ソガイ

批評と創作を行う永久機関

掌編小説 『遊具』 雲葉 零

『遊具』      

 蜂の巣状のように、あるいは安普請の集合住宅のように部屋がびっしりと詰まって区切られている。部屋の仕切りは合板で、殴れば壊れるようなちゃちなものである。周囲を見渡すと、左右それぞれに階段があり、上下に続いている。階段もやはり合板でできている。試しにいくつか登ってみても切りがない。しょうがなく、ある階で止まって、一つ扉を開けて見る。畳敷きの部屋の中では、親族たちが宴席を開いていた。親戚づきあいなどする質ではないから、仲間外れにされたと怒るつもりはない。しかし、奇妙だったのは彼らが僕のことなど全く無視していたことだ。手づかみで刺し身をつまみ食いし、ビールを飲んでも何の反応もない。 手持ち無沙汰から、窓のほうに目をやると、白い金属状の平べったい物体が見えた。ヘラのような形状だと言えば分かりやすいかもしれない。その広さは六畳は優にあるのではないか。初めは宙に浮いているのかと勘違いしたが、先を見ると巨大な支柱がある。ヘラはそこにつながっているのだ。そして支柱に近づくにつれて、棒状に細くなっていた。  

 窓枠にほとんど接していることもあり、僕は無意識に足を載せてしまう。両足を載せ終わったその途端に、初めはゆっくりと、それからどんどん速く、その物体は回転をし始める。部屋の中では親族たちが手を振り始めていた。窓から部屋へ飛び込もうとすることもなくぼんやりとしていたが、あまりの回転の速さに恐怖を感じ始める。だが、もう遅い。振り落とされないようにうつぶせになるが、掴みどころがないので、少しも安定しない。顔だけ上げていると、白い支柱に黒字で遊具と書かれているのが見て取れた。

 遊具はますます回転の速度を上げている。遠くに、現実離れした巨大な大きさの銅像が見える。まるで独裁者の銅像のようだ。その銅像の人物はスーツを着ていて、プレートには有馬里三と名前が書かれている。有名な作家だ。教科書にも載っているので、ちょっとませた小学生だって知っている。その時、何故かこの人物が遊具の設計者であるという閃きが浮かんだ。こんなふざけたものを考えつくのは作家ぐらいしかいない。 しかし、その憤りと同時にだんだんとこの遊具にも慣れて、ちょっと楽しくなり始めていた。折しも、夏であり風に吹かれるのは気持ちがいい。しばらくすると、通っている大学近くのホームセンターが目線に入ってくる。父親と幼女が植物コーナーで買い物をしていて、微笑ましい。そこで、はたと大学が近くにあるという恐ろしいことに気づいて、物見遊山に来たような気分が一瞬で吹っ飛んだ。やたらと高いビル群で構成されているあの大学に、こんな遊具で突っ込んだら衝突するのは目に見えている。どうすべきか少し考えたが、答えは出なかった。

 いつのまにやら、今度は遊具の速度が落ちてきているようだった。それにどんどんとヘラが地上へと近づいてきている。おまけに傾き始めているので、するすると滑り落ち始める。ここで脱出するしかないと、ヘラから僕は滑空した。とっさに受身の体勢を取る。五メートルほどの高さがあったと言うのに、地面に落ちた時にそれほど痛みはなかった。中学生の時に少しだけだが柔道を習っていた経験が、ここで生きたのかもしれない。あるいは遊具らしく、僕には見当もつかないような安全対策が施されているのかもしれない。

 部屋中に設置された電子計算機が唸りを上げ、熱を吐いている。南が吸うタバコの煙が部屋に充満する。扇風機がついてはいるが、煙草の煙をかき回しているだけで、たいして効いていない。挙句にはゴミが充満するひどい部屋の中で、僕は汗を拭いた。やっと計算機から出力された紙を手にした南いわく、僕が言ったような遊具は物理上ありえないのだという。僕が乗った平面上の部分が高速回転すると、その遠心力に支柱が耐えきれないはずらしいのだ。僕の証言が不正確なことを考えて、いろいろな条件で物理解析をしてみたが、どうやっても二つも桁が違うほどの強度不足を生じるらしい。

「しかし本当にそうだったんだよ」

 何の理屈付けにもなっていない僕の弁明を、南は訝しげに聞いていた。部屋の片付けはろくにできない奴であるが、これでも奴は工学部随一の秀才である。確か、奨学金を貰っていたはずだ。物理現象に関して、奴が言うのなら当たっているのだろう。夢でも見ていたのではないかと、問われると僕には反論することができない。そんな時に、部屋の木戸を静かに叩く音が聞こえた。南が開けると、黒いスーツを着た中年男性が立っていた。右手には紙袋を持っている。しかしサラリーマンとは雰囲気がまるで違う。彼はこの度は申し訳ありません、と僕及び南に一枚ずつ名刺を渡す。 雑誌国民文学 編集  白石  とだけでかでかと書かれていて、会社内での部署や電話番号が一切ない。それから彼は半ば無理矢理に部屋の中に入ってきて、間髪をいれずに説明を始める。有馬先生の遊具が被害を及ぼしたことを心からお詫びします。先生に悪気がないことをご理解くださいと。そして紙袋からウイスキーと菓子折りを取り出して、ほんの気持ちですのでお受け取りくださいと頭を下げる。 やはり、あれは有馬里三の仕業だったのかと、僕は得心したが、南はそうではなかった。そのような遊具は物理的に存在しないはずだと、詰問を始める。白石編集は南の問に、大意以下のように、にこにこしながら返答した。先生の遊具は小説的原理に基づいているので、一般の物理現象を超越するのです。ニュートンやファラデーあるいはローレンツなどは優秀な物理学者でしょうが、小説家ではありません。よって、彼らの理論は、先生の小説的遊具の前に無意味なのです。ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学が相容れないように。

 南は白石編集の言葉に納得できかねるようにしきりと首を傾げている。そんなことはお構いなしに、白石編集はコップはありませんかと聞くこともなく、そこら辺に転がっていたグラスを洗って用意した。それからグラスにウイスキーを注ぐ。僕達に何かを言わせる間もなく、どうぞ、どうぞと笑いながら南に注ぐ。下戸の奴はあっという間に気持ちよくなってしまった。

 次に白石編集は僕の方にも酒の入ったグラスを差し出したが、固辞した。遊具のからくりには納得したが、有馬里三を許したわけではないからだ。暫くの間、白石編集と南は愉快そうに酒宴を楽しんでいた。こうなってくると、少し腹立たしくなってくる。どうにも、振り回されたものと、振り回されなかったものの間には越え難い壁があるようだ。これでは振り回され損ではないか。

  一体どれぐらいの時間が経ったのだろうか。僕は眠り込んでしまったようだ。日が暗くなっていくる。それに暗澹とした気持ちでいるうちに、奇妙な来客は帰って行ってしまっていたようだ。ウイスキーの瓶と菓子折りが空になっている。そして、僕は白石編集の顔が銅像の人物そのものだったことにようやく気づいた。

文学フリマでフリーペーパーを配布します

 11月23日(木祝)に開催される第二十五回文学フリマ東京で、ソガイのフリーペーパーを配布します。借り猫文学会という同人サークルの一角を間借りさせて頂く形で。だいたい字数は二万字ぐらいになりそうです。

 ブースはA-17に決定しました。フリーペーパーの内容は以下のとおりです。

 宵野雪夏 谷崎潤一郎春琴抄の書評

 雲葉零  教養についての論考

 また同ブースで販売している小説集『anthology 都市と嫉妬』にも二人で参加しています。こちらは有料ですが、気軽に手にとってお読みください。

 

 文責 雲葉 零

たまにはこんなコミックレビュー HERO『雨水リンダ』

  おそらく最近では、『ホリミヤ』の原作『堀さんと宮村くん』のひととして有名であるHEROだが、私とHEROの出会い、というか付き合いは、現在単行本として第9巻まで出ている『HERO個人作品集』が主である。このひとの作品、きみに合っていると思うよ、と友人に勧められたことがきっかけだった。

 大きな事件を描くわけではない。この作家の描く物語の主人公は主に学生で、彼/彼女は各々の等身大の悩みを抱えている。語弊をおそれずに言うならば、それを、思春期にはよくある悩み、と言い換えてもよいだろう。そして、物語は教室、家、自室など、主人公のほんの身の回りの空間で進行されており、空気はどことなく閉塞的である。その意味では、よくある思春期の自意識系の話ともいえるかもしれない。

 しかし、それは心内文が饒舌で、ついうじうじしがちなものとは、少し違うのではないか、と私は思うのだ。なにせ、心内文でも、彼/彼女たちは少し口べたのように感じられるのだ。

 ややラフなタッチの絵で描かれ紡がれる物語は、登場人物たちの内面を代弁するのではなく、そっと撫でて、しかしときにちくりと刺す。優しいだけではない。守られているだけでは、ひとは成長しない。刺激が必要なのだ。そんな当たり前のことを、思い出させてくれる。

 彼/彼女らの悩みは、端から見れば些細なものかもしれない。なんでこんなことで深刻になっているんだ、と。しかし、悩みというもの、ひいては世のなかの問題というのは、そういうものではないだろうか。他人の悩みは大抵ちっぽけなものに見え、逆に自分の悩みは、他のだれのものよりも大きく思える。悩みというものは、どうしても内側に向かう性質にあるらしい。わからないことと、わかってもらえないこと。このふたつは、結局同じ。つまり、彼我の差なのだ。

 この差をどう越えていくのか……そんな風な表現で表そうと思ったのだが、これは少し違うな、と思い直す。乗り越えるのではない。その差を意識しながらも、お互いにほんの一部のものを共有すること。そして、そのために必要なのは対話である。これこそが、HERO作品のテーマらしきもののようにも思うのだ。

 この諸短編のなかでHEROの作中人物は、(ほんの一部例外はあるが)わかること/わかってもらうことを通じて、自分をすっぽり覆っていた薄い膜に小さな穴をあけていく。けっして、完全につながるわけではない。当然だ。他人は結局のところ他人なのだから。しかし、そうやってあいた穴からは、まず淀んだ空気がぷしゅぷしゅと少しずつ抜けていき、そしてそれを補うように、外の、つまり他人の異質な空気が入り込んでくる。HEROの登場人物は、個から全、という簡単に大きな物語に回収されるのではなく、あくまで個を保ちながら、しかし対話を通じて、新鮮な空気を作り上げていくのだ。

 ある意味で、HEROの物語は「換気」の物語、と言い表すこともできるかもしれない。「換気」とは言うが、実際の換気がそうであるように、すべての空気がそっくり新しいものに入れ替わってしまうのではない。もともとあった空気も多少は残っていながら、全体としては新しい空気を作り上げるのだ。読後のさわやかさは、ちょうど小春日和の日に部屋の空気を入れ替えた後の、少し肌寒くて、でも心地よい。そんな感じに似ている。

 1ページをたてによっつ、横長の長方形に区切った四コマ漫画のようなシンプルなコマ組のなか、HEROの作品の最後は、(あるいは数あわせのコマなのかもしれないが)一色ベタ塗りのコマが使われる。あまり背景を書き込むことはない(特にこの作品集は、背景が真っ白であることが多い)HERO作品において、こういったコマは視覚的にかなり目を惹く。これは文字通り、彼・彼女たちの世界が、新たな空気を受けて色づいたことを表していると言えよう。

 

 さて、前置きが長くなったが本題に入る。『雨水リンダ』は現在三巻まで出ていて、ガンガンONLINEで現在も連載中の、いわばHEROの最新作である。ここでも、基本的に作品の構図は変わらない。横長の四コマ漫画を並べていくような単純なコマ組みに、トーンも必要最小限しか使っていないんではないか、と門外漢ながらにも思う乏しい濃淡。一見すると物足りない、と思うのが自然かもしれない。(作品集の方はカラー刷であるため、そのすっきりさは作品集をひとつもふたつも上回る)

 手芸部、という名のオカルト同好会を結成して、放課後の廃校舎(やはり閉鎖的空間である)で活動している五人の男女。部員のひとりが古書店で見つけた本に書かれていた「人形の作り方」を実践する。その人形の構成要素となるものを、各々の部員が持ち寄る。「枝」は骨、「布」は皮、「食物」は臓物、「無機物」は声、そして、「雨水」は心。ひとの形に配置した前4つのものに、雨水がぶっかかる。そうして生まれた「人形」は、心である「雨水」を持ち寄った部長のリンダそっくりの容姿の雨水人形、のちに雨子と名付けられるものだった。

 雨子は、容姿はリンダと同じだが、幼子のような言動をする。ただでさえ気味悪がられて活動拠点を廃校舎に追いやられ、看板を偽ってなんとか活動している曰く付きの同好会であり、雨子の存在が明るみに出たら活動ができなくなる。しかし、心の持った人形を壊すこともできない五人は、廃校舎に雨子をかくまうことにするのだった。

 高校を舞台にした作品らしく、やはりこの作品も、主に学生たち、手芸部の五人に雨子、そして風紀委員の小松の恋愛模様を中心に展開されていく。しかし、それは『ホリミヤ』の読者からすると意外に思われるだろうが、『雨水リンダ』の恋模様は淡く仄かなものであって、甘酸っぱさといったものからは、少し離れているかもしれない。もっとも、それにはこのシンプルな構図も関係しているのかもしれないが。

 だれがだれのことが好き、と自己言及的に明言されることはあまりなく、また、大事件として描かれることもない。会話や空気を通して、なかにはほんとうになんとなく、といった感じで分かってくるようなものである。

 リンダにいたっては自分の恋心を自覚できているのかすら疑問で、リンダとどこかで心を共有する雨子が、つたないながらに小松に恋心を抱いて揺れ動くのを近くで見ているとき、リンダは半分は雨子を、そして半分は自分を見ているのだ。しかし、ふたりの想い人は異なる。これをどう考えるか。

 私は、リンダにとって雨子は、限りなく自分に近い他人であり、限りなく他人に近い自分であるような気がする。そしてそれは、やはりリンダの世界に新たな風として流れ込んでくるものなのではないか。廃校舎の一室。閉鎖された空間。リンダの外である雨子が生まれたとき、この閉じた世界には新たな色がつき始める。

 廃校舎の閉じた人間関係に、雨水人形。黴っぽい、埃っぽい、湿っぽい空気。しかし、やまない雨はない、という言葉があるように、雨のにおいは晴れやかな雨あがりの予告でもある。雨があることで、空気は澄む。これもひとつの「換気」の物語ではないだろうか、と私は思う。

 しかし……、とするとこの物語は「雨があがる」方向に進むことになる。雨があがったとき、雨子は――

 

(文責 宵野)

書評 ジョン・アーヴィング『ピギー・スニードを救う話』

異端者 ジョン・アーヴィング

 著者ジョン・アーヴィングは現代アメリカ文学の旗手である。『熊を放つ』、『ガープの世界』、『サイダーハウス・ルール』など日本でも有名な作品が多数ある。ちなみに『熊を放つ』 (中公文庫) の翻訳者は村上春樹である。アーヴィングの文学観は以下のインタビューでの発言によく現れている。

(前略)前に、二十世紀の最高の作家は誰かという投票みたいなものを『TIME』がやっていてね。文芸評論家が選んだのがジョイスだった。勘弁してくれよ。『若い芸術家の肖像』、確かにあれはいい本だ。でもそれ以外は? 自己満足の頭でっかちのごみだよ。いま文芸誌に載ってる手合いの、大学院の創作科の授業を思い出しながら書いてるようなものと一緒だよ。

 僕はごめんだね。長旅に出るときに『ユリシーズ』や『フェネガンズ・ウェイク』を持っていくかい? 読みたいのはまともな本だよ。ディケンズジョージ・エリオットやハーディの書いた本だよ。自己中心的なインテリが書いたオナニー本じゃない」*1

 皮肉が効いていてユーモラスな文章である。『ユリシーズ』や『フェネガンズ・ウェイク』にオナニー本という評価を下したのはアーヴィンぐらいではなかろうか。心の中で思っても、ジョイスの評価の高さを知っていたらなかなか口に出せることではない。

 このようにポストモダン文学を腐し、ディケンズに対して賞賛を惜しまないアーヴィングの態度は現代文学では異端的である。またアイオワ大学創作学科ではSF作家カート・ヴォネガットの指導を受けた*2

 本著はそんなアーヴィングの短編七つと批評一つで構成されている。一つしかない批評はディケンズについてのものである。アカデミズムやあるいは批評家には感傷的すぎるとして受けが悪いディケンズを、アーヴィングが一生懸命擁護しているのが印象的である。個人的には、村上春樹のファンがこのような気持ちになっているのかもしれないなと思った。短編の数が多いので、本稿では、特に印象に残った短編二つを書評する。

 

『ピギー・スニードを救う話』

 表題作。本作は語り手の回想という形で、語られる。語り手は作家であり、またニューハンプシャー州エクセター生まれであると明示されるので、著者アーヴィング(彼もまたニューハンプシャー生まれである)との同一性が醸し出される。だが本短編の冒頭にはこのような文章が付されている。

 これはメモワールである。だが(まともな想像力を備えた作家から見れば)どんなメモワールにも嘘がある。なかんずく小説家の記憶などというものは細かな嘘を垂れ流すようにできていて、どうせなら実際の記憶にあるよりも好ましく書いてしまおうと想像力を働かせるのが作家というものだ。しかるべく、書かれた細部が現実と合致していることのほうがめずらしい。もう少しで、現実になったかもしれないこと、なるべきだったことにこそ、真実は宿るのである。*3

 語り手が言うように、自伝や回想には嘘がつきものである。この語り手が特異なのは、そのことを自分が回想する前に、わざわざ読み手に思い起こさせていることである。また、この文章は、本短編後半での、語り手の回想に大きく関わっている。

 題名となっている、ピギー・スニードは生ゴミ回収を営んでいる男性の名前である。ピギーはブタちゃんという意味だ。その名前の由来は彼が養豚農家であり、豚舎で豚と一緒に暮らしたことにある。回収した生ゴミはそれらの豚に食べさせるのだ。彼が住んでいるのは小さな町ストラタムの外れであった。

 ピギー・スニードは、著者が幼い頃過ごしていた祖母の家にもゴミ回収にやってきた。ストラタムと祖母の家はたいして遠くないからだ。彼はひどい体臭を放ち、言葉を喋れず、知能に障害があった。祖母はそんな彼に優しく接するが、子どもたちはそんな彼をいじめの標的にする。

 語り手のピギー・スニードについての描写は極めてユーモラスであり、また哀愁を誘うものである。そして、語り手を含む子どもたちも悪意だけではない感情をスニードを抱いている。敢えて言うならば、好意と言うことになるのだろうか。いじめの標的にしておいて、好意があるというのはとんでもない状態である。だが、世の中には往々にしてそういうことがあるのではないか。少なくとも、全てのいじめっ子が相手に対して殺意に近いような強い悪意を抱いているわけではないだろう。

 もちろんそのユーモラスや好意は、スニードが知的障害を負っていたり、言葉を喋れないという点と深く関係している。端的に言えば、障害者を馬鹿にしているという批判は免れないだろう。しかし、残酷さとユーモラスや好意は決して相反するものではないのかもしれない。そして、悪意と好意も同様かもしれない。そしてそのことは論文や評論では中々描きづらく、小説だからこそ描写できる現実なのではないか。本短編を読んでそのようなことを思った。

 やがて、語り手は祖母と暮らした街エクセターから、一〇キロほど離れた街へ引っ越す。高校生になった語り手は、近隣の町ストラタムの消防団に加わった。子供の頃過ごした街のスニードを知っている仲間たちと一緒に。とはいっても、ストラタムで大きな火災が起こらなかったこともあり、語り手が活躍する機会はなかった。

 しかし、ある晩大きな火事が起きる。火元は件のピギー・スニードの家であった。火勢が強すぎて、スニードを助け出すことなど到底できない。あるいはもうとっくに死んでしまっているかもしれない。

 そんな状況下で語り手は、スニードが実は助かったという話を紡ぎ始める。やりきれなさから語りだした、何の根拠もない法螺話である。話しているうちに、スニードの逃亡先もフロリダからヨーロッパへと変わる。より、もっともらしい話にするために。彼と同じようにやりきれなさを抱えている、子供達も徐々にその話に調子を合わせていく。

 しかし、結局スニードは死体となって発見された。

 後年、作家になった語り手は、祖母にスニードの火事のことを話す。創作の上で彼を救おうと試みたことも。祖母はスニードが生きていた時に優しくしていれば、そんなことをする必要はなかったのにと指摘する。

 それができなかった私は、いまにして考える。作家の仕事は、ピギー・スニードに火をつけて、それから救おうとすることだ。何度も何度も。いつまでも*4

  語り手が、回想の中で作り話を語るという構造はそれはそれで面白い。だが、私にはそれ以上にピギー・スニードと語り手及び仲間たちの関係性のほうが興味深く感じられた。ユーモラスで感傷的な小説である。

 ちなみに本短編の原題は『Trying to save Piggy Sneed』である。訳者の小川はこれを『ピギー・スニードを救う話』と訳している。だが、どうにも私には直訳調に『ピギー・スニードを救おうとすること』とでも訳したほうが良いように思える。trying toを話と訳してしまうと、大事なニュアンスが消え落ちてしまう。すなわち、救えなかったピギー・スニードをなんとか救おうとするニュアンスが。

 

『ペンション・グリルパルツァー』

 語り手の父親オーストリアの観光局に勤めている。また、その関係から、ホテルやペンションの調査をしている。身分を隠して、ホテルなどのサービスが行き届いてるのか調べるのだ。そして格付けをつける。語り手を含む一家全員でその調査をしている。

 語り手の家族は以下のような構成だ。語り手から見て、祖母、父、母、語り手自身、弟。ある日、語り手達はペンション・グリルパルツァーを調査することになる。そのペンションには熊が出現するという奇妙な噂があった。

 ある一室を語り手が「がらくた博物館の小型版」と評したように、ペンション・グリルパルツァーは古びた宿屋であった。そのペンションには奇妙な住人がうようよしていた。祖母が昔見た夢を何故か見通している男とハンガリー人の歌手。逆立ちして移動する男。そして、熊とその女調教師。

 当然、語り手達は宿の主人に、彼らのことについて問い詰める。主人によると彼らは元ハンガリーのサーカス団で、女調教師は自分の女兄弟*5だと言う。また、逆立ち男は脛の骨がないので逆立ちするしかないということも分かった。ソ連から妹を救ってくれたということもあり、主人は彼らをここに居候させている。

 帰り際には、一輪車に乗った熊が語り手達が乗ってきた車に激突する始末。おまけに車の距離計が伸びていた。熊も含め、居候達が勝手に車に乗ったのだ。

 後年、語り手は妻と一緒にペンション・グリルパルツァーを再訪する。ペンションには老けた女調教師しかいなくなっていた。ハンガリー人の歌手は惚れた女のところに行ってしまった。夢男は悪夢を見続けて入院させられた。主人は変装した熊を見て心臓麻痺。逆立ち男は、その逆立ちが祟ってエスカレーターで事故死した。世話が行き届かなくなった熊は動物園に寄付された後にすぐ死んでしまった。

 かなり長々と短編の紹介をしてしまったが、奇妙で逸脱した人物と熊が出てくるので仕方あるまい。そして、この短編ではその奇妙さと逸脱を喪失する悲しみが描かれている。再訪の帰り際に語り手はあることに気づいた。

 車に乗ってから、さらに私は気落ちすることになった。距離計に一キロの伸びもなかった。一キロたりともこっそり走らされてはいなかった。そういう勝手なことをするものが、すっかりいなくなっていた*6

 ペンションの居候が勝手に車を走らせていたら、普通は怒るものだろう。しかし、勝手さも極まれば魅力となるとでも言うのだろうか。身勝手極まりないとは人を非難する際に使われるが、この場合は褒め言葉である。量的に極める、著しいというよりも、味のある身勝手と言えば分かりやすいかもしれない。少なくともどんな一流ホテルの従業員だって、彼らほどの印象は残せないことは確かだ。どんな一流ホテルだって、居候の熊はいないだろう。

 この微妙な居候たちに対する好意は、語り手だけでなく語り手の父も共有していたものと見ていい。父は、このような目に遭ったのにペンションの格付けを引き上げているからだ。

 しかし、彼らの存在は世の中に受容されるものではなかった。ハンガリー人の歌手はそうでもないかもしれないが、彼らは次々と死ぬか、冷遇の憂き目に遭っている。それは単なる偶然ではない。逆立ち男の事故死に対する、語り手の感想が端的にそれを示している。

 (前略)この世の中、機械は逆立ち用に出来ていない。はからずも残酷になりがちである*7。  

 逸脱者は世の中に馴染めない。それどころか排除される。意識的ですらなく、無意識的に。マイナスのネジにプラスのドライバーを突っ込んでもどうしようもないように。一体、誰が逆立ち用のエスカレーターなんて考えるだろうか。この短編はユーモラスにかつ感傷的にそのことを描いている。

 

総評

 期せずして、取り上げた短編二つとも奇妙な人物が深く関わっているものになってしまった。私の好みが反映されているのだろうが、何も本書はそのような短編ばかりではない。例えば『疲れた王国』はかなり落ち着いた雰囲気の短編である。

 全体的に言えるのはユーモア精神と感傷性に溢れているところだろうか。それでいて自虐的というわけでもない。片方ならばともかく二つとも備えている作家はそれほどいないのではないだろうか。ユーモア精神は、引用したインタビューからも伺えるだろう。また、『小説の王様』では感傷性を擁護している。

 アーヴィングと言うと長編のイメージが強いが、これらの短編も一級品である。文庫本になっていて入手しやすいし、気になった方はぜひご一読を。

 

文責 雲葉 零

 

引用文献

『ピギー・スニードを救う話』ジョン・アーヴィング 著 小川高義 訳 新潮社 1999年

『日本一怖い!ブック・オブ・ザ・イヤー2006』ロッキング・オン 2005年

*1:『日本一怖い!ブック・オブ・ザ・イヤー2006』50ページ

*2:『ピギー・スニードを救う話』作者紹介欄。

*3:『ピギー・スニードを救う話』8ページ。

*4:『ピギー・スニードを救う話』31ページ。

*5:原文ではsisterらしいので正確を期するなら、座りが悪いがこう言うしかない。

*6:『ピギー・スニードを救う話』250ページ。

*7:『ピギー・スニードを救う話』248ページ。

「小説の筋」論争からみた、芥川と谷崎

 最近、『文芸的な、余りに文芸的な/饒舌録ほか』(講談社文芸文庫)という本が出た。言うまでもなく、芥川龍之介谷崎潤一郎との間に起きた「小説の筋」論争に関連する文章を編纂した本である。私はそれなりの時間をかけて、この「小説の筋」論争について勉強していたこともあり、収録されている文章はほとんど読んだことのあるものだった。この本の編者は、千葉俊二氏。従来見過ごされていた、「大正期のスランプ」の谷崎研究のパイオニア的存在で、この度完結した『谷崎潤一郎全集』(中央公論新社)の編者でもある氏の、これは補遺的な仕事のひとつ、ということもできるかもしれない。

 そもそも、 私がこの論争に興味を抱いた理由として、ひとつは、谷崎潤一郎が好きであること、もうひとつは、この論争が「純文学/大衆小説」という現在にまで連なる区分に、大きな示唆を与えてくれるのではないか、と思ったことがあった。

 恋愛小説、SF小説、ミステリー小説、などのような物語の内容を具体的に表す「ジャンル」とは異なり、純文学と大衆小説(エンターテインメント小説)という言葉は、その物語の内容を表してはいない。それでありながら、「純文学だから難しい」「あの作品はエンタメだから」などと、この区分によって作品が語られる場面は非常に多い。たとえば、村上春樹を純文学というひともいれば、エンターテインメントだ、というひともいる。この問題に正解はあるのか、ないのか。

 このふたつの区分は、正直なところ定義がはっきりしない。よく言われるのが、掲載誌。「文學界」「群像」「新潮」などの文芸誌に載っているのは純文学であるとする考え方だ。しかし、文庫書き下ろしが増えているいま、その定義も怪しい。そういえば、新潮社の「純文学書き下ろし」シリーズというものもあった。あるいは、今村夏子のような作家は、この定義においてはどうしても例外的存在になってくるだろう。

 もうひとつは、純文学は芸術性を追求した小説で、大衆小説は読者を楽しませることを主目的とした小説である、という定義だ。とりあえずこう説明しておけば、お茶は濁せそうである。しかしこれだって、だいぶ怪しいものだ。*1少なくとも私には。それが楽しくなければ「純文学」とされているものなど、わざわざお金や時間をかけて読むことなどしないし、大衆小説が楽しませることが主目的ならば、(多少は触れるとはいえ)私がドラマや映画、マンガなどの他ジャンルにそれほどまでの関心を示さないのか、説明がつきそうにもない。

 もし、この国における「純文学/大衆小説」の区分を確固たるものとしているものがあるとすれば、芥川賞直木賞という、世間的に最も権威のある文学賞であろう。その半年の間に発表されたなかで最も優れた新人作家の純文学作品に与えられる芥川賞、中堅作家の大衆小説に与えられる直木賞。1年に2回、と、ある意味日本で一番受賞しやすい文学賞が、「純文学/大衆小説」という区分の権威、ひいては、その区分の存在を強く根付かせている。

 もっとも、こんなことはいままでも散々言われていることで、とくに目新しさはない。ただひとつ、「小説の筋」論争と絡めていうならば、「『話』らしい話のない小説」という、心境小説(いま純文学といわれているものは、この系列に近い)を志向した芥川龍之介は、純文学の賞として文字通りその名を残し、小説とはそもそも民を楽しませるために作られたものであり、「構造的美観」こそが小説の特権である。これから私は大衆小説を書いてみせる(『乱菊物語』)、とまで豪語した谷崎潤一郎が、早い時期から直木三十五歴史小説を評価していたこと。終に長編小説を書くことができなかった芥川*2の名を冠するこの賞が、短・中編作品を対象としていて、大衆小説を推した谷崎が、芥川の自殺後、『源氏物語』の現代語訳や大長編『細雪』に取り組み、事実直木賞は長編小説を対象としていること。こんなことを付け加えてみてもいいだろう。*3

 さて、この論争の経緯や、個々の作品からこの問題を論じてもよいのだが、それは別の機会に譲りたい。というのも、実は、私自身、この論争のことについて調べていたときに特に印象に残ったことのひとつは、芥川の自殺によって打ち切られることになったこの論争中の、芥川と谷崎の私生活におけるエピソードなのだ。

 このふたりの仲は、べつに悪いものではない。むしろ、良いとさえ言えそうだ。論争の方も、お互いの「話」の概念というか、意味するところがどうも食い違っていたせいかすれ違い続けた感はあるが、喧々諤々の口論というようには見えない。千葉氏も本書の解説のなかでこう語っている。

 

が、谷崎と芥川の論争は、文学論争といっても相手の議論を徹底的に攻撃して、相手を叩きのめすまでに説き伏せようとするものではない。それぞれ敬服しあい、お互いに相手の文学観を鏡にしながら自己の文学的立場を固めようとしたものだといえる。(p303)

 

 「饒舌録」にしても「文芸的な、余りに文芸的な」にしても、それぞれ単独で通読したときとは違った印象を受ける。たとえば、先ほど触れた芥川の五月号での文楽への言及は、谷崎の七月号での人形芝居についての論を引き出し、四月号での谷崎の西洋と東洋との比較論は、芥川の六月号の「三十一「西洋の呼び声」」に呼応している。このように互いの論に触発されながら各々の文学談義を展開していることに気づかされるが、ほかにも文章の端々に互いを意識しながら書かれた箇所も少なくない。(p303-304)

 

 『芥川君と私』において、「芥川君と私とはいろいろな点でずいぶん因縁が深いのである。」と谷崎が語るように、芥川と谷崎には因縁、共通点が少なくない。下町生まれ、学校、反自然主義、檀家(現在ふたりは同じ寺の墓に眠っている)、さらには芥川の命日が谷崎の誕生日であること。偶然にしてもややできすぎだと思われるこの因縁こそ、むしろ小説じみていると思わないでもない。

 谷崎が芥川について語った文章のなかで最も感傷的なのが『いたましき人』である。もちろん、この「いたましき人」とは芥川のことを指しているのだが、この文章のなかでは谷崎も「いたましき人」として映ってくる。たとえば冒頭。

 

出来てしまったことをあとになって考えると、ああそうだったかと思いあたる場合が幾らもあって、なぜあの時にそこへ気が付かなかったろうと今更自分を責めるけれども、もうそうなっては取り返しがつかない。わが芥川君の最近の行動も、今にして思えばまことに尋常ではないものがあったのに、君がそう云う悲壮な覚悟をしていようとは夢にも知らなかった私は、もっとやさしく慰めでもすることか、いい喧嘩相手を見つけたつもりで柄にない論陣を張ったりしたのが、甚だ友達がいのない話で、故人に対し何とも申訳の言葉もない。(p283)

 

 最後に会ったとき、佐藤春夫といっしょに人形芝居を観たこと、芥川が谷崎を家に引き止めて夜通し話をしたこと、谷崎がタキシードに着替えると、「わざわざ立ってタキシードのワイシャツのボタンを嵌めてくれ」たこと、谷崎が欲しいとこぼしていた「即興詩人」を自分の蔵書から送ってくれたこと、最初から谷崎に送るつもりで丸善で買った「コロムバ」を手紙付きで送ってくれたこと。さまざまな記憶が、終始この沈痛な筆致で紡がれていく。この親密な交際に、ふとすると忘れてしまいそうだが、これらはすべて、論争中の出来事なのだ。

 「小説の筋」論争について個人的な意見を言わせてもえらえば、谷崎の主張は、それを支える具体例も含め説得力のあるものであるのに対し、芥川の主張、とりわけ「『話』らしい話のない小説」や「純粋な小説」という繰り返し述べられる言葉は、定義からしてはっきりせず、ついに具体的な説明まで及ぶことはなかった。*4谷崎に「左顧右眄」している、と言わせたのも、もっともである。あるいは、現実的である谷崎に対し、芥川の主張はどこか観念的で、実感が薄い。*5

 しかし、この時期芥川はすでに自殺の意思を固めていたことを考えれば、それもさもありなん。遺稿『或る阿呆の一生』を人生の辞世の句とすれば、『文芸的な、余りに文芸的な』は作家芥川龍之介の辞世の句だったのかもしれない。これからもずっと小説を書いていこうと思っている谷崎とは、心構えが違ったのである。

 谷崎曰く、自著以外を贈答することなどなかった芥川に立て続けに本を送られ、感謝しながらもどこか気にくわず、論争を再開させたことを振り返って、谷崎はこういう。

 

思えば芥川君は論戦なぞを少しも気にしていたのではなかった。死ぬと覚悟をきめてみればさすがに友達がなつかしく、形見分けのつもりでそれとなく送ってくれたものを、誤解した私は何と云うネジケ者であったろう。此の一事、私は今にして故人の霊に合わす顔がない。浅ましきは私のツムジ曲りである。

(……)

 聡明で、勤勉で、才気煥発で、而も友情に篤くって、外には何の申し分もない、ただほんとうにもう少し強くあってくれたらばこんなことにはならなかったであろうものを。思えばいたましき人ではある。(p285-286)

 

 白状すると、いまこのエッセイを読み直したとき、(ややお酒が入っているせいもあるかもしれないが)不覚にも涙をこぼしそうになった。芥川のことは、たとえば彼が「純粋な小説」の作家として賞賛した志賀直哉の『沓掛にて』にも書かれている。『奉教人の死』について、最後の最後で主人公が女であったことが判明するこの物語が、志賀に「仕舞いで背負い投げを食らわすやり方」だと批判され、「読者の鑑賞がその方へ引張られるため、そこまで持って行く道筋の骨折りが無駄になり、損だと思う」と評価された。これこそ、谷崎が論争のなかで主張した「構造的美観」を活かした小説であった。(映像作品において、受け手側に最後まで性別や容姿を勘違いさせることは、実はかなり難しい。そういった意味で、『奉教人の死』は極めて小説的な筋を持っている。夢野久作『死後の恋』、ナボコフ『絶望』などが私には思い出される。)

 このとき、「芸術というものが本統に分っていないんです」とこぼした芥川は、死を覚悟して、論争相手で友人でもある谷崎を前になにを思っていたのだろうか。残念ながら、芥川の口からその思いを聞くことは叶わない。

 そういえば最近、『芥川追想』(岩波文庫)という、芥川の自殺以後に多くの文壇人から語られた芥川についての文書をまとめた本が出版された。論争のきっかけとなった「新潮」の合評会で、谷崎の『日本に於けるクリップン事件』を批判する際に同種の問題を抱える作品として持ち出した自著の『藪の中』のように、芥川龍之介という人間は、語られる存在となっているのかもしれない。

 芥川の命日は、谷崎の誕生日である。昭和の始まりにおこなわれ、芥川の死によって打ち切られたこの論争の終結は、「大正期のスランプ」を乗り越えて大作家へと成長していく谷崎の誕生でもあった。『吉野葛』や『春琴抄』などの純文学/大衆小説の垣根を越えた作品の数々をみていると、本当にそう思う。

 いま、同じ寺の土のしたに眠るふたりは、なにを話しているのだろう。思い出話だろうか、それとも論争の続きだろうか。あまりお酒を飲まなかったという芥川だが、高血圧だろうがなんだろうがビフテキを食べようとする豪快な友人に引っ張られるようにちびちびとやり、ふたりよろしくやっていてほしい、なんて思ってしまうのは、教科書や便覧でみるあの神経質な表情ばかりではなく、調子に乗ってカメラの前で木登りをしてしまうお茶目な芥川龍之介という人間をもっとみてみたい、なんていう、私のわがままであろうか。

 

※引用の頁は、すべて『文芸的な、余りに文芸的な/饒舌録ほか』(講談社文芸文庫)による。

 

(文責 宵野)

*1:以上のように定義がはっきりしない、どこか主観的であるからこそ、たとえば春樹は純文学かエンターテインメントか、といった議論は水掛け論になってしまう。そして結論が出ないばかりか、互いにかえって強硬な姿勢を取らせるのであろう。つまり、おまえのいう「文学」と俺のいう「文学」は違う、と。これでは、ほとんど違う言語を使って話しているようなものだ。はなから、歩み寄ることを放棄しているに等しい。

*2:邪宗門』『路上』などの、芥川にしては長い作品はいくつかあるが、しかしどれも中断しており、完結はしていない。

*3:純文学/大衆小説問題については、芥川の自殺の8年後に発表された、横光利一「純粋小説論」も大きな議論のひとつだ。このなかで横光は、「純文学にして通俗小説」である「純粋小説」こそがこれからの小説の活路である、というのだが、通俗小説の要素である「感傷」と「偶然」を「四人称」を用いて純文学に取り込むこと。そのためには長編小説でなければならない。このように主張していることを考えると、純文学と大衆小説、芥川賞直木賞の長さについての問題も、あながち無視できない。

*4:そもそも、芥川はまず、一般的な定義とは異なる意味で用いている「話」という言葉について、しっかり説明すべきであった。谷崎は、芥川がいう「話」がよくわからないまま、しかしその言葉を使って論争を続けざるを得ず、すれ違い続けるのも当然のことだった。

*5:事実、この論争については、谷崎の方に理があるとする評価が多い。しかし、たとえば佐伯彰一氏は『物語芸術論』のなかで、谷崎の圧倒的優勢を認めながらも、結果的には芥川の小説論の方が強く生き延びたこと(純文学、ひいては「文学」という言葉から想像されるのは、芥川的な「『話』らしい話のない小説」のことではなかろうか)を指摘し、歴史的な勝者はむしろ芥川である、と述べている。

書評 『内側から見たテレビ やらせ・捏造・情報操作の構造』 水島宏明

内側からのテレビ批判

 この本は凡百のマスコミ批判本、マスコミを批判する言説と、少々趣が異なる。著者の水島がテレビの内側の人間、テレビマンを経験しているからである。水島の経歴は以下の様なものだ。

 1957年北海道生まれ。東京大学法学部卒業。札幌テレビでドキュメンタリー制作の現場に携わる。ロンドン、ベルリン特派員を歴任後、2003年日本テレビ入社。『NNNドキュメント』ディレクターを務め「ネットカフェ難民」の名付け親ともなる。芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2012年から法政大学社会学部教授。*1

 それゆえ、題名にもあるように業界の内側からテレビの問題点を批判的に考察している。マスゴミという言葉に表されるように通常(特にネットの)のマスコミ、テレビ批判は、場当たり的で情緒的なものが多いように感じる。すなわち、テレビの、誤報、やらせ、捏造、情報操作が起こる原因についての分析を欠いている*2。あるいは、根拠薄弱な陰謀論を展開するかである。

 対して、水島の批判はテレビ業界の内部事情を踏まえたものである。そのため、テレビ番組制作現場が細かく描かれ、ためになることが多かった。本書は内容に富んでいるので、特に印象に残った部分をかいつまんで紹介する。長さの都合上カットした、BPO、ドラマ、バラエティ、自殺、生活保護バッシングなどについても本書では取り扱っている。興味がある方は是非本で読んでいただきたい。

不幸を伝える仕事

 著者がテレビ記者をしていたおり、国道トンネルが崩落する事故があった。多数の死者が出て、数日間に渡っての特番が組まれた。特番は高い視聴率を得た*3。著者の放送終了後についての回想は極めてインパクトがある。

 (前略)終了直後、報道担当の上役が大量の缶ビールを抱えて現れた。フロアにいた全員に配った。

「よくやった。おかげで視聴率は圧勝だ。おめでとう! 乾杯だ!」

 テレビモニターにはまだ犠牲者の遺体搬送の映像が続々と流れていた。(後略)*4

 まるでブラックジョークのような光景である。著者が言うように、報道は不幸を伝えることが多い。それゆえ、一部の報道関係者は感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。

視聴率第一主義

 民放が視聴率を気にするのは、周知の事実だろう。しかし、NHKでさえも視聴率を非常に気にすると言う。スポンサーなどいないのだから、不思議な気がするが。

関係者に聞くと、NHKのニュース番組でも毎日、前日の放送の視聴率グラフをデスクが眺めて、どこで視聴率が上がったか下がったかで一喜一憂しているという*5

  このような状態では、視聴率が取れない堅いニュースが流しづらくなる。例えば、ある日の『おはよう日本』ではトップニュースから一二分間、サッカーの本田選手のことを特集した。元航空幕僚長田母神俊雄氏はその日の『おはよう日本』を見て「これでは国民が馬鹿になります」と批判した*6。私は初めて、田母神氏の意見に少し賛同したい気分になってしまった。

 また他のニュースも安倍首相の発言特集とソチ五輪特集だけであった*7。これではスポーツ報道番組と大差がないのではないか。テレビの政治報道の問題と言うと偏向*8が取り沙汰されるが、そもそも政治や社会問題を十分に取り上げないという問題もあるのだ。

 視聴率というものは数字である。思うに、数学が嫌いな人間は多いが、多くの人間は数字の持つ力には弱いのかもしれない。数字は、視聴率は極めて分かりやすい物差しになる。

 NHKのデスクが視聴率に一喜一憂するのは、おそらくそれが彼らの出世、評価に関わるからだろう。「視聴率は低いですが、良い番組です」という製作者と「とにかく視聴率は良い番組です」という製作者がいた時、上司は後者を高く評価するのだろう。

 どうしてこうなってしまうのか。良い番組かどうかは人によって、評価が異なる。だが、視聴率の高低は事実である。それ自体について議論の余地はない*9。だから、視聴率が高いかどうかで番組を評価すれば、楽には違いない。視聴率を見ていればいいだけなのだから。いわば、判断基準を自分の価値観ではなく視聴率に依拠しているのである。スポンサーがいないNHKでさえ、このような状態に陥ってしまうのは数字というものが持つ魔力の証左に思える。

 考えてみれば、本では部数の多さが、ツイッターではフォロワー数やリツイート数が評価の基準や宣伝文句として用いられることがある。数字依存はどのメディアでも言えることなのかもしれない。 

偽物の「リアリティ」

 関西テレビのローカルニュース番組で、情報提供者の代わりに代役を立てた事件があった。情報提供者がどんな形でも体を映しての出演を拒んだので、代わりにモザイクを掛けたスタッフの姿を流したのだ。ただし、音声は情報提供者本人のものであった。何故こんな行為をわざわざしたのかというと、映像的リアリティーを取材者が追求したためだと著者は推測する。音声だけではリアリティーに欠けるのだ*10。そんな取材者の心理を著者はこう切って捨てる。

つまり取材者は偽物を本物と偽り、「本物のリアルさ」を"捏造"したのだ*11

 偽物のリアリティとでも言えばいいのか。違う観点から考えると、フィクションの世界では偽物のリアリティを構築していくことが往々に求められる。リアリティがないという批判は的はずれなときもあるが、正当なときもあるからだ。しかし、ニュース番組では、偽物のリアリティは不要であるどころか有害である。偽物だということが明らかになった際に、それ以外の部分の信憑性すら疑わしくなってくる。

煩雑過ぎる編集

 2012年、大津市いじめ事件報道の際、いくつかの放送事故が起こった。まず、匿名であるべき被害者及び加害者の名前を記した文書がそのまま映し出された事があった。実際に流された時間は僅かなものであったものの。また、文書を黒塗りしたのに元の字が透けて見えてしまったケースもあった*12

 この原因の背景を筆者は以下のように解説する。数分間のニュースを作るためには、何本もの関連映像と何人もの編集者が必要になるという。また、ニュース番組では放送ギリギリに編集するべき映像が入ってくることもある。その過程で、チェックや連絡がうまく行き届かなることがあるというのだ*13

 また、モニターの関係で、モザイクや黒塗りの映像の際、チェックした人間には問題がなく見えることがあるという。家庭用のモニターで見ると、モザイクが甘かったり、黒塗りが透けて見えたりするのに。意外なことにテレビ局の編集用モニターは家庭用よりも解像度がよくないことがあるというのだ*14

 個人的なことで、恐縮なのだが私は細かいことが嫌いな人間である。こうして、記事を書いているときにも脚注をつけたりするのが面倒で仕方ない。どうやってテレビ番組が編集されるのかという著者の説明を聞いているだけで嫌になった。このような状況では放送事故が定期的に起こるのは当たり前である。この部分についてはかなり実務的な内容が書かれており、テレビマンだった著者ならではと言えよう。

終わりに

 私があまり詳しくない分野ということもあり、かなり純粋な内容紹介の部分が多くなってしまった。最後に、全体的な印象を書いて終わりにする。冒頭で言ったように、水島はテレビマン出身である。その為、業界内の描写は濃密だが、テレビの未来については楽観的すぎるきらいがあるかもしれない。また、ネットへの対抗意識はありありと伺える。さらに、反権力志向あるいはメディアの権力への監視を重視する人物でもある。人によっては、やはり身内びいきではないかと感じるかもしれない。

 とはいえ、著者のジャーナリズムに対する姿勢そのものは真摯だと感じた。だからこそ、やらせや捏造や情報操作が許せないのだろう。仮にテレビの視聴率がこのまま下がり続けても、すぐにはテレビ局の影響力が極めて小さくなることはないはずである。またネットのジャーナリズムもまだ十分に育っているとはいい難い。単に視聴率を追求するのではなく、良質な番組を作ろうとするテレビ業界人が増えることを願うばかりである。

 

文責 雲葉 零

引用文献 

『内側から見たテレビ やらせ・捏造・情報操作の構造』 水島宏明

 本稿の引用はすべて同書からであるため、引用部分については書名を略し、ページ数のみを付した。

*1:裏面の著者紹介欄より。

*2:ちなみに著者は凶悪事件の際に、テレビ出演者が通り一遍のコメントする姿を「許されない」病と評する。著者は、凶悪事件を「許されない」と言うだけでなく、貧困や孤立などの構造的な原因を探るべきだと主張するのだ。私も同じように感じていたので、意見の一致に驚いた。マスコミ批判とテレビの凶悪事件報道がどちらも浅い批判に留まりがちなのは皮肉である

*3:20から21ページ。

*4:21ページ。

*5:53ページ。

*6:50から51ページ。

*7:53ページ。

*8:現在の具体性に即して言えば、安倍政権に批判的であるか、親和的であるか。

*9:統計的な信頼性の問題などはあるだろうがここで言いたいのはそういうことではない。

*10:93から98ページ。

*11:102ページ。

*12:116から117ページ。

*13:123から127ページ。

*14:118から121ページ。

アメリカ禁書ランキングトップ10 2016年度版 後編

ランキング一位 「This One Summer」を読んで

 一位の「This One Summer」をKindleで購入して読んだ。そもそも同作が禁書になった理由を振り返ろう。LGBTの人物が登場し、薬物が使用され、不敬*1で、「大人びたテーマと相まって性的に露骨」だと考えられたからであった。

 本題に戻る。以下、その四つの理由に注目して、感想と内容を述べていく。同作にはスラングや口語が多く、読み解くのに少し苦労したのでちょっと誤解しているところもあるだろうが。

 最初に結論を述べてしまうと、「This One Summer」はそれほど過激な作品だとは思えなかった。もちろん、何が過激かというのは人によって違うのであるから、以下詳しく説明する。

 「This One Summer」の主人公は二人の少女、ローズとウィンディである。ローズはウィンディよりも一歳半ほど年上である。*2はっきりとした年齢描写は、一見したところ見つからない。絵柄や扱われ方から判断すると、10歳前後ぐらいだろうか。ちなみにローズの年齢を一〇代前半ぐらいと、判断している書評もある*3

 過激でないと述べた主な理由は、上述した禁書の理由に主人公が二人があまり関わっていないからだ。脇役と言っていい人物たちが、禁書の理由となる行動を起こし、主人公二人は遠巻きにそれに関わっているという感が強い。

 例えば、作中でダンカンという少年が恋人を妊娠させ、揉め事を起こす。ダンカンは主人公二人が利用する雑貨店やビデオショップの店員で、ローズは彼に恋心をいだいている。しかし、主人公二人とダンカンとのつながりはそこまで強いものではない。単なる客よりは関係性があるにしても、顔見知り程度のものだ。

 主人公二人が薬物を使用するということもないし、汚い言葉遣いも主に主人公二人以外の人物、具体的に言えばダンカンの周囲のティーンエイジャーが使う場面が多い。

 敢えて主人公二人が主体的に関わる重大な不敬あるいは非行を挙げれば、ローズが母親と激しい口論をした場面ぐらいだろうか。年齢制限があるホラー映画「エルム街の悪夢」を、ビデオ店で借りる場面もあるが、大したこととは思えない。 

現代アメリカにおける禁書運動の分析

 次に、現代アメリカにおける禁書運動を全体的に把握していこう。便利なことに、アメリカ図書館協会は、そのことについてネット上で発表している。例えば、以下の図のように。上部のランキング上位10位の紹介は前回行ったので、下部を中心に見て欲しい。

 

http://www.oif.ala.org/oif/wp-content/uploads/2017/04/OIF-graphic-2000.jpg

 *4

 下部左側の「Where are books challengnd? 」はどこで禁書の申し立てが行われるかを表している。公的図書館が49%と一位だが、二位の学校と三位の学校図書館を合わせた値は50%でそれを上回る*5

 その右隣上部の「Who challenges books?」は誰が禁書の申し立てを行っているかを表している。一位は親で42%。31%を占める二位のパトロンという単語は分かりづらいが、おそらく学校のパトロン、支援者のことだろう。三位は行政で10%、四位は図書館職員と教師で合わせて8%である。

 この二つの情報を合わせると、子供にその本を読ませないために、禁書運動の多くが行われていること事が分かる。

 その下の「Why are books challengnd? 」は禁書申し立ての理由を表している。これまでのようにパーセンテージがないので分かりづらいが、見た目の大きさの順に列挙しよう。もっとも全てではないが。

sexually explicit 性的露骨さ

offensive language 不快な言葉遣い

violence 暴力

LGBT

religious viewpoint 宗教上の観点

nudity ヌード

author 著者 

日本との比較

 私が調べた限り、現代日本の禁書に関する網羅的な統計は見つけられなかった。しかし、子供の本を読む自由、そして性表現が重大な争点になっているという点などで日米共通しているようにみえる。例えば、日本ではやや古くなるが、以下のような悪書追放運動の事例がある。

 

背景にあったのは1950~60年台の少年非行。その原因として、過激な性や暴力が描写された本や雑誌が挙げられた。各地の自治体は青少年健全育成条例を定めて、そうした本や雑誌を「有害図書」に指定し、販売のしかたを制限した。

 白ポストはそうした「有害図書」を家庭内に持ち込ませないようにと、兵庫県尼崎市で1963年、ドラム缶を白く塗って置いたのが始まりらしい。長崎県の設置はその翌年で、全国でも先進的な取り組みだったようだ。

*6 

  幸いなことに、「有害図書」回収は現代の日本ではごく一部に留まっている。だが、各地の青少年保護育成条例によって、青少年に限定して一部の図書が規制されている。例えば、東京都青少年の健全な育成に関する条例では、第8条1で以下の基準を満たした、図書*7を知事が不健全図書として指定できることを規定している。

 

「(前略)その内容が、青少年に対し、著しく性的感情を刺激し、甚だしく残虐性を助長し、又は著しく自殺若しくは犯罪を誘発するものとして、東京都規則で定める基準に該当し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあると認められるもの」

 

 また第八条の二では、以下のように規定している。ちなみに、この条文に出てくる第7条2号では実写を除いた、漫画、アニメなどの画像に限って規制が行われている。よって、この条文では実写映画や小説のたぐいは対象になっていない。

 

「(前略)その内容が、第七条第二号に該当するもののうち、強姦等の著しく社会規範に反する性交又は性交類似行為を、著しく不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を著しく妨げるものとして、東京都規則で定める基準に該当し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあると認められるもの」

 そして不健全図書として指定された図書は、第9条で青少年向けの販売などが規制されている。第8条を読めば分かるように、性表現や暴力性を焦点にして、子供に限定して、規制が行われているのである。アメリカの禁書運動と、理由が似通っていることが分かる。

 あえて違いを言うならば、LGBTや宗教を理由にした、規制や禁書運動は日本ではあまりないことだろうか。ただ、同条例の第7条2号では近親相姦の描写が規制されている*8。方向性はかなり異なるが、性的タブーを禁止するという点では、やはり通じるものがある。

 

表現の自由の最前線

 例えば、大統領批判を理由に、アメリカ政府が図書館から書籍を取り除くということはあまり考えられない*9。また、仮にそのようなことが起きても、かなり激しい批判が起きるだろう。あるいは日本での政府批判も同じだろう。民主主義国家では、表現の自由の重要性について、正面から否定する政治家はほとんどいないし、国民もある程度理解しているからである。

 だから、先進国での禁書や検閲の焦点は子供向け書籍に移っているのだろうし、その主体は政府だけでなく民間も担っている。いや、むしろアメリカの場合、民間団体のほうが積極的に禁書運動を起こしているように思える。あくまで、私的な行動なので、好き勝手に動けるからだろう。日本でもPTAなどの民間諸団体が禁書運動に関わっている。

 このような状況は中国やロシアなどに比べれば遥かにましなのは確かである。日米やあるいは西ヨーロッパ諸国の政治状況と禁書や検閲という単語は、あまり結びつかないようにさえ思える。

 とはいえ、ましだからといって、表現の自由が完全に保たれているのかどうかには注意をしなければならないだろう。子供に対する規制だから、大人は関係ないと言っても、子供だっていつかは大人になるのだ。

 子供時代に何を読んだかによって、どのような本を読むのかに違いが出るのは当たり前である。私自身、子供時代に読んだ本で、いまだに印象に残っている本はいくらでもあるし、いまだに好きな作家もいる。本は、文章は思考に影響を与える。どんな大人になるのかにさえ、違いが出るだろう。

 むしろ、そうだからこそ、子供向け書籍をある種の大人たちが規制しようとするのではないのか。LGBTの登場人物が全く出てこない作品しか読んだことのない読者が、大人になって主人公がセクシュアルマイノリティである作品を読んだらどう思うだろうか。違和感を感じるのではないか。あるいはLGBTの人物が出てこない作品しか読んだことのない、子供が現実にそのような人物と接触したらどうだろうか。

 度々引用してきたアメリカ図書館協会のサイトから、以下の警句を引いて本記事を締めくくる。

 

検閲はほとんど気づかれないほどに微妙なものでありうる。露骨で明白なものでありうるのと同じように。しかし、それにもかかわらず有害である*10

 

参考文献

‘This One Summer,’ by Mariko Tamaki and Jillian Tamaki - The New York Times


東京都青少年の健全な育成に関する条例

上記はいずれも最終閲覧が2017年9月15日である。

*1:ちなみに前回記事を投稿した後に、知人から不敬とは一体何なのかという質問を受けた。確かに、神に対する不敬とか、政府に対する不敬ならば意味がはっきりしているが、単に不敬では意味が漠然としている。しかし、翻訳元のアメリカ図書館協会「Top Ten Challenged Books」では、不敬、原語だとprofanity単体で使われている。辞書で調べたところ、神に対する不敬を暗に意味することもあるらしいが、自信がなかったので単に不敬と訳した。

「This One Summer」を読んで、類推するところ、おそらく社会常識とか、良識に対する不敬を暗に意味しているのではないか。また、ローズが親と言い争うシーンがあるので、親に対する不敬も意味しているのかもしれない。必ずしも神に対する不敬というわけでもないようだ。少なくとも、同作で宗教的な要素はほとんど感じられなかった。

*2:「This one summer」19頁。

*3:

‘This One Summer,’ by Mariko Tamaki and Jillian Tamaki - The New York Times

*4:画像の著作権アメリカ図書館協会に属する。 Artwork courtesy of the American Library Association。

Top Ten Challenged Books: Resources & Graphics | Advocacy, Legislation & Issues

*5:学校と学校図書館を分けている意味は正直いって、断定できない。だが、以下の記事を見ると、おそらく教科書に対する禁書運動を指しているのではないか。

New Florida Law Lets Residents Challenge School Textbooks : NPR

*6:

「白ポスト」王国、長崎の特殊事情 「有害図書」回収に同行してみた - withnews(ウィズニュース)

*7:余談だが同条例で優良図書を指定しているのも面白いところだ。

*8:ただし、前述したように実写や小説は対象になっていない。

*9:もっとも、トランプ大統領ならやりかねない気さえするのが怖いが。

*10:

Banned Books Q&A | Advocacy, Legislation & Issues