ソガイ

批評と創作を行う永久機関

第26回文フリ東京及び『サブカルチャーと生存 第一次生存報告書』収録「滝本竜彦 『NHKにようこそ!』 読書会」についての感想

 2018年5月6日に開催された第26回文フリ東京にソガイとして参加した。前回の文フリではフリーペーパーしか配布しなかったが、今回は定価500円で『ソガイvol.2 物語と労働』を販売した。今更だが、わざわざソガイのブースを訪れてくれた皆様に感謝。

 50部刷って、取り置き含め当日で28部が売れたから、はじめての販売としてはまずまずではないかと思う。ちなみに、これだと少し赤字が出てしまうのだが。

 売り子として感じたのは、身もふたもない話だが知人は大切ということである。だいたい10部と少しは知人が買ってくれた。最もいくら知人がいても、文フリに来ない、文芸に興味がない人ならばこうはならないが。

 算盤勘定を離れた感想だと、自分の本を買ってくれる、読んでくれる読者の方を実際に目にすることができてよかった。(知人には悪いが)特に、見も知らない方に対してその印象を抱いた。

 日によるが、ソガイのページビューはだいたい20から50ぐらいだろうか。大手サイトから見れば、誤差のような数字なのだが、自分としてはそれなりに多くの人々に見てもらえていると思っている。しかし、いくら数字が出てもピンとこない面もある。目の前で自分の文章を読まれるということは、ブログを今読んでいる人がいることと実感として全く違うのである。

 書き手、売り手としての感想はこの辺にして、次は読み手、買い手としての感想を書こう。と言っても、二冊しか買わなかったのだが。また、二人で運営しているので、あまり他のブースを見て回る暇がなかったという事情もある。さらに言えば、文フリで毎回感じるのだが、ブースの場所が分かりづらいのだ。ちゃんとたどり着いても、出店者によってはサークル名が大きく書かれたものがないからである。尤も、これはソガイでも似たようなものかもしれないが。

 本題に戻ろう。買った本はサブカルチャーと生存『サブカルチャーと生存 第一次生存報告書』とCato Triptyque『『風刺画秘宝館』より日本の風刺画』である。ちなみに後者はフランス語からの翻訳本であり、私は文フリの際に翻訳本を一冊買うようにしている。

 とはいえ、今回は前者を取り上げる。

購入した『サブカルチャーと生存 第一次生存報告書』についての感想

 

 このブログで言及することはなかったが私は結構な滝本竜彦ファンである。アニメ化、漫画化された『NKHにようこそ!』や映画化された『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』はもちろん『ムーの少年』『僕のエア』『超人計画』などの比較的マイナーな著作も読んだことがあるぐらいだ。

 この冊子を買った理由も『NHKにようこそ!』、ひいては滝本竜彦についての座談会が掲載されているからである。この書評も概ねその座談会に沿って話を進めていきたい。

 そのためにまず『NHKにようこそ!』のあらすじをざっくりと紹介しよう。この小説の主人公、語り手は大学を中退した引きこもり佐藤達広である。彼の前に突然、現れた少女が中原岬だ。幾度かの遭遇を経て、彼女は自分が引きこもり脱出法を知っていると語り、佐藤を謎の「プロジェクト」へと誘う。この二人に加え、佐藤の高校時代の先輩であり、初体験の相手でもある柏、いじめられっ子のオタク山崎など一癖も二癖もある登場人物たちが物語を織りなしていく*1

 この冊子では『NHKにようこそ!』を読んだことがある、もっと言えばファン向きに座談会がなされているように感じられた。実際、作品の体系だったあらすじは紹介されていない。

 全体的なことを評すると、滝本竜彦、及び彼の作品に対してなかなか説明が詰まっている座談会である。前述したように、滝本ファンだと自認している自分でも完全には知らないような作家の経歴について触れられていた。また、当時まだ幼すぎたので、私がよく知らない時代背景も解説されている。(『NHKにようこそ!』が書かれたのは2001年、初版発行はその翌年である。)他の作品にも触れられているので、作家評としても読める。

 この座談会で面白いのは、現状の滝本の迷走ぶりが、冒頭部分で書かれていることだ。いわば、オチが最初に暴露されているわけだ。

 滝本の迷走を端的に表すのが「岬を召喚する瞑想」である。何やらギャグのようになってしまったが、たまたまである。これは小説タイトルではなく、滝本が以下のHP上で公表した誘導瞑想用の音声である。

pol.tokyo

 また、それ以前にも滝本は「岬を召喚する方法」というエッセイを公開している。

 

pol.tokyo*2

 これらの文章や音声はジョークのたぐいではない。つまり滝本は本気なのだ。彼は突然、突然こうなったわけではない。2003年に単行本化された『超人計画』やその後に掲載された『僕のエア』からその兆候は現れていた。『NHKにようこそ!』では精神的な不安が一定の距離を持って時にはユーモラスに書かれていた。だが、『超人計画』は極めて自虐的なエッセイであり、『僕のエア』文庫版では友人であり解説の海猫沢めろんに「痛い*3」と評されている。『ムーの少年』に至っては良く言えば難解、悪く言えば訳のわからない作品と評するしかない。

 彼は近年、商業的な作家活動を行っていない。完結した小説を出版したのが2011年、雑誌に未完作の一部を掲載したのが2013年。これらを最後に、滝本は商業的な出版活動を行っていない。別に病気であるわけでもないのに。

 もちろん、商業的に売れるだけが作家としての目標ではないが、滝本にとっては望んでない結末だったように思える。どうして滝本は迷走してしまったのか。もちろん、作家の経歴から細々と説明することはできる。

 一例を挙げよう。滝本はイベントでファンの女性と知り合い交際を開始し、2005年には結婚にこぎつける。しかし、奇怪な行動を取る妻に耐えかね数年で結婚生活は破綻した。*4これも理由の一つとして考えられるだろう。

 しかし、もっと端的な言葉で根本的な説明ができるのではないか。そんな考えを私は以前から漠然と抱いていた。その言葉は「不器用」である。だから、以下の文章をこの冊子で読んだ時には同じような考えの人がいるものだと感慨が深かった。

きみ それに滝本は作家としてそのあたりのファンの期待に答えていくということが実はあまり得意ではない。むしろどちらかというと、彼は不器用さが魅力的な人であって。そもそも、器用な人ならば『NHK~』が失敗作だったとしても、新しい小説をすぐに書けるはずですよ。(後略)

*5

  滝本が『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』や『NHKにようこそ!』のような商業的に売れる作品を書き続けていくことは技術的には決して不可能ではなかっただろう。しかし、彼は自分の劣化コピーを量産することをよしとするような作家ではなかったのだ。

 また私生活上の苦闘と創作を切り分けて考えられる作家でもなかった。だからこそ、私は不器用な彼に惹かれて書評まで書いているのかもしれない。

 

*1:このあらすじは原作、つまり小説のものである。私が参照したのは文庫版の『NHKにようこそ』(2005)角川書店 瀧本竜彦 であるがおそらく単行本との差異は殆どないと思う。

*2:いずれも2018年6月7日 最終閲覧

*3:『僕のエア』(2012)文藝春秋 滝本竜彦 p190

*4:『僕のエア』p193~199

*5:サブカルチャーと生存 第一次生存報告書』(2018) サブカルチャーと生存 p74

文学は役に立つ 石原千秋『近代という教養 文学が背負った課題』書評

 いちおう私はこういったブログを運営しているわけだが、正直な話、文学研究や批評の類の文章を読んでいても、よくわからないことが多い。それは、自分の頭が追いついていないせいだ、と思って後ろめたさのようなものを感じていた。いや、その意識自体はいまも変わらないといえば変わらないし、事実そうなんだろうと思うが、いまは、そのわからなさも楽しめるようになってきたと思う。

 わからない、わからないを繰り返していくうちにふと、自分の経験なんかも思い出されながら、あ、なんかわかってきたかも、と感じられる瞬間がくる。それは拙いし独自の理解かもしれないが、これがけっこうおもしろい。やがてその内容を忘れてしまっても、頭か心か、とにかく自分のからだのどこかにその残滓は残っているものらしい。

 とはいえ、それこそ私の頭が追いついていないせいなのかもしれないが、これはわざと難しく書いているのではないか、お高くとまっていないか、と思わずにはいられない本も少なくない。もっとも、その著者にとって私などは想定されていない読者である、というだけの話なのかもしれない。それなら構わないのだが、難しく書けば高級になる、という意識がどこかしらで働いている結果なのだとすれば、それは由々しき事態だと思わないでもない。

 批評でも文学でも、最近はそれらのものが読まれなくなってきている、と嘆く声はしばしば耳にするが、もしその種の「選民」意識というか、「高級」意識があるというならば、それも仕方がない話なのでは?と自戒も込めて、思ったりもする。(だからといって、通俗的に書けと言っているわけでもない。念為)

 

 私はこういった畑の端くれにいちおういる人間だから実際のところはよくわからないのだが、近代文学は難しい、と一般的には思われているのだろうか。たしかに、背景にある文化の違いがあるから、そこで戸惑うことはあるだろう。夏目漱石を読むときの東京と現代小説の東京は、もはや別物である。それ以外でも、たとえば『坊っちゃん』における東京と松山の距離を、いまの感覚で読んではならないだろう。また、多少言葉の使い方や語彙に時代差がある。

 そういった問題があるにはあるが、実感として言わせてもらうと、むしろ現代の純文学と呼ばれる小説よりはよほど、漱石だったり芥川だったり、なんだったら横光利一のようなちょっとクセもある?近代作家の作品のほうが読みやすいと思う。(もっとも、漱石といえば『吾輩は猫である』のイメージがあるだろうが、あれはなかなか難しい作品だろう。)

 個人的に、やっぱりもっと多くのひとに近代文学を読んでほしい。おもしろいうえに、古い作品を読むことで現代に生きる自分を相対化できるというか、もうひとつの目を養うことにも結果的にはなると思うし、なにより、これらの作品は文庫で大変安く買うこともできる。小説への入り口として、これ以上のものはないと思う。

 そんな私の漠然とした思いを果たしてくれる本を、最近見つけた。 

 

近代を見直すことは、自分がいる〈いま・ここ〉ではない、さまざまな「地点」に立って近代とは何かを炙り出しにすることだ。古典を学び、歴史を学び、社会を学び、世界を学び、そして近代そのものを深く学ぶことが、私たちが寄って立つ「地点」を基礎固めしてくれる。学問がそれに当たるだろう。しかし、学問の殻に閉じこもっていたのでは、前には進めない。現在の学問は専門の領域に閉じられているからである。いやしかし、学問は閉じられているだろうか。閉じられた学問という見方は虚構ではないだろうか。(10頁) 

 

『近代という教養 文学が背負った課題』(石原千秋 筑摩選書)は、まさに日本の近代文学が始まったころの明治文学を、主には「進化論」*1という、これまた欧米列強に追いつけ追い越せで近代化していった明治の日本を支えたイデオロギーを横に据えながら、丁寧に述べたものである。付け加えると、引用した文章からもわかるように、ここにはアカデミズムに対する批判の姿勢も含まれている。

 全八章に渡る本書を通読すれば、明治文学を読む際の心構えのひとつができるようになるだろう。ついでに、といってはなんだが、現代日本を生きる私たちにとってもまったく無縁ではあり得ない進化論について、そのアウトラインを理解することもできる。限りなく小さく見積もっても、一石二鳥である。

 丁寧に論が進められている本書であるが、だからといって簡単なわけではない。私はこの著者の『読者はどこにいるのか 書物の中の私たち』(河出ブックス)を読んだこともある。この本も、読者論のアプローチを実践的に体験することのできる良書だと思うが、決して簡単ではない。専門書や学術論文からの引用もある。しかし、流れに沿いながらそれをゆるりと解説してくれるので、そこではいったんスピードを落とし、理解ができたと思ってからもう一度引用の箇所を読んで、再び進む、という読み方ができる。しかも、周辺知識も適宜補ってくれるので、理解も進みやすい。入門にもうってつけだし、また近代文学を読み慣れたひとであっても、より広い視野を得ることができるだろう。

 

 どの章もおもしろいのだが、個人的に、白眉は第二章「進化論の時代」ではないかと思う。

 まず前提として、幾度として語られる「進化論的パラダイム」をはじめとする「パラダイム」。これがもっとも大きな力を発揮するのは、それが「自然」となったときである。もはやそこに疑問を挟むものはいない、というその状態が、一番強いのだ。小説も社会のなかで書かれる以上、その社会を覆うパラダイムから完全に自由でいることはできない。それが、ここでは「進化論」なのである。

 ここでいう「進化論」とは、ざっくり言ってしまえば、すべての事象は時間を追って改良されていき、新しいものが一番良い、という考え方だろうか。とりわけ近代では、それは競争によって引き起こされるものだった。いまだってそうだろう。資本主義の市場経済とは、環境に適応して「進化」した者が勝つ。その一言に尽きるとも言える。近代は、この進化論の考え方に覆われた時代である。

 著者は、まず大学の講師としての経験から、進化論と時間の関係について語る。現代では、電車のダイヤに代表されるように日本人は時間をよく守る、という言説があるかもしれない。(その対比として、沖縄のひとが時間にルーズであることが沖縄県民の特徴として取りあげられたりする。)しかし、明治期においてはむしろ、欧米人の方が時間に厳しかったようだ。第一、江戸時代に、一般庶民にまで精巧な時刻を示す時計が普及していたとは思えない。

 それもそのはずで、西洋において時計が発明されたこと、時刻の支配が統治の象徴として機能したこと、安価な時計が流通し、それを身につけることがエリートの証となったことがそもそも大きい。それまで、日が出ている時間と沈んでいる時間、という不定時法を用いていた日本にそれがもたらされたこと自体が、近代化の象徴なのだ。では、日本においてそれはどこで国民に植え付けられたか。「鉄道・工場・学校」である。なんだか『監獄の誕生』(ミシェル・フーコー)を思い起こさないでもない。

 では、なぜ西洋では時間が重視されたのか。それは「生存競争が激しい」からだ、と当時の実用本は語っている。ここでぬるりと引用されるのが、夏目漱石の『草枕』の一節である。漱石の文明批判として有名なその一節を引用し、「時間による人間疎外(非人間化)」への批判を読み取るその刀で、今度は『行人』にみられる、速度への恐怖を読み取る。

 ここから、「進化」という言葉の裏にひそむ「競争」というワードを、当時の自己啓発本や、家族のあり方の変化、詰め込み教育からゆとり教育あぶり、そして脱ゆとり教育電電公社の完全民営化とKDDIの設立、きわめつけにグローバリゼーション、といった、様々な事象を持ち出してあぶり出す。このあたりの流れるような論理は見事だ。

 さて。だがここからが凄い。次に出てくるのは「優生学」である。

 いまさら説明するまでもないだろうが、優生学とは「不良」な遺伝子を持つ者を排除することで、その人種の健康は保たれる、という思想である。進化論で有名なダーウィンの従兄弟のゴルトンが提唱したとも言われるこの思想は、ナチスドイツのユダヤ人虐殺の根拠になったことで有名だろう。しかし、日本も無縁ではない。丘浅次郎『進化論講話』(明治37年)がその権威だそうだが、要約すれば、「虚弱な体質の者を医療で助け、その者が子どもを作ると虚弱は遺伝していく。するとめぐりめぐって日本人は弱くなる。だから淘汰するべきだ」。現代からすればトンデモ思想である。

 だったらこれは、あくまでも日本の過去のものでしかない、ということになるだろうか。いや、つい最近も話題になったではないか。日本にはつい最近まで、「優生保護法」という法律があった。

 1940年に「悪質なる遺伝性疾患」を断つために制定された「国民優生法」を受け継ぎ、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」と条文にあるこの法律が制定されたのは、1948年。つまり戦後である。1996年に「母体保護法」となって、ようやく、障害者に対する差別的な条文が削除された。たった20年ちょっと前のことである。*2

 では法律がなくなって優生思想もなくなったか、と言えば、それも違う。たとえば、出生前診断や、出生前の遺伝子治療。倫理上問題があるとして議論が紛糾しているこれらの「技術」だが、素人目に見ても、そのような議論が巻き起こることは容易に想像ができたはずだ。それでも医学が、そのような技術を生み出してしまうのは、やはり優生思想=善、医学の「進化」=善というパラダイムに支配されているからではないだろうか。

 論はその後、歴史の記述についてに進む。これはざっくりまとめれば、歴史は、あとから各々の出来事を恣意的に選択して作った因果関係によって作られるものでしかない、ということ。その因果関係がリアリティを持つかどうかは、その時代の「読者」の感覚に委ねられているにすぎない。これは、小説においても言えることだ。

「近代という時代を因果関係を持った連続した歴史と認識させる装置」、それが「進化論」だったのである。*3これにより、歴史はあるひとつの方向、つまり時間の流れに支配されて変わるもの、と認識されるにいたったのである。

 最後に利子についての話もあるのだが、これについてはざっくりと。利子とは、時間が進むにつれて大きくなるものだ。時間と利子は、切り離せない関係にある。ここではベケットの『ゴドーを待ちながら』が引用されている。)

 以上を踏まえた結論は、「文学史」の否定だ。文学史もまた、進化論的パラダイムに支配された物語だからだ。

 

 そこまで長くはない章で、これだけの内容がつまっている。参照元もさまざまで、有名どころだけでも、うえに挙げた以外に、真木悠介、ギデンス、レヴィ=ストロースなど。

 近代文学だけの問題に止まらない。そして近代だけにも止まらない。入門、概観として優れた文章だと思う。

 もう一度引用しよう。

 

 近代を見直すことは、自分がいる〈いま・ここ〉ではない、さまざまな「地点」に立って近代とは何かを炙り出しにすることだ。古典を学び、歴史を学び、社会を学び、世界を学び、そして近代そのものを深く学ぶことが、私たちが寄って立つ「地点」を基礎固めしてくれる。学問がそれに当たるだろう。しかし、学問の殻に閉じこもっていたのでは、前には進めない。現在の学問は専門の領域に閉じられているからである。いやしかし、学問は閉じられているだろうか。閉じられた学問という見方は虚構ではないだろうか。(10頁) 

 

 文学が、いったいなんの役に立つ?

 そのしたり顔の問いに対する答えには、とりあえず本書を読んでからでも遅くはないのではないだろうか、と言っておく。*4

 もし、この本を読む時間すら惜しい、と自分から問うたくせにそう答えるひとがいれば? 「進化論的パラダイム」は本当に現代にも跋扈しているんだな、とフィールドワークができた、とでも考えておけばよいだろう。

 その目があるか、ないか。それだけで、これからの生き方はやがて大きく変わっていくだろう。

 文学は、閉じた学問ではないのだ。

 

 

※引用は、石原千秋『近代という教養 文学が背負った課題』(筑摩書房 2013年1月)より

 

(文責 宵野)

*1:厳密に言うならば、ここで語られる「進化論」は社会進化論であろうし、また、進歩史観も包括する。

*2:ニュースでは、実際に「優生保護法」に則って手術をした医者がインタビューに応じていた。曰く、そのときはなにも疑問を抱かなかった。言われたとおりに手術をしてしまった。国への責任転嫁にも思えるかもしれないが、きっと素直な告白だったと思う。しかし、『近代日本一五〇年』(山本義隆)を最近読んで、現在にいたるまでの日本の権力と科学技術の関係を知ってしまった身としては、医学もまた、権力の手先となっていたことを再認識せざるを得ない。また、最近『BLACK JACK』(手塚治虫)も読んでいるが、医学博士でもある手塚治虫があの戦争のあと、権力を嫌悪する無免許医師というキャラクターを生み出したことについても、もう一歩踏み込んで考えたくなる。

*3:歴史は時間が進むのに沿って改良されるものであるとする進歩史観の考え方は、いまやパラダイムになっているだろう。しかし、近代以前の日本では儒教的な思想が広まっていた。儒教では、古代中国の堯舜の治政を理想とする。つまり、いまでは当たり前のように受け取られている進歩史観は、この国には近代になってからようやく入ってきたものだった。

*4:本書に書かれている内容に限らず、文学と社会は切り離せないものである。私は、物語のひとつの形でのある「文学」(極端な話、世の中の大抵の事象は「物語」のかたちになってはじめて、認識されていると言える)というものには大きな力があると思っている。それは正と負、両方向の力である。文学は、ときに権力と結びついて利用され得るものだ。

 タイムリーなだけに、残念ながら付け加えないではいられない。アニメ化も決まっていたライトノベル二度目の人生を異世界で』についての問題だ。中国や韓国に対するヘイトスピーチ的な内容の、作者の過去のツイートが明るみに出て大きな問題となっているこの作品であるが、アニメ化が決定するくらいであり、売り上げ自体は好調だった。もちろん作者のプライベートとその作品は、ある程度わけて考えるべきだと思う。たとえば、同性愛者の主人公の話を書いたからその作者は同性愛者である、と決めつけるのはあまりにも短絡だ。この手の読み方、読まれ方がいまだに横行しているのは残念なことである。蛇足ではあるが、そもそも同性愛者であることがスクープとなってしまう社会自体が、進歩史観がいかにあやしいものであるのかを証明していまっているような気もする。

 閑話休題。しかし、「ある程度」というのは「ある程度」であって、まったく切り離すこともできないだろう。(そもそも、0か100か、という二項対立的な発想そのものが、種々の議論を泥沼化させているのではなかろうか。)今回の件は、そのツイートの過激さや内容(第一、まがりなりにも作家という、言葉を売り物にする者があのよう言葉や文字の使い方をする、誤解を恐れずに言えば、言葉や文字を「犯している」ことなどは、まったくの問題外だと思う。)と作品の設定(明らかにかの大戦を思わせる時代に、戦地で膨大な数の人間を斬り殺した軍人が、大往生したのちに異世界に転生する、というもの。)から判断するに、分けて考えることは困難なように思われる。それでも、作品としておもしろければいいのか。もちろんそういう意見もあるのだろう。

 たしかに、思想は自由だ。どんな過激なものであったとしても、それはこの国の憲法によって保障されている。しかし、それは内心にとどまる限りに、である。ここを忘れてはならない。だれでも気軽に発言ができる時代だからこそ、自らの思想を公の場に出すという行為の結果を、もっと真剣に考えねばならない。作家は、その作品が流通するに当たって、どうしたって自らの名前がついて回るのだ。作者は簡単には死なない。

 しかし、私が今回、この作者以上気になったのは、これを出版しようとした版元、そしてアニメ化に踏み切ろうとした制作陣である。彼らもまた、おもしろければいい。そう判断したのだろうか。いや、それ自体はこの際不問にしよう。しかし、だとしてもこの設定で流通させてしまったこと、そしてSNSの発言ひとつで炎上することが、それこそ火を見るよりも明らかなきょうび、作者のSNSの発言を確認しなかったこと、など。ここにおいて「編集」は、いったいどこに存在しているのだろうか。まともに中身を読んでいないのではないか。そのように疑えてしまうくらいだ。もちろん、それ相応の信念があってこの作品の書籍化に踏み切ったというなら、それも表現・出版・思想の自由として尊重されるものだと思う。(もっとも、これらの自由は他の基本的人権と抵触するときには、比較衡量や公共の福祉の観点から制限されることもある。)しかし、もし彼らが今回の出来事をまったく予想すらしていなかったのだとすれば、あまりにも杜撰、と言わざるを得ない。これでは、なんのために編集者がいるのかわからない。あるいは、この版元は校閲もまともに機能していないのではないか。

 ネットでの反響の数字を見て、この作品を書籍化した出版社や編集サイドは、書籍として公の場にそれが流通する、という事態にはらむ影響力の強さや、あるいは権力といったものに、あまりにも鈍感で無頓着だったのではないか。いくら、最近のそういった類の小説群がほとんど消費財のようなものになっているとはいえ――いや、はっきり言わせてもらえば、むしろ大衆的なものこそ強く権力と結びつき、受け手のなかでそれが培養されていくことだってあるのだ。

 今回のことは、特殊な事例と見なすべきではない。著名な作家や文筆家、学者のなかにもあやしい人物は少なくないからだ。

 だからこそ、私は今回の件を経てさらに、本書の著者が次に目指そうとしている「近代文学研究から社会への発信」の仕事、その姿勢に強く期待を寄せ、また自分もそのような眼を持ち続けよう、と心に誓った。

饒舌な感想『BAMBOO BLADE』

 最近少し更新が滞っていましたので、リハビリではないけれども、軽めの感想記事を書いていきたいと思います。

 

BAMBOO BLADE』(以下『バンブレ』)はやや古いかもしれないが、アニメ化もしたことがありますし、けっこう有名な作品なのではないでしょうか。僕は高校時代に、レンタルDVDを借りて観たのではなかったでしょうか。それはともかく、どうしていまさらこの作品を? という疑問が想定されるかと思いますが、それは先日、ブックオフさんがウルトラセールをやっていたことが理由です。そこで、地元にあるブックオフに『バンブレ』全14巻、しかも一冊108円で揃っていることを知っていた私は、これはいい機会、と思い、まとめ買いをしたわけです。

 これはどんな話なのか、と言いますと、題名が、逐語訳すれば「竹刀」となることからもわかるように、剣道ものです。家が剣道の道場であり、その実力も折り紙付きである高校1年生、川添珠姫は、しかし彼女にとって剣道とはお父さんの手伝いでありまして、だから剣道について明確な目標はなく、部活動にも入っていないのでありました。室江高等学校の剣道部は、いたって普通のゆるい部活。ちゃんとした部員がいまやほとんどいない、零細運動部でした。顧問である石田虎侍(コジロー)は、自身も剣道経験者で、学生時代には相当打ち込んでいた剣道バカだったのですが、いまやそんな熱意は見る影もなく、ボロアパートでカップ麺をすすり、生徒のことよりも自分の生活のことばかりを考えている、貧乏先生。ちなみに担当は政治経済。そんなコジローが、かつて自分が破った先輩、石橋。その先輩も教師で、剣道部の顧問をしているのですが、とにかく、その先輩とある賭けをすることになる。それをきっかけに、室江高等学校剣道部にはさまざまなメンバーが集まっていき、剣道を通し、各々が自分の道を見つけていくく――。

 というわけで、ある面では、これは数多ある「女子高生部活もの」ということもできるのでありましょう。かなり露骨に、男は排除されますし。(なんて、原作者も言ってはおりますが、ところどころ、男にスポットライトがあたる話もあるのです。)そしてまた、「スポ根もの」とも、もしかしたら言えるのかもしれない。

 ところで、この物語の主人公は、いったいだれなのでありましょうか。川添珠姫。それは間違いないでしょう。第一巻の表紙ですし。また、物語も、彼女にスポットの当たったものが多い。彼女の成長。それはこの物語の大きなテーマです。それは認めたうえで、しかし、この物語のもうひとりの主人公とは、顧問であるコジローだとも言えるのです。

 そもそも、この物語の目標といいますか、テーマといいますか、とにかく、軸となるものはなんなのか。あの、週刊少年ジャンプの有名なスローガン「努力・友情・勝利」(順番は忘れた)なんかはどうでしょう。これも悪くはない。事実、そういった面もあるにはあるのです。ただ、『バンブレ』について言えば、これは葉っぱの部分。根っこ、幹は、またこれとはべつ。

 「大人(になる)とは?」。これが、この物語の大きなテーマです。物語の合間合間で繰り返し問われるこの問い。物語に一貫して流れているこの問いが、この物語を支えているのです。そしてこれが、「ダメな大人」であるコジローがもうひとりの主人公である理由といいますか、裏付けのようなものにもなるのです。

 こうしてみると、なんてあおくさいテーマでありましょうか。しかし困ったことに、このようなテーマを愚直に描こうとしている作品が、私はけっこう好きなのであります。

 コジローは、はっきり言いまして、ダメな大人です。なにかに本気で打ち込むこともなく、だらだらと適当に生活しています。(しかし、なんだかんだ彼は教師としての仕事はしっかりこなしているのだから、それはたいしたものだ、と思います。)そんなコジローも、かつては剣道に打ち込んだ日々があった。そのときの熱意を、自分はいつから失ってしまったのだろうか。大人になったから? たしかに大人になれば、好きなことばかりを考えてはいられない。お金や仕事、はたまた老後。考えなければならないことは山ほどある。それと妥協しながら生きていくしかない。しかし、そんな自分の姿は、子どもたちからみるとどんなふうに映るのだろうか。子どもたちは、そんな大人に憧れるだろうか。本当の大人って、そんなものなのだろうか。

 この物語では、ふたつの大人像が表れている。

 ひとつは、成人。つまり、時間が勝手に与えてくれる大人としての地位。ひとは、成長すれば勝手に大人になる。たとえばこれは、「大人になるっていう事は/ビールが飲めるって事だ/それだけだ」(14巻)なんて台詞にも見られる。大人になると、考えることが増える。そして、いつしか先のことを考えて、力をセーブするようになる。明日は仕事だから、朝早いから。子どもはちがう。常にいまに全力なのだ。それをコジローは「幼い強さ」(8巻)と言い、かつての自分の強さだとした。対して、いまの自分は「大人の弱さ」でしかない、と。

 ここで、もうひとつの大人像が生まれる。こっちが重要で、それはすなわち「大人の強さ」。

 こういった物語のなかで、「大人」というものは、現実に妥協し、自分を捨て、情熱を失った、社会に揉まれて擦り切れた存在、として描かれることは少なくない。「もしそれが大人になるということなら、僕は大人になんてならなくていい!」的な台詞は、漫画、アニメ、ドラマに限らず、よく耳にする決め台詞でもあります。しかし、正直いいまして、私はこの種の台詞があまり好きではない。はっきり言いまして、それはただの居直りに過ぎないのではなかろうか。あるいは大人の観点から考えると、自分の現状は大人になってしまったことに起因するのだ、と大人というものに責任を転嫁しているだけではなかろうか。そんなふうに思ってしまうのであります。いや、小学生くらいまでは、こういうのもまあ好きだったこともあったのでしょう。しかし、大人というものに責任を押しつけること、これは非常に簡単で、楽なことなんですね。なぜなら、批判的に語られる「大人」というものには、それでもぜったいに拭い去れない特権といいますか、高みから見下ろす、その台のような文脈、こんなときは横文字を頼ったほうのがしっくりくる、コノテーションがあるわけです。要は、安全圏。それはずるいのでは?

 これは大人と子ども、というものには限らない話ではありますが、なにかひとつのものを礼賛するときに、なにかそれに対置するもの、いってしまえば悪のサンドバッグを用意してそれを殴り続けること。それは感情的にはこれ以上のものはない、といったところではあるのです。それは僕もわかります。けれども、いったん落ち着いてみると、それはけっこう醜悪なものでもあります。『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子)ではありませんが、殊に「大人」という、ある意味これは逃れられぬ場所に置かれたとき、そのなかで苦闘する姿勢というものに、いま現在の私にはまだまだそれが欠けているからでしょうか、憧れを抱いているのであります。(逆にいえば、いじめやらそういったものからは逃げたっていい、と思っている次第でもあります。)

 かつての情熱を失ったコジローが、いまいちど立ち上がるために必要なことは、かつての「幼い強さ」でがむしゃらに突き進んでいた自分を思い出すことではなくて、いまの自分にはまだない、「大人の強さ」を見つけることなのだ。現在の自分のダメさを自覚したうえで、彼はそういうのであります。さきほどはダメな大人と言いましたが、それに気づいた彼はよほど立派なのでは、と思ったりもする。

 このときの大人というものは、それこそ、子ども・若者の目標としてある存在、ということになりましょう。彼が目指すべきはそこにある。そのために彼は、かつて自分が情熱を捧げた剣道、そして目の前で、剣道を通じて成長していく子どもたちを見るのであります。物語上、彼が教師である所以もそんなところにあるのかもしれない、とは深読みも過ぎる、というものかもしれませんが。

 そして、コジローはその大人というものを、いろいろなものから学んでいく。数年前に酒屋をたたんでコンビニを経営している両親や、厳格な指導方針を貫く師範。そういった、自分よりも年上のひとからももちろん、学ぶ。

 同時に、これは象徴的なんだろう、と思いますが、彼は若者たちから、大人の姿を学ぶといったことも多い。ここではふたつのエピソードを紹介したい。どちらも、多少のネタバレにはなってしまうかもしれないが、それでも実際に読んだときの心の動きは変わらない、と思っている。

 ひとつ。コジローの先輩が臨時で顧問を務めている、もうひとつの学校、鎌崎高校との合同稽古から。

 鎌崎高校はいわゆる不良校で、タバコを吸っている生徒も少なくない。その剣道部は、部長の岩堀を筆頭にあまりにも不真面目。岩堀は、かつては真面目な剣道少年だった。警察官であるおじがの剣道の実力者であり、そんなおじに連れて行かれた試合で女子に敗れたときにも腐らず、鍛錬を続ける少年だった。しかし、自分を負かした少女が、いとも簡単にほかの女子に敗れる。そのとき、彼のなかでなにかが終わった。以来、真面目に努力するのは、真面目にやって負けるのはかっこ悪い。適当にやってれば負けるのが当たり前。適当にやっていればだれからも期待されない。そんな「軽い」人生を志向するようになった。

 岩堀の提案で、2校は男女混合の七本勝負、という変則的な練習試合をおこなうことになる。このときの室江高校は、珠姫や勇次、聡莉という実力者はいるものの、初心者も少なくなく、お世辞にも強いとは言えないチームだった。鎌崎高校でも、頑張れば勝てるくらいのレベル。少なくとも、全敗なんてことはあり得ない。しかし鎌崎高校は、大将の岩堀に回るまでに六連敗。苛立ちが募る。しかし、それはいったいなにに対する苛立ち?

 大将戦。岩堀対珠姫。岩堀は簡単に二本を取られて負ける。これで試合は終わり、になるはずだった。しかし岩堀は、面紐がほどけてたから、と難癖をつけて取り直しを求める。「俺は一体何を言ってるんだ…?」。岩堀自身、自分がなぜそんなことを口走っているのか、わからない。

 コジローと珠姫はそれを受け入れる。再戦。敗れる。胴の紐が緩かった。再戦。敗れる。手首の返しが間違っていた。再戦。敗れる。自分の本来の戦法が取れていなかった。再戦。敗れる。違う。再戦。敗れる。違う。再戦。敗れる。……

 自分はこんなものじゃない。本当はもっとやれる。もっと早く動ける、もっと鋭い太刀さばきができる、腕が振れる。もっと強いはずなんだ。なのにどうして。俺はこんなものじゃない。格好を気にしてクールを気取っていたはずの岩堀が、人目もはばからず絶叫する。できない、自分に対する苛立ち。本当はもっとできるはずなのに、どうしてできない? それは努力を怠ったから。格好つけたふりして、いまに打ち込むことをしなかったつけが回ってきたから。それはだれのせい? 全部、自分のせいではないか。

 そんな岩堀に、コジローは声をかける。「若いうちから手を抜く事なんて覚えるんじゃない」「まだガキなんだから後先考えず全力でやってりゃいいんだよ」「今楽ばっかしてると」「大人になってから本気の出し方忘れちまうぞ」。

 これは、岩堀に対する助言であるのと同時に、自分に対する戒めでもあるのだろう。その後、コジローはこのときの事を振り返って、岩堀の試合を見ていて、自分のなかでなにかが変わった、と言う。そのとき自分が思い出したのは、たぶん、かつての自分が持っていた「幼い強さ」、それとはまた少し違う「なにか」。

 

 もうひとつ。沢宮エリナの物語。バラエティ番組を中心に人気沸騰中の芸能人である彼女でありますが、彼女には、相当な剣道の実力者である、というもうひとつの顔がありました。彼女の出番は物語の終盤にあたるのですが、この終盤の、通称「バニ学編」、実は賛否両論といいますか、むしろ評判があまりよくなかったりします。主要人物が脇に置かれてしまう、演出がくどい、といったところでしょうか。まあ、わからなくはない。

 しかしながら、この「大人とは?」というテーマからすると、この話はどうしても外せない。

 エリナ、本名は山田梅子。彼女の剣道の物語には、ふたりの人物が大きく関わっている。ひとりは父。もうひとりは、一度も勝てなかった宿敵、榊心(さかき・うら)。

 彼女の父親こそ、剣道をやりたい、という彼女の背中を後押しした人物でありまして、だれよりも彼女の剣道を応援してくれたひとでありました。試合に負けて腐っていたエリナに、負けて悔しいと思えるなら、それは好きって証拠だ、とさとす。そして言う。「負けても悔しくなくなったら/その時はもうやらんでええからな」、と。

 そんな、だれよりも彼女のよき理解者であった父は、中学生のときに亡くなる。そのとき、家計を支えるために一度はやめようと剣道。しかし、父の思いを知り、努力を続ける。やがてその努力は、一度は敗れたウラに勝つために。しかし、最後の試合でも彼女には及ばない。幾ら努力しても、彼女には勝てない。そして、エリナは竹刀を置いた。

 そんな彼女におとずれた、ウラとの再戦の機会。ウラもまた、べつの理由で竹刀を置いていた。これはバラエティ。番組には、当然台本も用意されている。自分に求められいる役割は、全力を出すことではない。それをわかったうえで、彼女は覚悟を決めて、この収録に挑む。

 結果として、彼女のとった行動は、番組の構成をめちゃくちゃにするものだった。仕事をする者として、それは許されるおこないではない。それは理解している。以後、すべての仕事を受けられなくなっても、仕方のないことだと自覚している。芸能界を辞めろ、と言われるなら辞める。それだけの覚悟も要する。その上で彼女は、父との約束。番組の演出のためとはいえ、剣道でわざと負ける、などという剣道を、父の想いを冒涜するような行為もしたくない。負け続けてきたウラに、これ以上負けるわけにはいかない。だから、全力で戦う。と同時に、父の言葉を思い起こして、「勝てとは/一度も言わなかった」「お父さんは/剣道を楽しめと言っていた」「ただ/楽しめと」。

 剣道が大好き。ウラに負け続けるわけにはいかない、という意思。芸能人としての立場。仕事人としての責任。周りにかける迷惑。そのうえに、剣道を楽しめ、という父との約束。いくつかは相反するそれだけのものを、つまり、山田梅子としての自分と、沢宮エリナとしての自分、その両方を彼女はすべて受け入れ、そして背負っている。そのうえで、戦っている。

 彼女の戦う姿を見ているコジローは、思う。

「エリナは/この場に様々なものを背負い立っている/仕事から逃げるわけでも/投げ出すわけでも/忘れたわけでもなく」「その身に抱え込み/立っている」「こどものようにただがむしゃらなわけではなく/しっかりと自分と周りを見て/考え/覚悟を持って立っている」「それが自身の剣道に現れている/現れ始めた」「全てを受け止め/なお全力を尽くす」「それが――大人の強さ」

 「幼い強さ」の発展型としての「大人の強さ」。すべてのものを受け止め、そのうえでまだ前に進もうとする、気概と覚悟。ここでは、「幼さ」と「大人」は対立するものではない。この「大人の強さ」を持つものの姿こそ、若者が憧れる姿ではないだろうか。だから、エリナの試合を見ているものは、下は珠姫たち高校1年生、うえは業界の酸いも甘いも知り尽くしたベテランのプロデューサーまで、みな、胸を打たれる。打たれざるを得ない。その姿はきっと、あらゆるひとが目指すべき「強さ」なのだから。

 「大人の強さ」を教えてくれたのが、沢宮エリナという若者であった、ということは、非常に象徴的といいますか、おもしろいところと言えましょう。

 

 さて、このアウトラインでみると、『バンブレ』という物語は、コジローを中心に見るのならば、情熱を失って適当に生きているコジローが、岩堀の姿から、まずはかつてのがむしゃらな「幼い強さ」を振り返って、まだ名前はわからない「なにか」をつかみ、沢宮エリナの姿から、その発展型である「大人の強さ」を教えられる。そういった物語なんだ、と言うことができるのかもしれません。

 回復の物語であると同時に、成長の物語でもある。なんともまあ、見事なプロットではないでしょうか。ここではさすがにやりませんが、『昔話の形態学』のウラジーミル・プロップ、あの31の機能分類も、けっこう当てはまるのではないでしょうか。

 

 さて、しかし、ここにはもうひとりの主人公がいました。川添珠姫です。ここでは彼女の物語にまで触れる紙面の余裕はありませんが、当然、彼女だって重要な存在です。そして、珠姫の物語とコジローの物語は、ただ並行しているのではない、交差するのであります。

「大人の強さ」を知ったコジロー。教師でもある彼は、珠姫にいったいどのような影響を与えるのでしょうか。「大人の強さ」を持つ者は、若者に憧れる者である、とさきほど言いましたが、彼が「教師」という職業であることも相俟って、それが大きなヒントです。コジローが「大人の強さ」を知った、というところだけでは終わらない。そこで彼は、ひとつの「達成」をも成し遂げるのです。

 さんざん物語の中身を話してきましたから、まあここくらいは、「読んでみてからのお楽しみ」ということにしておくことにしましょう。

 

 

 まったくの余談ですが、鎌崎高校剣道部の副部長、近本成美。彼女、ちょい役なんですけど、すごくいいキャラをしています。好きです。

 (文責 宵野)

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梅崎春生『怠惰の美徳』をだらだら書評する。

  文庫で三〇〇ページ程度のこの本には短編、エッセーが数多く収録されている。よって、一つ一つの文量は大したものではない。特に短い作品など二ページほどしかない。ちょっとした空き時間に、気楽に読み進められる本である。

 「怠惰の美徳」*1という表題作からも分かるように、多くの作品には作者の怠惰的な考えが影響している。そのことも相まってか、作者の語り口は独特で味のあるものだ。例えば、表題作のエッセイで梅崎は「私は滝になりたい」*2と書いている。ぼんやりと怠けているからだというが、滝を見て怠けていると感じる人は古今東西を探してもそういないのではないか。

 解説、荻原魚雷の言には思わず頷くところがある。

 (前略)なぜ滝なのか。生物ですらないではないか。おかしい、やはり本物は違う。そう簡単に尻尾をつかませてくれない。*3

 さらに「怠惰の美徳」で梅崎はこう記す。

 

 そういえば、私はどちらかというと、仕事が差し迫ってくると怠けだす傾向がある。(中略)これは当然の話で、仕事があればこそ怠けるということが成立するのであって、仕事がないのに怠けるということなんかあり得ない。すなわち、仕事が私を怠けさせるのだ。*4

 

 ありきたりな考えならば、仕事を怠ける人間がいた時、責任を負うのは人間である。しかし、梅崎の考えは違う。人間ではなく、仕事が悪いのだ。確かに、仕事がなければどんな怠け者も怠けることはできないわけで一理ある。

 こんなふうな作者なので、この本には適当に(良く言えば自然体で)書いたのではないかと思われるエッセーや短編が多い。いかにも文学然とした硬い作品は最後に収録されている「防波堤」ぐらいだ。

 例えば、「近頃の若いもの」というエッセーでは、だんだんと筆が滑り、遂にはそれを自身で認めてしまう。挙げ句に最後の文章は「やはり酷暑に仕事するものではないようだ。*5」である。もっとも、私はそのような梅崎の作風が気に入ってしまったのだが。

 特に私が気に入ったのは「飯塚酒場」というエッセーとも、小説とも言える作品である。この作品では第二次大戦中の、飯塚酒場の奇妙な様子が描かれている。戦時期を描いた文学というと陰惨な印象がつきまとうが、この作品はそのような戦争文学とはかなり色合いがちがう。

 戦争の影響で一人一回あたりの酒量が制限され始めたが、飯塚酒場は値段の割に多くの酒や肴を提供していた。そのため、酒場には行列ができ、さらにはその長さが伸び始めた。それにつれて、行列ができ始める時間も早くなっていく。

 酒を飲み終えた客はただちにまた行列に並び始める。というのも、一回あたりの量が制限されているからである。しかし、再び店に入れば酒が飲める。杜撰な規制だが、客たちにはありがたかったろう。

 そのうえ、酒もすばやく飲まなければならない。何故ならば、一度に一定の人数を入場させその全員が退店しない限り、新しい客を入れないからだ。さっさと飲まないと、酒に飢えている連中から凄まじい非難を受けるのは火を見るより明らかだ*6

 こういう事情なので酒を楽しむというより、一刻も早く酒を飲み走って行列にまた加わる。そんな競技をしているような具合になった。この状況を梅崎は以下のように評する。

 すなわちこの酒場においては、早く飲めるものでないと、どぶろくをビールみたいにあおれるものでないと、入場の資格はなかった。それが資格であるからこそ、その資格の最上を競おうという気持ちになるのも、ある程度はうなずける話だろう。*7

 何がある程度うなずける話なのか。理解に苦しむのはきっと私だけではないだろう。こんなふざけて書いているのか、それとも本気なのか判断が難しい文章も梅崎の魅力の一つかもしれない。あるいはおふざけと本気が入り混じっているとも言えるかもしれない。

 話は大きく変わるが、チャールズ・ブコウスキーに『勝手に生きろ』という自伝的な小説がある。ちょうど時代は「飯塚酒場」と同じく第二次大戦中である。しかしながら、主人公に戦争はほとんど関係がない。無計画に職を変え、酒を飲み、女と遊ぶだけである。

 そんな『勝手に生きろ』には、主人公と知人が競馬場の窓口へ全速力で向かう場面がある*8。職場から退勤すると、窓口の締切がぎりぎりになるからだ。駐車場に車を停めた後、二人は競い合うように窓口へと全力で走る。怠惰な人間たちが、滑稽なほど一生懸命になる瞬間がある。梅崎が描く酒場の競争とそっくりだ。

 梅崎やブコウスキーのような人間ばかりだったら、日米は戦争になどならなかったのではないか。皆が酒場や賭場に向かってかけっこをしていたかもしれない。まるでオリンピックのような、平和の祭典である。梅崎を真似て、訳の分からない事を言ってみた。

 

参考文献

梅崎春生『怠惰の美徳』(2018) 中央公論新社

チャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ』(2007) 河出書房新社 都甲幸治 訳 

*1:「」を使うと作品名、『』を使うと書籍名を表すという出版上の慣習があるらしい。表題作を語る時には便利である。

*2:16ページ。

*3:302ページ。

*4:17ページ。

*5:72ページ。

*6:ネット上で語られるラーメン二郎のロット乱しという概念を彷彿とさせる。ラーメン店では一度に複数人分の麺が茹でられる。他の客より、食べるのが遅いとそのペースが乱れるというものだ。もっとも、私は実際に行ったことはないし、そもそもこれはネット上の冗談らしいのだが。

*7:252ページ。

*8:『勝手に生きろ』128から131ページ。

世界を旅する文学 第二回 朝鮮民主主義人民共和国 パンジ 『告発』

知られざる北朝鮮文学 

 第二回の舞台は朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と呼称)である。北朝鮮に対する日本人の一般的な印象は、著しく悪いだろう。拉致問題、核ミサイル開発問題などを対外的に抱え、そのうえ内部では抑圧的な政治体制を敷いてるのだから。特に現在(2018年4月)は、度重なるミサイル発射のニュースが記憶に新しい。

 では北朝鮮文学に対する印象はどうだろうか。そもそも、北朝鮮の文学など少しも知らないという方が多いのではないだろうか。私もこの記事を書く前はその点について全く無知であった。しかし、あの国にも文学が、それもプロパガンダ以外の文学が存在しているのである。

『告発』が世に出るまで

 それが本書『告発』*1である。しかし、タイトルから分かるようにこの小説は北朝鮮の体制を厳しく批判したものである。当然北朝鮮国内での出版は望めない。そのため、出版の経緯は特殊なものである。なんと作者パンジ*2は脱北する親戚にこの本の元となった原稿を預けたのである。このような経緯を経て、『告発』は2014年に韓国で出版された。

『告発』の内容

 『告発』は七つの短編から構成されている。この記事では私が特に気に入った短編二つを取り上げる。 なお収録されている小説は80年代後半から90年代なかばのものであり、現在とは少し事情が異なる部分がある。

 『伏魔殿』の主役は夫、孫娘と共に列車に乗っていた老婆である。運悪く、彼らはそこで一号行事に遭遇する。一号行事とは、最高指導者の金日成が当地を移動することである。そのため、彼らを始めとする乗客たちは、乗換駅で足止めを食らった。その時間はなんと、32時間以上である。しかも駅は人で溢れ、食料も乏しい。

 そして老婆はこの駅から歩いていける弟の家を一人で訪ねることを決意する。老婆は妊娠した娘のために熊の肝を譲ってもらう約束を弟としていたのだ。また自分がいなくなれば、残された二人が食料の配給を多く受け取れるという考えもあった。

 駅を出た老婆は乗用車の隊列と遭遇する。これこそ、金日成の車列であった。彼は、列車だけでなく車も使っていたのである。そして、車の中へと半ば無理やり連れ込まれた老婆は彼と対面する。笑みを浮かべた金日成はどこへ行くのかと尋ね、老婆が答えると車で目的地まで送っていくと申し出た。恐縮した老婆は金と一緒の車で移動することは拒んだが、別の車に乗り移った。

 その数日後、老婆の夫は村の外の拡声器から意外な声を聞く。それはコメントを求める記者たちに、老婆が語ることを強要された金日成に対する感謝の言葉であった。

「……父なる首領様におかれましては、私をついに乗用車にまで乗せてくださり車を走らせてくださいました」*3

 しかし、そもそも金日成がいなければ老婆は何の苦労もなく移動ができていたはずである。まさしく、自分でつけた火を自分で消す、マッチポンプそのものである。そのうえ乗換駅では孫娘を始めとする多くの人々があまりの混雑のために怪我をしていた。

 この酷い現実が感動的な美談に作り変えられてしまったのだ。老婆が「残虐な魔術*4」と印象深い言葉で形容する金日成の魔力めいた権力ゆえに。

 『舞台』はその金日成の死去が背景にある作品だ。主要人物は二人の親子。保衛部員*5である父親は、息子の不届きで上司から叱責を受ける。金日成に捧げる花を取るため息子が谷に*6行った際、ある女性と手を繋いだのが不謹慎だというのだ。しかもその女性の父親は政治犯であった。

 憂鬱な気持ちになった父親は、ある時読んだ息子の陳述書を思い出す。その陳述書は軍人時代の息子が反省文として書いたものである。

 そこにはある日の演劇の訓練*7が描写されていた。上官は舞台自感、つまりリアリティがないと息子たちの芝居を批判し、追加で訓練を命じる。しばらくしてから、様子を見に来た上官は皆に大変だろう、腹は減っていないかと尋ねる。すると殆どのものは力強い口調で否定した。

 息子はこれを大変不思議に思った。上官がいない時は皆が不平不満を漏らしていたからだ。さらには何故か、父親が保衛部員である自分や、党の指導員である同僚だけが上官に対して不満を隠すことができなかった。

 この陳述書の内容も相まって、家に帰った父は息子を問い詰める。これに対する息子の反駁は圧巻である。長くなるが、引用しよう。

 

(前略)本当の生活とは自由なところにのみあるのです。抑圧、統制するところほど、演劇が多くなるのです。なんとひどいことでしょう。今、あの弔問所では、すでに三ヶ月も配給を貰えず飢えている人々が哀悼の涙を流しています。花を採ろうと歩き回って毒蛇に噛まれて死んだ幼児の母親が哀悼の涙を流しているのです。ね?庶民たちがこうして流す涙まで、流し方を知る名優の涙と同じにしたててしまうこの現実が恐ろしくないのかということです」*8

 

 この言葉を聞いた父親は激怒したが、ちょうどその時停電が起きた。そのため彼は、金日成の弔問所に慌てて行く。自動車のヘッドライトで明かりを照らすためである。

 そこでは金日成を批判したとして夫が政治犯収容所に入れられた女性までが涙を流していた。このありえない事態に背筋が寒くなり、遂には精神が錯乱した父親は自ら命を断つ。『舞台』という題名には北朝鮮という国家そのものが一つの舞台と化していることが表現されているだろう。

現実と非現実の融解

 本作ではこの二編のように非常に北朝鮮らしい、政治的な小説が収められている。その内容は一読して信じられないようなものであるが、同時に北朝鮮では起こってもおかしくはないと思わされるようなものなのだ。

 もっともあくまで本作は小説である。問題は実際にあったかどうかではなくて、リアリティ(本作の言葉を借りると自感)があるかどうかだろう。あるいは説得力がないか、どうかだろう。北朝鮮という異常な場所が舞台なために、異常な事態も非現実的と断じることができないのだ。

 仮に本作のような内容を日本の作家が書いても、それは完璧な作り事、虚構だと読者に分かってしまう。逆に言えば、『舞台』で描かれているように、北朝鮮そのものが作り事めいているということだ。あるいは現実と非現実の境がはっきりとしていない*9その国を描いた小説に対して、リアリティがないという批判は簡単ではない。

 作者パンジが意図しているかどうかは分からないが、本作はそんな特殊な状況をうまく利用しているように思える。皮肉を込めて言えば、これこそ社会主義リアリズムかもしれない。あるいは非現実的なものが現実的に描写されるという点では、マジックリアリズムと言えるかもしれない。

韓国との差異

 また、この連載で前回取り上げた姜英淑『ライティングクラブ』との落差を大きく感じた。簡単に紹介すれば、この作品では日本人が見ても違和感がないようなありふれた日常が描かれている。そこに政治性はあまり無いように思える。同じ文化圏でも、政治体制の違いで全く異なる文学作品ができあがってしまうのだ。

 政治的でない文学は、ある程度政治的自由がある人間にしか書けないということかもしれない。例えば、作者パンジは北朝鮮の朝鮮作家同盟に所属しているという。この組織の詳しい内実は知らないが、所属していないと作家活動ができない、あるいは不利益を受けるということは十分考えられる。

 前述したようにこの作品に収録されている作品は極めて政治的なものである。超抑圧的な政権のもとでは人々は政治のことを考えざるを得ないのだ。体制に協力するにせよ、しないにせよ。そして、そんな国にも文学は存在していた。

 次回は鴨緑江を渡って、中国を取り扱う。北朝鮮ほどではないにせよ、この国も文学と政治が深く関わっている。

参考文献

『告発~北朝鮮在住の作家が命がけで書いた金王朝の欺瞞と庶民の悲哀~』パンジ著 萩原遼 訳 太陽出版 2016年

*1:正式名が長いので、以下この略称を用いる。

*2:パンジとは朝鮮語蛍の光という意味だという。この作家の存在を報道した、韓国の月刊誌がつけた名前である。

*3:160ページ。

*4:162ページ。

*5:簡単に言えば、警察官

*6:献花のために市内の花壇が取り尽くされてしまったのだ。誇張表現のようにも思えるが、北朝鮮では実際に起こりそうなことでもある。

*7:軍人なのに何故演劇をするのかというと、要はプロパガンダのためである。

*8:192ページ。

*9:とはいえ、日本であれ、アメリカであれ、パプアニューギニアであれ人間社会に演劇、嘘、それも悪い意味での演劇、嘘は付き物だろう。北朝鮮の問題は、その演劇が多すぎるところにあるのかもしれない。

『式の前日』感想

 ストーリーテラーというのは、こういうものを生み出すことのできるひとのことを言うのだろうな、と思ったものだった。

 このマンガがすごい!2013(オンナ編)の第2位にもランクインしたこの作品は、表題作の『式の前日』をはじめとした6編の短編からなっている。私が持っている単行本の帯によると、「胸のずっと奥のほうに沁みる、泣けるよみきり6篇」。

「泣ける」という触れ込みには散々だまされてきたせいか、そのように言われるとかえって最初か疑ってかかる悪癖があるのだが、この作品については、少なくとも私については間違いではなかった。とはいっても、実際に涙を流した、というのではない。「泣ける」という空気というか温度というか、そういったものを文字通りからだ全体で感じる。そんな読書体験だったように思う。(とは言ってみたものの、今回読み直して、本気で涙を流しそうになった。まだ涙もろくなるような歳ではないと思うのだが。)

 短編だから、ひとつひとつの話は当然短い。壮大な設定もない。なんだったら、どこにでもある日常の風景を描いている。ただ、それを少しだけずらしているところに、このひとのうまさがある。ストーリーテラーとは言葉面とは異なり、実のところプロットのうまさである。私のような人間が使うのもおこがましいというか、なんというか自分で鼻白んでしまうのであるが、黙説法の妙。ああ、語りの技法にもプロットの領分まで効果を及ぼすものがあるのだなあ、と感じた。

 

 いつもは正直ほとんど気にしないのだが、今回はネタバレに気をつけつつ、いくつかの作品を紹介していきたい。

 

 『式の前日』

 表題作であり、デビュー作。この16頁の短い作品は、「明日 結婚する」というモノローグに、縁側で横になっている男のコマで始まる。社会人3年目になるこの男を起こしに来る女。そのやりとりから、ふたりが気の置けない関係であることがわかる。ふたりの話題に上がるのは、ドレスや披露宴の席、題名からわかるように、翌日の結婚式についてことだった。結婚式の前日、という独特の感傷的な雰囲気を感じながら、しかし日常の生活の風景が淡々と描かれていく。ひとつ屋根の下にひとりの男とひとりの女。そして結婚式。こんなおあつらえ向きの風景には、しかしひとつ、小さなずれが潜んでいた。デビュー作とは思えない、非常に完成度の高い作品。

 

 『あずさ2号で再会』

 個人的に一番「くる」かもしれない作品。「おとうさんをまってる」。セミの鳴き声のなか、視点は集合住宅の外からだんだん中へと入り、畳のうえで仰向けになっている少女。「わたしにはふつうのおとうさんとおかあさんがいます」。ひとりで留守番をしている少女に母から電話がかかってくる。母はなにかとても心配している様子。そこに、ドアを開けてひとりの大柄の男が入ってくる。切れ長の目に、刈り上げの金髪。いかにもやんちゃそうなこの男は、どうやら「元旦那」つまり少女の父であるようだ。

「タバコ買ってくる」と言ってそのまま帰ってこなかった、というその男を、少女は慣れた様子で家に招き入れる。会わぬ間に大きくなり、できることもずっと増え、そして母のようになってきた娘の成長に驚きながら、ふたりは親子の触れあいなどもしながら、のんびりと時間を過ごす。

 

 『それから』

 拾われた猫の視点から語られる。本書中、最も短い作品。題名も相俟って、おそらく夏目漱石の『吾輩は猫である』が下敷きにあるのではないか、と思う。猫以外不在の部屋に、主である男の義兄からの留守電が鳴り響く。姉が救急車に運ばれている、という内容だった。仕事から帰ってきた男だが、疲れ切っている様子で、留守電に気付かない。知りたるのは名前もないこの猫のみ。いちおう知らせてはくれるのだが、当然男には猫の言葉が解せない。

 この『それから』という題名、なにも夏目漱石の同題名の作品にあやかっているだけではない。(いや、実際のところ漱石にちなんでいるのかは知らないが。)なにの「それから」なのか。

 

 ここでは触れなかった作品も、それぞれにそれぞれの叙情性があって、陳腐な表現になってしまうが、漫画としても当然だが、優れた短編小説のごとき味わいも秘めている。

 ひとつだけ補足すると、どんでん返しというものを期待すると肩すかしを食らったかのような印象を受けるかもしれない。というのも、(もちろんこれは眉唾もので聞いてもらえれば十分なのだが)Amazonのレビューで、そのようなきらいが見えたのだ。どうやら話題が先行してしまったようで、それこそミステリー小説のようなどんでん返しを期待していた読者が少なくないようなのだ。(経験則として、Amazonのレビューに限らず、ネットの声というものは、もちろんこのブログも含めて、あまり気にしすぎない方が良いと思う。もちろん、PCだったり車だったり高い買い物なら話は別だが、本は、専門書等を除けばそこまで高いものでもない。飲み会を一回我慢すれば、漫画なら5冊くらい買えるだろうし、それこそ古本屋の100円本なら30冊くらい買える。直感はけっこう大切だと思う。非合理だ、というひともいるだろうが、直感は、無意識下でおこなわれる帰納法演繹法の繰り返しの結果ではないか、と与太事を言っておく。閑話休題

 最初にも言ったけれども、これは「ずらし」の妙なのだ。

 

 当時、この作者は「買い」だ、と思っていたのに、それからいろいろ迷走やら忙殺やらしていて結局読めていなかったことに、いまさらながらに気付いた。実のところ、最近はあまり漫画を読めていないので、今度こそ、ほかの作品も読もうと思う。

 

(文責 宵野)