、捕虜あるいは犯罪者達が捨て駒にされ、見殺しににされた秘密を知っていた。

 彼はその事実を、気づかれない形で後世に残そうと試みる。

 

『心智五行』

 タイラという女性の宇宙空間での遭難から物語が始まる。彼女が取った行動は、得体の知れない惑星へワープすることだった。その惑星では、遠い昔に入植してきた中国人達の子孫が住み着いていた。

 タイラは落下の衝撃で意識を失い、また体調が芳しくない。そんな彼女を発見した現地人のフォーツァンは、治療を試みる。その治療法の理論体系はおそらく漢方や五行説に基づいたものだ。やがて意識を取り戻したタイラは先端科学技術ではなく、伝統的な知識を重んずる彼らに戸惑う。

 しかし、徐々にタイラの考えは変わっていく。現地の生活と食物に彼女は馴染み始める。それにフォーツァンの治療により体調も良くなったのだ。やがて、タイラはフォーツァンと恋に陥っていく。

 そして、彼女たちの前に救援船が訪れる。

 

『愛のアルゴリズム

 人間に似通った精巧なアンドロイドが開発された。見た目だけではなく、自然な会話もこなせる。語り手はこのアンドロイド開発者の女性。夫は彼女が務める企業の経営者だ。彼らが製造したアンドロイド群は大ヒットする。

 しかし、二人の娘が生後間もなく死ぬという悲劇が起こる。語り手は自分を慰めるために、五歳の女の子を模したアンドロイドを製造することを考えつく。当初、夫は反対するが、結局同意した。そのアンドロイド、タラは極めて精巧なものだった。初めてタラと接した夫が、人間の子供と勘違いしたほどに。

 本作では、中国語の部屋という有名な哲学問題を引き合いに出し、思考とは何かが追求されている。もっと具体的に言うと、人間とAIに区別はあるのかということだ。哲学的ゾンビとも関係してくる問題意識に思える。この問題は総評で詳しく取り上げる。

 

『文字占い師』

 少女リリーは父の仕事の関係で台湾に引っ越してきた。時代は一九六一年、台湾が独裁政権下だったころだ。学校に馴染めず、クラスメイトからいじめられる中、彼女は台湾人の友人を二人作る。老人、甘とその義理の孫テディである。

 甘には文字占いという特殊な技術があった。名前の中の漢字や(占われる側が)自分で選んだ漢字に基づいて運勢を占うのだ。例えば、漢字をばらばらにしたり、書き足してみたりして。

 やがてリリーの不用意な発言で甘はスパイ容疑をかけられることになる。

 

総評

 全体的に米国と東アジアの文化及び人物が、作品の中で重要な役割を果たしているのが特徴的である。それら二つの異なる文化が接触するさまが描かれている。また基本的に難解な科学技術の描写はなく読みやすい。科学技術にさほど詳しくない私でもすらすらと読めた。

 また表題作『紙の動物園』に顕著なように、全体として感傷的な作品が多いように感じた。帯の煽りにある「いまいちばん泣ける小説」という文句はあからさまであるが、作品の性質を的確に表現している。

 ディック作品との相似と相違

 私はこの短編集を読んで、ディックの作品を思い出した。一つの理由はディック作品『高い城の男』に東アジアの文化が登場するからである。例えば『高い城の男』では易経思想が何度も登場する。ちなみに『結縄』の冒頭にも易経は紹介される。

 もっとも、『高い城の男』は例外的なのかもしれないが。それに『高い城の男』の東アジア文化の描き方はエキゾチシズム的でどこか的外れである。やはり、白人のアメリカ人が遠い東アジア文化を正確に把握するのは困難なのかもしれない。

 また『結縄』のソ・エボは、ディック『変数人間』のトマス・コールを彷彿とさせる。二人を詳しく説明しよう。村長のソ・エボは結縄の達人である。新種の稲との交換を条件に、彼はアメリカ人研究者に協力することになる。村は干魃に苦しんでおり、水が少なくても育つ米が必要だった。ソ・エボは結縄を読み解くようにタンパク質の構造解析をする。もっとも彼に理論的な知識はない。研究者が設計した構造解析ゲームを直感で解くだけだ。最終的に彼は構造解析に成功する。

 一方、トマス・コールは二〇世紀初頭の修理工である。理論的な学識はないが、なんでも修理することができる腕を持っている。未来人の手違いで、彼は二〇〇年後の世界に連れ去られてしまう。偶然、その未来では地球とプロキシマ・ケンタウリとの戦争の危機が迫っていた。そして地球側のコンピューターは緻密に戦争勝利の確率を計算していた。

 しかし、コールの出現によってコンピュータの計算は狂ってしまう。操作あるいは予測可能性の低い、確定しない要素=変数として彼は出現したのだ。紆余曲折を経て、コールは難航していた新兵器の開発に手を貸すことになる。超人的な修理の腕を買われたのだ。と言っても彼は理論を理解してない。ただ、配線をいじくるだけだ。自分の直感に沿うように。

 結論から言うと、コールが兵器を完成させることはなかった。代わりに、彼は超光速航法を実現させる。直感に従い、作業をしたコールは兵器ではなく超光速航法を作り出したのだ。彼はその報酬として元いた時代に戻ることになる。

 

 実践的な人間が理論の助けを得ずに大きな技術的進歩を成し遂げる、という点で二つの作品と主人公は共通している。しかし、コールと大きく違うのはソ・エボが理論の側に大きくやり込められていることだ。

 ソ・エボは見事、タンパク質の構造解析に成功する。そこでアメリカ人研究者が手渡したのはDNA操作された品種だった。しかし、その品種の稲穂からとられた種籾はうまく育たないように遺伝子操作されていた。そのため毎年、新しい種籾を買わなければならいのだ。またアメリカ人研究者はソ・エボの構造解析方をアルゴリズム化する。そのせいで、もはやソ・エボは構造解析に必要ではなくなった。ソ・エボは構造解析によって種籾代を稼ぐことも不可能になったのである。

自動化、ロボットへの懐疑、憎悪と人間の悲しみ

 いわば、ディックはコンピューターに対する人間の直感の優位を描写したが、ケン・リュウはその直感すら自動化可能ではないかと示したわけだ。現実的にも直感や実践を理論化、アルゴリズム化することは、決して不可能なことではない。

 そしてその二人の見立ての違いは作家の感性というよりも時代によるところが大きいだろう。例えば『変数人間』(短編としての)の出版は1953年であるが、登場人物の一人シェリコフはコールにこう仕事を頼む。

 (前略)ロボットも使ってみたが、この仕事にはたくさんの意思決定が要求される。ロボットには意思決定ができない。反応するだけだ」

『変数人間』438頁。

 反応の積み重ねこそ実は意思決定の正体なのではないかという疑念はそこには存在していない。SFの想像力を持ってしても、まだコンピューターの計算能力すら未発達な当時に、そのような疑念を呈することは困難だっただろう。読者の側にとっても全くリアリティを感じられない問題提起だったろう。しかし、現代の我々は違う。AIが人間と同様な、あるいは人間以上に複雑な意思決定(または反応のかたまり)ができる世界はさほど現実離れしてはいない。

 そして、これは『愛のアルゴリズム』で主人公が抱える問題意識にもつながってくる。同作の主人公はAIと同じように人間もアルゴリズムに従っている、つまり脳内の電気信号で自動的に行動しているだけではないか、という疑念を抱く。主人公は次のように独白する。

 

 アルゴリズムは確定したコースを走る。われわれの思考は、そのアルゴリズムに次々と従う。軌道上の惑星とおなじように機械的で予想可能だ。時計屋が時計だった

『ケン・リュウ傑作短編集 紙の動物園』 190頁。

 ここで考えなければいけないことがある。何故、直感あるいは人間の行動の理論化が反発を受け、場合によっては憎悪されるのかである。人間がAIと同じではないかという問題が重要なのかについても同じである。考えようによっては、この二つは問題ですらないのではないか?

 まず前者の問題から考えよう。例えばアルゴリズム化やそれによるロボット化は、価格の低下をもたらす。つまりより多くの富やサービスを享受できる。それなのに、何故、私たちはしばしばマニュアルや自動化に嫌悪感を抱くのだろうか。

 一つには失業が挙げられるだろう。例えば、産業革命期の労働者は機械打ち壊し、ラッダイト運動を起こした。現代でもAIやロボットの導入による失業が叫ばれている。だが、これだけではとても説明がつかない。そのような実利的な問題とは全く別な精神的な理由がある。

 それは簡単に言ってしまえば誇りである。人間は、人間だけができるということに誇りを見出す。例えば、『変数人間』には決められたことしか出来ないコンピューターへの侮蔑と自由意識を持ち、予測不可能で未来を変えられる人間への礼賛が読み取れる。シェリコフの別の発言を引こう。

「結局、戦争は統計的予測なしでもやれる。SRBコンピューターは予測するだけだ。コンピューターは機械的な傍観者でしかない。コンピューターだけで戦争の成り行きは変えられない。戦争するのは人間だ。コンピューターは分析するだけだ」

『変数人間』433頁。原文には人間に傍点が添えられている。

 言ってしまえば、一種の人間至上主義である。実利に関係なく、人間だけができることがなければ困るのである。その事態は人間の誇りを奪い取るものであるからだ。例えば一昔前の日本人が、外国人横綱の登場に困惑したように*2

 そしてその人間だけができることによる誇りは、人間の思考とAIに差がなければならない、差があるはずだという後者の命題と関係している。そしてその差は否定的というより肯定的な価値を持つものだろう。例えば、人間はAIよりも創造的なことができるなど。いわば能力が存在、もっと言えば存在価値を規定しているのだ。

 

 また私達は、人間がある程度の自由意志を備えているという共通の仮定のもとで、生活を営んでいる。もし、裁判で犯人がこう言ったらどうだろう?

「私の脳が犯罪をおかすようになっていたんです、私にはどうしようもなかった」

 あるいは恋人がこう言ったらどうだろう?

「君と付き合っているのは自分の脳の電気信号がそうさせているんだよ。それが愛の正体だ」

 どちらも共通の仮定、既成観念からかけ離れている主張だ。人間とAIが大差ないのではないか、という考えは既成の正義や愛の観念を激しく揺さぶる。そして私たちは既成の正義や愛を(それが科学的に正しいかどうかは別として)そう簡単には捨てられないのである。

 

 ディックの素朴な人間至上主義に対して、ケン・リュウの作品群はその点極めて現実的である。すなわち、AIやロボットに対する人間の優位性、独自性は虚構にすぎないことを描写している。それらは模倣可能なものにすぎない。だが、現実的であると同時に、冒頭で言ったようにリュウの作品群は感傷的でもある。

 そして『結縄』や『愛のアルゴリズム』からは人間が優位性、独自性を失うことに対する戸惑いや嘆きが読み取れるのである。彼は単に、人間なんて電気信号で動かされてるだけだよと突き放しているわけではない。だからこそ、彼の作品は読者を引きつける。こじつけて言えば、合理的に割り切れず、既成観念を捨てられないことが人間らしさなのかもしれない。

 

 文責 雲葉 零

 参考文献

『ケン・リュウ傑作短編集 紙の動物園』ケン・リュウ 古沢嘉通 編・訳 早川書房

『変数人間』フィリップ・K・ディック 大森望・編 早川書房

*1:『ケン・リュウ傑作短編集1 紙の動物園』256及び257頁。

*2:敢えて人種差別問題と対比して考えたのは意図的なものである。何故ならば、考えようによってはわざわざ人間と高度なAIを区別して考える必要はないからである。それは一種の偏見である。